第十六話 医者の言葉
俺は天井に手を伸ばしていた。
別になんかあった訳ではない。言葉に表せない不安と自分の自信がなんだかとても憎い。
伸ばしてた手を下ろし、腕で目を塞いだ。
一人で黄昏たい気分だ。
かずまや大貴やかずきや泰希や玲音は今何をしているんだろう。どうせ遊んでんのかな。あいつらと遊びたいな。三日後みんなで来てくれるらしい。
案外三日ってなげーな……。我慢だ我慢。
病室のドアをノックする音が聞こえたのでカーテンを開けて見てみると、さやが立っていた。
「さ、さや!」
体を起こしたいけど、医者に安静にしててくださいと言われているので、起こすのはやめた。
「体調はどう? バームクーヘン持ってきたけど食べる?」さやは紙袋から高級そうな箱を取り出した。
「う、うん。体調は全然普通かな。バームクーヘンは今食べれないから、さやだけ食べなよ」
「じゃあ今度一緒に食べよ。この冷蔵庫に入れてもいい?」
「うん。ありがとう……」
言うべきなのか言うべきじゃないのか。言うとしても今のタイミングなのか。わからない。でも誰かに言いたいこの気持ち。
「あのさ、さや……」
「今日は……」
二人の声が重なった。
「あぁ、ごめんごめん、なんて言おうとした?」
「こちらこそごめんね。私はそう大した話じゃないけど、豊くんはなんで言おうとした?」
「い、いや別に俺も大した話ではないよ」
「そっか。真剣な顔をしていた気がしたから、声が被った時はちょっと驚いたよ」安心したのか、さやは子供のように優しく微笑みながら言った。
「真剣な顔してたかな? 俺も驚いて思考停止してたんだと思う。だからさっきの顔は思考停止した顔ね。覚えておいてね」
「なにそれ。おもしろい」今度は大人のような愛想笑いをしてみせた。
「んでさっきさやはなんて聞こうとしたの?」
「今日はなに食べたのかな〜って。ただそれだけ」
「今日の朝はね、そう! 今日の朝ほんと酷くてさ。パッと見ケーキみたいなのが出されてさ」
「ケーキ!? もしかして今日退院?」
「そうそう! 俺も今日退院できるのかと思ったよ。それでよく見たらパンの上にパプリカとかしめじとかコーンとかでさ!」
「パプリカをケーキに見間違えたの?」さやは面白おかしいと言いながら笑う。
「いやほんとパッと見はケーキなんだよ。そしたら彩の良い野菜が乗っけられてたパンだったんよ。俺も気づいた時は一人で笑っちゃったね」
「そりゃあ驚くし、笑っちゃうね」さやは気持ちいいくらい笑っている。
さやはそのまま笑いながら息を吸ったりして、少しすると落ち着きを取り戻した。
「久々にツボったよ。そういえば今気づいたけど、岳くんは?」
「あー。なんか朝から検査らしくて、まだ帰ってきてないんだ。多分もうちょっとしたら帰ってくると思うよ」
「そっかそっか。豊くんは今日どんな検査したの?」
んー……俺は少し考えた。別になんともないといえば嘘だけれど、特になんにもない。なんて言おうか。言うタイミングをさっき失ったため、嘘をつくことに。
「血を抜いたりお医者さんとお話ししたりしたけど、特になんにもないかな」俺は嘘が下手くそなのかもしれない。いや下手くそというより、誤魔化すのが上手いのかもしれない。嘘はついてない。
「ほんとに?」さやは眉を細めて俺に言った。
「ほ、ほんとだよ。ほんとになんにもない」やっぱり嘘をつくのが下手くそらしい。上手く言葉が出てこない。
「そっか。ならいいけど」さやは少し拗ねながら花を眺めている。
「これお水あげてる?」
「うん。さやのお母さんが毎朝上げてくれる」
さやが持ってきてくれた花束は花瓶に移され、窓辺に飾られている。太陽に背を向けて俺の方をいつも見てくる。まるでなにかを訴えてかけているように。
「お母さんこのお花見た時なんか言ってた?」少し照れたようにさやが言った。
なんて言ってたっけな――。なにも思い出せない。思い出せないというより考える事をやめてる気がする。
あぁ……またこれか……階段から落ちた時もこんな感じだった。視界が霞んで焦点が合わなくなる。
俺がロマンが好きなせいか、このカメラを覗き込んで彼女の写真を撮ろうとするけれど、ピントが合わなくて、でもこれはこれでいい。そんな感じでシャッターを切ると、もう目が開かない。
なんかさやが喋っている。どうしてさやは焦っているの? 豊くん? 俺ならここにいるよ――豊くん? 豊くん? 大丈夫? 一気に聴力も視力も戻り、さやにピントが合った。
「豊くん大丈夫? 体調悪い?」さやが俺の右手をぎゅっと握りしめながら、心配そうな顔で俺を見つめている。
「あぁ、ごめんごめん。ちょっとぼーっとしてただけ。んでなんの話だっけ?」
「もう話なんかいい。お母さん呼んでみようか?」
「あれ、いいの? なんか思い出そうとしてたんだけど……なんも思い出せないや」
