第二話だ! 恐れおののくがいい!!
さて、そんなこんなで授業も終わって放課後だ。
今日一日のカリキュラムは、午前中に教養の授業と馬上演習。昼食後の午後に座学の授業が続いて、ようよう放課後の現在に至る。
そうなれば、退屈な授業から解放された学生たちの待望の時間だ。
ちなみにこの学院は全寮制であり、基本的に生徒は全員が学院敷地内にある寮で生活している。長期休暇などを除けば、共同の寮生活で協調性を学ぶコンセプトだ。
もっとも、食事は決まった時間に食堂へ行けば配膳されるし、それぞれの個室には浴室がある。部屋の清掃や衣類の洗濯も専門の人間が行うため、実家にいるときと違った不便さは特に感じない。せいぜい、常に他人の目を意識する必要があるぐらいか。
まぁ、常に誰に見られていようと完璧な俺には無縁の心配だ。
むしろそのことに問題があるのはアルタイル――アルテミスの方だろう。女であることを隠して学院に通うあいつにとって、この集団生活は危険だらけのはずだ。
何を好き好んでそんな苦難の道を歩いているのか、さっぱり理由はわからないが。
「こればかりは、当人から聞き出すのも難しいしな……」
相手は元婚約者だ。
色々と、複雑な事情がある。俺にも、きっと向こうにも。
とにかく、アルタイルのことを心配していてもしょうがない。
俺は俺で、そのアルタイル打倒のためにやらなければならないことが山ほどある。座学の授業の予習復習もそうだし、実技に備えて体も鍛え直したい。
もちろん、誰にも見られないように。ここ重要。
努力する姿は見せない。何もしていないのにすごい。それがラズベリー流だ。
「さて、今日はどちらに重点を置くべきか迷うな。確か学舎裏の山にいい塩梅の崖があったはずだが……しまった、ロープがない。いけるか……?」
「おっと、よかった! まだ教室にいたんだな、クラウス!」
夕焼けの差し込む教室で、放課後の方針を熟考する俺をボッシュが見つけた。
ちなみに放課後の教室に残っているのは俺だけで、他の生徒たちはとっくに堅苦しい授業からの解放感を満喫している頃合いだ。
そんな状況で俺が何をしていたのかというと、それは別に放課後早々にいなくなったボッシュを待っていたり、話し相手がいないから手持ちぶさたで途方にくれていたなんてことは決してない。全然違う。
「大変だぞ。アルタイルが校舎裏に呼び出されたんだ」
そして、全然孤立していたわけじゃない俺にボッシュが慌てた顔でそう言った。
その内容に俺は首をひねる。なんだそれは。
「別に校舎裏に呼び出されたぐらいいいんじゃないか? あいつだって、放課後に誰かと遊ぶことだってあるだろう」
「たまにものすごく察しが悪いな、お前は! 校舎裏に呼び出されたってのは、ようするに痛めつけようって腹なんだよ。大勢でアルタイルをとっちめようって話だ」
「なんだと!? そうか、そういうことか!」
すっかり腑抜けていた自分の頬を張り、俺は音を立てて席から立ち上がる。
立ち上がったところで、いや待てよとなった。
「待て待て待て。アルタイルが呼び出されて、大勢に囲まれて……で? 落ち着いて考えたら、どうしてそれで俺が慌てる必要があるんだ。あいつの問題はあいつの問題だろう。俺が手を出すことじゃないぞ」
「珍しく正論なんだけど、そういうわけにもいかないと思うな。とりあえず、席に座ってもうちょっと冷静に色々考えてみろよ」
「座って考えろ? お前は俺にいったいどうしてほしいんだ……」
ボッシュの真意がわからないまま、とりあえず俺は言われた通り座ってみる。
それからこれまたボッシュの言う通り、アルタイルが呼び出されたことで発生する問題を色々と想像してみることにした。
まず、いったい何人に囲まれているのかわからないが、いくらアルタイルでも相手が圧倒的多数となれば太刀打ちできないに違いない。そうなると負けるか? うん、負けるな。負けて、けちょんけちょんに泣かされるんじゃないだろうか。む、それっていいのか? なんかちょっとどうなんだ?
