29 擦れ違い(守景)
29 擦れ違い(守景)
江戸城徳川家四百万石――。
家康と豪の勝負の結末を見届けて、守景は嬉しさと驚きの半々の気持ちであった。
あの全てを兼ね備えた父が、奇策に嵌り敗れたからである。関ケ原の折での、
数々の布石を構築し、三成を巧みに追い込んだ軍略の天才が、年若き女子に敗れた。
何たる失態だと守景は吐き捨てた。徳川家の屋台骨が崩れ落ちるかもしれないのに。
――恥を晒しおって……。
守景は驕り高ぶり自滅した家康を馬鹿にした。明日は我が身と思い、守景は身を引き締める。
自室にてそんな思いを巡らせながら、運命の対局の日は終わりを迎え、眠りに落ちた。
守景は翌日、目覚めると冷水を浴び、身を清め、敗れた家康の部屋を訪れた。
別に慰めるわけでもない。小娘に敗れた哀れな父に一言、言葉を掛けようと思い立ったからだ。
「父上……昨日は無様でしたな。年若き女子に敗れるとは、その才に陰りが見え申した」
守景は強気な物言いで、上座で機嫌悪そうに項垂れている家康を馬鹿にした。
家康は老いて、その才を曇らせた。関ヶ原での家康はあんなものではなかった。
関ケ原の折、家康は完全完璧であった。終局まで全てを読み切り、天下人の座を射止めた。
「守景、お主も言うようになったのう。確かに豪を手に入れ損なったが、
次の一手を儂は考えた。こうなれば、守景……お主の正室にする事にする」
家康の発言に守景は意表を突かれ、目を丸くする。姉と慕う豪が、自らの正室となる。
これに驚かない方が可笑しい。だが、守景はそれも悪くは無いと考えていた。
守景も豪の事を想い続けた。それは姉と慕う気持ちであったと思ったが、それだけではないのであろうか。
心の中に葛藤の渦が見え隠れする。だが、久方ぶりに豪と話したいと思う気持ちは本当だ。
そして守景は一か月後、対面を果たした。江戸城の離れの部屋にて顔合わせした。
「姉上、いや、豪……会いたかったぞ」
慌てて言い直す。自分は徳川幕府の次期将軍……最早、豪とは立場が違うのだ。
「守景……」
守景は豪との対面を手放しで喜んだ。だが、豪の様子がいつもと違う。
普段の彼女ならば笑顔を見せて、自分を迎えてくれるのに。何故か頑な様相を呈する。
「守景、その汚れた目は何ですか? あれだけ優しかった貴方は何処に行ってしまったのですか?
今の貴方を三成殿が見れば大きく失望なさるでしょう。貴方は変わってしまった」
豪は涙を流し、守景の頬を軽く叩く。守景は虚を突かれた豪の振る舞いに唖然とする。
そして守景は頬を紅潮させ、豪の態度に怒りを露わにした。姉同然に思っていた豪に対する初めての反抗だ。
「無礼者……私の眼が汚れているだと? 私は天下人の後継者である。
如何に豪、お主とは言え、許せない振る舞いだ。良いだろう……私の本心を言おう。
豪……私が幼き頃より、お前の望むような弟を演じていたのは、お前の器量に目を付けていたからだ」
守景は一筋の涙を流し、心にもない言葉を豪に浴びせる。我ながら最低の発言だ、と心の内で呟く。
それでも譲れない気持ちがあった。自分は天下人の後継者なのだと自分に言い聞かせる。
対して、豪は涙を滂沱のように流し、失望の色を表情に浮かべる。
それを見ていて守景はいたたまれない気持ちとなった。豪に掛ける言葉が見つからなかった。
それでも豪に申し訳ないと謝りたいが、今の自分の気持ちは邪心が渦を巻いており余裕が無かった。
「最低な人。貴方はもう弟でも何でもありません」
その一言に守景は衝撃を受けた。あれだけ慈愛の精神を重んじ、誰に対しても慈しむような豪が、
あろうことか、姉弟同然に育った自分に向かって冷たく言い放ったのだ。
守景は次第に焦燥感と悲壮感に駆られる。二重の痛みだ。心臓を抉られたような気分だった。
「豪……」
豪は捨て台詞を吐いて、その場を去ってしまった。守景は一人部屋に取り残され、
一抹の寂しさを催しながら、項垂れて失意の中、部屋で悶々としていた。




