第十四話 カーテンの向こう
「おはよ。豊くん。看護師の工藤です」目の前の光景をすぐには受け止める事ができなかった。
なんせ目の前にはさやのお母さんがいるのだから。
「ずいぶん驚いてるみたいね。私看護師やってるんだ。それより体調はどう?」
「あ、はい。体調は普通です」呆気に取られてる間にさやのお母さんはどんどん話を進めていく。
「今日はやる事たくさんあるからね。色々な検査をしなきゃいけなくて」
「えっとー、僕はどういった経緯で、ここに?」
「あら、覚えてないのね。軽い記憶障害があるのかもしれないね。豊くんは学校の階段から落ちてしまったみたいで、頭から血を流していたから救急車でここまで運ばれたってわけ」
陽気に喋るさやのお母さん。あの時のあまり変わらない様子だった。普段仕事している時も同じなのだろうか。
「そうだったんですね」ここに来た経緯を聞いて自分の予想が合ってた事に安心した。
「それで、頭の傷は痛む?」
「体を起こしたりすると少しズキっときます」
「なるほどね。とりあえず病院の案内だけしとくね」さやのお母さんは今いる病院の仕組みについて、教えてくれた。
テレビや電話を使いたかったら廊下の自販機のところに、テレビカードが売っているのでそれを買う。大部屋でテレビを見る時はイヤホンをすること。今日の予定、食事の時間、トイレ、ナースコール、一階のコンビニについて、お見舞いについて。
長々と一気に説明されたが、常識的なものばかりなので、特に覚える事はなさそうだった。
「他にわかんない事あったら、なんでも聞いてね。それとこれあげる」ポッケから一枚のカードを俺に差し出した。カードを受け取るとテレビカードと書かれていた。
「きっと暇だろうから、テレビカードあげる」
「ありがとうございます」
検査の時また来るね。とそのままさやのお母さんは行ってしまった。静かな部屋で何をしようか考えているとスマホが鳴った。さやからだ。
今日の予定を話して、空いてる時間は夕方しかなく、夕方に来てくれることになった。
そういえば何も疑いもしてなかったけれど、さやは俺が入院する事をお母さんから伝わっていたのだろう。
メールで話していた時、朝食食べた事や、体調の事、お見舞いなど、入院している事が前提であった。自分の鈍感さをまた恨むが、さやに会えるなら問題ない。
検査の時間まであと、どれくらいだろうか。する事もないので、病院内を散策をする事にした。
見慣れない廊下を歩いていると少し広い場所に出た。休憩スペースだろうか。さやのお母さんが言っていた通り、自販機の横にはテレビカードがあった。
え、テレビカードって結構高いな…。テレビカードは一枚千円で調べてみると大体十六時間分らしい。節約しながら見ないと、暇つぶしの手がなくなるな……
エレベーターの方まで歩くと院内のフロアマップを見つけた。俺のいる階は五階の脳神経外科(小児)と書かれている階だった。
俺十六歳だけど小児になるんだな……。この歳までになっても小児の定義や外科、内科の違いもわからない。なんせ人生で病院行った回数なんて片手の数より少ない。だから俺には初めましての単語が多すぎて、フロアマップを見終えた頃には首と頭が痛くなった。
とりあえず図書館っぽい場所があったので向かってみることに。
病院の匂いを感じながら、通りすがる子供に挨拶した時だった。六歳くらいの子供の頭には医療用帽子を被っていた。
医療ドラマで一度見た事があってわかるけど、ニット帽のような見た目の医療用帽子を被っていると言うことは、抗がん剤治療をしているということだ。抗がん剤治療の副作用による脱毛により、頭皮の保護などの理由でつけている。
あの歳で抗がん剤治療か……。少し胸を締め付けられ、心の中であの子が少しでも早く退院できる事を祈った。
しばらく歩くと図書館に着いた。中は案外広くて、落ち着きのある綺麗な図書館だ。
文学書や児童書といった小説から漫画まであった。貸し出しも行っており、暇は何とか潰せそうだと思った。