別にアルタイルが泣かされても俺は困らないはずだ。困らないはずなんだが、なんでだか胸がムカムカしてきた。これはいったいなんでなのか。
「おいおい、いつの間にか立ち上がってるぞ、クラウス」
「はっ! いや、違うぞ、ボッシュ! これは違う。別にアルタイルがどうこうというわけじゃないんだ。ただ、あいつがけちょんけちょんにされて泣かされると思ったら、なぜか得体の知れない感情が俺の胸でムカムカと渦巻き始めてだな……」
「そうなると思ったから座らせたんだよ。で、そのムカムカをどうする?」
わかってるわかってるみたいな顔でボッシュが笑うのがムカつくが、このムカムカをそのままにしておくのは確かに俺らしくない。
ムカムカの原因はアルタイルが負かされて泣かされることか。いや、違うな。
アルタイルが、俺以外に負かされて泣かされるのが気に入らないのだ。
「ダメだダメだ! あいつを負かして泣かせるのは俺の役目だ! 断じて、他の奴らに譲ってなんてやるものか!」
「なんかそれも二番手こじらせた奴の台詞っぽいけど、それでこそクラウスだ。よし、校舎裏に急ごう!」
俺の心の結論に、ボッシュが手を叩いて賛同した。
こいつ、俺がこうやって動き出すのを最初からわかっていたみたいな顔だ。こいつの掌みたいなのは気に入らないが、みすみす危険を見逃さずに済んだのはボッシュの功績に違いない。よし、クラウスポイントはプラマイ0点にしておこう。
ボッシュと二人、教室を飛び出して俺たちは校舎裏に向かう。
途中、教員の待機室の前だけは早歩きで通り過ぎ、それ以外の廊下は駆け抜ける行儀の悪さだ。貴族らしい優雅さの欠片もない!
「きゃっ、クラウス様だわ!」
「ホント! 今日もボッシュ様と一緒にいらっしゃるのね!」
途中、並び立つ俺たちを見かけた女子生徒がきゃいきゃい言っているのが聞こえたので、手を振って笑顔を向けておくのも忘れない。
隣のボッシュがそのアピールに呆れた顔をしている。
「そういうマメさは本当に尊敬するよ」
「俺の全身、心がけまで全部丸ごと尊敬していいぞ」
「それはちょっと勘弁かな。人として」
聞き捨てならない発言を聞き捨てて、俺たちは問題の校舎裏に辿り着いた。
校舎裏は狭く、学院の裏手にある山が日差しを遮るせいで湿った空気が漂っている。実に陰気な雰囲気の漂う場所で、授業をサボタージュしたりだとか、大勢で一人を痛めつけようなんて悪さを働くにはもってこいのロケーションといえる。
さあ、そんな場所でどんな大立ち回りが演じられているものか。
たとえ何があろうと、俺の武力と権力と家の力を駆使してどうとでもしてみせる。などと俺は息巻いてやってきたのだが――。
「おいこら、ボッシュ。何がアルタイルの絶体絶命のピンチだ。俺には取り巻きАBCが仲良く並んで日向ぼっこ……日陰ぼっこしてるようにしか見えないぞ!」
「あっれー、おかしいな? っていうか、日陰ぼっこだっておかしいだろ。こいつら、こんなところでなんで仲良く昼寝してるんだ?」
校舎に寄りかかるように座らされているのは、件の取り巻きАBCだ。
全員、綺麗にお行儀よく足を伸ばして座らされていて、脱力した姿が人形みたいでちょっとキモイ。誰かがふらっと無意味に校舎裏にきてアレを見たら夢に出そうだ。
とりあえず近付いて、そいつらが本当に寝ているだけなのか確かめる。
脈拍と呼吸は無事。実は眠るように死んでいたなんてオチでなくてひと安心だが、不気味なのは三人ともちょっと幸せそうな顔で白目を剥いていることだ。
「こいつら、なんでこんな顔で気絶してるんだろ」
「そんなこともわからないのか? もっとよく見てみろ。これは綺麗に絞め落とされて失神した人間特有の顔だ。こいつらの制服の襟元を見ろ。少し乱れているのが、襟を使って絞められた証拠だ」