「ちょっと待っててね、お母さん呼んでくる」
「えっ……?」
「もう少し俺の手を握ってて」
俺はさやの手を掴んでいて、いつのまにか臭いセリフまでも吐いてた。
けれどさやも驚いていて、なにがなんだかさっぱりの様子だ。
「体は大丈夫。ほんとにぼーっとしてただけ」
「そ、そっか。じゃあ座ってるよ」
「うん」
俺は気まずいセリフを吐いたのが恥ずかしくて、次の話題を生み出せずにいた。さやも手を繋いでいる事が恥ずかしいのか、窓の方を見ている。
手だけが俺らを繋いでいた。
さやの手は少し冷たかった。外寒かったのかな。
俺はさやに感謝の気持ちを心中でありがとうと言った。この唯一繋がっている手から感じ取れるくらい深く伝えた。しばらく空気が沈黙としていた。
「ふぅー。やっと終わったぜ。待ち時間が長いんだよなー。あと少しで退院できる。退院したらどこへ行こうかな」
廊下からぶつぶつと言いながら来たのは岳だった。
俺はまださやと手を繋いだままだった。さやは眠りについてしまったのか。少し首を揺らしながら俯いている。
まずい……この状況を岳に見られたら、また冷やかしされてしまう。俺は今の状況を恨んだ。
ベットのカーテンは開けっぱだし、俺らが繋いでいる手はベッド上であって、病室のどこから見ても手をつながっている事がわかる。
俺は咄嗟にさやと繋がっている手をベッドの横にずらそうとした。さやを起こさないよう、慎重に動かした。
「豊、お前なにしてんねん……」
声に驚きさやとの手を離してしまった。その反動でさやは起きてしまった。
「あれ、私寝てた? あ、岳くん。お邪魔してます」
「い、いや別に俺はなにも……。岳……勘違いするなよ……」
「お前……もしかして……」明らかに岳の俺を見る目は電車の中で痴漢容疑者を見るような目だった。
「あれ? なんかあった?」さやは状況を飲み込めず、目線は俺と岳の顔を行ったり来たりしている。
「ま、まぁ、後で話聞くわ」岳はそのまま自分のベッドに座った。
「お、おう……」岳はきっと勘違いしたままだ。
「なんかあった?」さやはぽけっとしながら俺に聞いてきた。
「い、いや何にもないと思う……」岳に俺とさやが手を繋いでるのがバレた……なんて言えない。自分から手を繋ごうと誘っておいて、おどおどするなんてダサすぎる。
「私寝ちゃってたみたいだね。豊くんのお見舞いに来たのにごめんね」
「いや全然大丈夫だよ。俺もほぼ寝てたし……」
「結局二人とも寝てたんだ」さやが微笑みながら言った。微笑みの裏に邪気はなに一つ感じれなかった。さやは異性と手を繋いだ事あるのだろうか。手を繋ぐことに慣れているのか。一度気になると納得のいく答えを知るまで探ってしまう。
「さやってさ、今まで彼氏とかできたことある?」
「うーん、一人いるよ」
心臓の鼓動が忙しくなる。もやもやが止まらない。
「一人って言っても小学校の頃だけどね」
「小学校の頃でもいたことに変わりないよ」
「それがどうしたの?」
「いや別になんとも」
冷たい。明らかに冷たい。なんでこんな態度を取ってしまうのかわからない。小学校の頃の彼氏に嫉妬してしまっているのか。
これも全部俺のせい。いや医者のせいだ。医者が変なことを言うからだ。
医者の言葉ってのはどうしてこうも響くのだろうか。なぜか脳裏にあの宣告がチラついてしまう――。
「今日はなんかごめんね。また来るね」
「うん。ありがとう」
「ばいばい」
さやは少し悲しげな青い姿だった。俺はこれが最後でもないはずなのにお別れの言葉が言えず、無言で手を振った。
病室に戻ると、岳が話しかけてきたが無視をした。
一体どうしちまったのか。俺の考えている事が言えず、別の自分が発言しているようだ。
体調が悪い。薄い食事なのに濃い胃液の味がする。
今日はもう寝よう。俺は病室の光を瞼の裏から感じながら意識を消した。
朝日が昇る。頭痛で目が覚める。頭痛が日に日に長引く。助けを呼ぶほど俺に余裕はなく、ただ頭を抑え苦しむ。
太陽が南中し、徐々に西に傾き始める頃、頭痛は消えていく。すると胃液が込み上げてくる。
胃の中のものを全て吐き終えても続く嗚咽。口の中が気持ちが悪くて仕方ない。ベロの置き場に困る。
夕食も食べる気が起きず、スープだけでも飲もうとした。口にスープを含むと飲み込む力が起きず、そのまま出してしまった。
呆然としながら、布団にくるまった。口の臭いが胃液の匂いでしかなくて、すぐに布団から顔を出した。
しばらく目を瞑った。瞼の裏から見える病室の電気が消え始めた。二時間、いや三時間は目を瞑ったままだろう。
だけど今目を開けてしまうと、また寝れなくなりそう。あと少しで寝れると信じ続けながら意識を消すことに必死になった。
寝れない。四時間は経っただろう。諦め目を開けると、月が綺麗に見えた。立派な半月だ。
月を見惚れ、眺めていると自然に意識は消えた。