さらっと館内を歩き、検査が何時からかわからないのでそろそろ戻っておこうと思い、病室に戻っている途中、母が廊下を歩いていた。
おどかしてやろうと、そっと後ろから近づき肩を叩いてみると、母は思い通りのリアクションをした。
びっくりした……ほんとやめてよね……深いため息をつく母を見て笑う俺。
なんだか久しぶりに母に会った気がした。
「体調は大丈夫なの? あんたが倒れたって電話が来た時はほんと心配したんだからね」
「心配かけてめんご。でも全然大丈夫だよ」
「入院するってのに何だか楽しそうだね」
「初めてだからね。わくわくしかないよ」
「ほんとに……あんたって子は……検査は何時からなの?」
「わからないけど、多分もうそろだと思う」
病室の前に来ると、ちょうどさやのお母さんが検査の知らせをしに来たところだった。
さやのお母さんと母が色々話していたので、俺はベッドに戻ると、カルピスが置いてあった。
母は今来たところだし、誰かお見舞いに来てくれたのかな。一体誰からだ? そう思っていると隣のベッドのカーテンが開いた。
「こんにちは。一様挨拶しておこうと思って、カルピスは好きかな?」隣のベッドから挨拶してきたのは、幼い顔をした、同い歳くらいの子だった。
「カルピスは好きだよ。ありがとうね。君も入院?」
「それならよかった。入院じゃなきゃここにいないよ」
「そっか。名前はなんていうの?」
「僕の名前は、岳。君は?」
「俺は豊。よろしく」入学初日のような自己紹介をすると、岳は少し寝るねと言いカーテンを閉めた。
俺と同じように頭に包帯が巻かれており、何でここにいるのか今度聞いてみよう。ありがたく、カルピスを一口飲むと、母に呼ばれ向かった。
正午過ぎに全ての検査を終え、お昼も食べずにやった検査をしていたので、母と一階のレストランでお昼を食べることに。
「初めての検査どうだった?」
「いや暇で仕方なかったね。お医者さんも何言ってるかわかんないし。なんかCT検査をやるために注射を打たれたんだけど、体が暑くなってしんどかったよ」
「何も見つからないといいけどね」
「きっとなんもないよ。ほらこの通り体も元気さ」自慢げに腕の筋肉を見せると、細……と母に笑われた。
しばらくすると注文したオムライスが運ばれてきた。とろとろの卵の布団。その下に眠る橙色のチキンライスの味がとても気になる。さらに布団の上からかけられたデミグラスソースの匂いが食欲をそそられた。
母と雑談をしながら食べる優しい味のオムライス。きっと外から見た俺らは、暖かい色で描かれるだろう。
一人で俺を育てた母に心の中で感謝した。
暖かい時間に充実した後、母は家に帰って行った。腹も膨れたし、さやが来るまでの時間が潰せてよかった。さやが来るまでまだ少し時間があるので、小説を読んで待つことにした。
中央線で二駅ほど電車に揺られていた。電車の窓から見える知らない街に見惚れていると、降り忘れそうになった。
ギリギリで電車を降りたら、スマホのマップを頼りに豊くんの居る場所に向かった。
手には生花店で買った花束と果実の入った紙袋を持っている。
――すいません、大切な人のお見舞いに行きたいんですけど……
店内は生花独特のまだ茎や葉も切られてない、水々しい匂いが広がり、心を落ち着かせた。
お見舞いに向いていて、旬の花だとガーベラなどが……店員さんとは旬の花や花言葉などを、実物を見せながら説明してくれた。
「お花は色によって花言葉が変わるんです。ピンクのガーベラだと、感謝や崇高美と言って結婚式とかでよく使われます。白色だと希望、律儀と男性にプレゼントするのによく使われます」
ピンクのガーベラが可愛く咲いている。自分の部屋にも飾りたいと思った。ガーベラの中でも人目につく赤色の花言葉はどんな意味が込めらているのだろう。
「赤色のガーベラの花言葉はなんですか?」
「赤色のガーベラは燃える神秘の愛です。情熱的でロマンチックな花言葉がつけられてます。なので恋人や旦那さんにプレゼントする方が多いです」
自分から花言葉を聞いて顔を赤くしてしまった。情熱的でロマンチック……なんだか豊くんに似ている気がした。けれどもし豊くんが花言葉に詳しかったら、恥ずかしい。
さやは暑い暑いと季節外れの言葉を使いながら一人顔を仰いだ。
大きさや花束のイメージを伝え、私が選んだ数本の花に、合う花を店員さんが見つけて花束を作ってくれた。
マーガレットの白色とトルコキキョウの白色とピンク色にガーベラの白色とピンク色。恥ずかしながらガーベラの赤色も入れた。
出来上がった花束は少し結婚式のブーケっぽくなっていた。これを渡すのは少し勇気がいるけれど、豊くんの体調のため、私の気持ちのため、絶対に渡そうと決めた――。
歩いて花束が揺れる度、みずみずしい花の匂いが香る。花束を持って歩く私は浮いているのか、すれ違う人の目を奪っていた。
自動ドアが開かれると、静まり返る懐かしい匂いを感じた。幼少期の頃お母さんの仕事場をお父さんと見に行ったことがあった。
あの頃のお母さんと今のお母さんを比べると、少し、いやだいぶ変わった。いつでも陽気に笑っているお母さんだけれど、あの頃は幸せな家庭の笑顔だったけれど、今のお母さんからは、疲労からか、どこか引きずってる笑顔のように感じる。
答えなんかはないけれど、時間が経てば人の笑顔も変わるはず。哲学的な思想を考えながら、面会手続きを済ませ、豊くんの病室へ向かう。
――えぇー!? 豊くんが入院!? どうして? 体調は? 生きてる?
「大丈夫だって。さや落ち着いて」冷静に私を落ち着かせようとするお母さんだけれど、豊くんが入院だなんて落ち着いてられない。
「落ち着いてって、そんな……落ち着けないよ! まず生きてる? 体調は?」
「大丈夫だって。生きてるよ。だから一旦さや座って」生きてるという言葉を聞いて、心がほっとしたのは初めてだった。ふっと腰が軽くなって、倒れるように椅子に座った。他の不安が押し寄せてくる前に、一度冷静になり、落ち着きを取り戻すまでに時間はそんなにかからなかった。
「どうして豊くんが入院?」疲れ切ったように言った言葉は少し震えていた。
「階段を上がってる最中に気を失って転げ落ちちゃったみたいよ。それで頭が少し切れちゃったから、緊急搬送で私の病院に運ばれてきたってわけ。頭を打つと、命に関わる病気になっちゃったりしちゃうから、検査するために、入院するの」少し真面目な顔をしてお母さんは話を続けた。
「検査次第だけど、特に何もなければ一週間ほどで退院できるから安心して」お母さんは最後に笑って見せたから、きっと大丈夫だと言い聞かせた――。
昨晩の話を思い出したけれど、検査の結果はいつ出るんだろうか。豊くんは大丈夫なのかと不安になった。
エレベーターの中、一人不安で仕方がなかった。そんな私とは裏腹に元気そうに咲いてる花たち。なんだか励ましてくれているようで少し笑顔を取り戻せた。
勇気出してお花を持ってきてよかった。そう思いながら豊くんのいる病室をノックしようとするとなんだか話し声が聞こえた。
何を話してるのかはわからないけど、豊くんともう一人他の男の人の声が聞こえる。
今入ってもいいのか、取り込み中ではないか、色々考えたけれど、ここまで来たのだからとノックをした。
ノックをした途端、話し声は消えた。やっぱり今は取り込み中だったのかな。緊張が走り少し足が震えた。
開けるのに戸惑っていると、ドアの向こうから足音が聞こえてくる。地面を蹴るスリッパの音が頭の中で響く。やがて足音は止まり、ゆっくりとドアが開いていく。私は怖くなって目を瞑った。
「待っていたよ」瞼の向こうから聞き馴染みのある優しい声が聞こえて、ゆっくりと目を開けた。
目の前に立っていたのは優しく笑う豊くんだった。
豊くんを見た途端、心が満たされていき、自然と笑みが溢れた。
「ここまでよくきてくれたね。さぁ入って入って」優しく誘導してくれる豊くんの後ろ姿。さっきまでの不安は消え、元からあった心の隅の穴を埋めてくれたような気がした。