「失神顔なんて見たことねえよ……」
俺が実家で護身術を習ったとき、100人を絞め落とす特訓でこの幸せな失神顔を大量に並べたものだ。その経験と照らし合わせれば、この顔と完全に一致する。
ぼやきながら三人の様子をボッシュが見ているので、その間に俺は周りを検証する。とはいっても、さほど考えることはないだろう。
「ようするに、この三人がアルタイルを呼び出して返り討ちにあったわけか?」
「そうなる、んだろうなぁ。結果は見てのお察しだけども」
「そもそも三人ぽっちでアルタイルに勝とうというのが間違いだ。総合成績で俺と互角の相手だぞ。せめて十人は用意しておかないとな」
相手との実力差も考えず、舐めてかかってこれならフォローのしようがない。
自業自得もいいところだ。まだ学院生活一年目も始まったばかりだというのに、早くも付き合う相手を厳選する必要が出てきたのか。
「馬鹿な奴らだ。馬鹿は馬鹿なりに、ない知恵を絞るのが最善だろうに」
「そう言ってやるなよ。こいつらも反撃されると思ってなかったんだろうから」
「――? どういうことだ?」
呼び出した相手を一方的に殴れる、なんて身勝手な論法だろう。
そんな暴論を振りかざされれば、アルタイルが抵抗するのは決まっている。
が、ボッシュはそんな俺の疑問に頭を振った。
「これは言おうかどうか迷ったんだけど、言うよ。こいつらがアルタイルを呼び出したのは、そりゃアルタイルが気に入らないってのもあっただろうけど……本当のところはクラウス、お前に気に入られるためさ」
「……俺に?」
予想外の言葉に俺は困惑してしまう。
ボッシュは気絶した三人を見下ろして、「ああ」と頷いた。
「お前を負かして、主席をもぎ取ったアルタイルだ。実際、お前もアルタイルを気に入らないって思ってただろ? それを排除しようって考えるのは、ラズベリー家に取り入りたいこいつらからしたら当然の考えだよ」
「それは……だが、そんな譲ってもらった勝利に何の価値があるんだ。勝てないから相手を引き摺り下ろす、のどこに達成感がある。俺がアルタイルに勝ちたいのは、あいつに下がってきてもらって見下ろすためじゃない。俺が上がって見下ろしたいからだ!」
「そう考えられる奴ばっかりじゃないってことだよ」
ボッシュはまるで、やれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
その仕草がやけに様になっていたのと、俺は思ってもみなかった立場の落とし穴を見つけて動揺してしまう。他人を不当に蹴落として得た勝利で、俺が喜ぶなどと思われていたこともそうだが、その勝利を俺に献上しようとする奴らがいることにも。
「ラズベリーの名前を出して、クラウスのためだって言えばアルタイルも拒否できないなんて考えたんじゃないかな。まぁ、こうなってる以上は決裂したみたいだけど」
「本当に、あいつは不敵な奴だな……」
言いながら、ふつふつと妙な怒りが湧き上がってきた。
言葉にできない、こう、ぶつける先だけはわかっているような怒りだ。
「クラウス?」
「モヤモヤしてムカムカしてイライラが限界だ。こいつらのこともそうだが、アルタイルの奴にも一言、言ってやらなきゃ気が済まん。ボッシュ、ここは任せる」
「それはいいけど……アルタイルがどこにいったかわかってるのか?」
「どこにいてもどうせ寮に戻ってくる。それにあいつはこの時間、いつも寮の部屋にこもってお勉強だ。その習慣を崩しているとは思えん!」
「本当に気持ち悪いぐらい詳しいな」
「気持ち悪くない。普通だ」
取り巻きАBCの介抱をボッシュに任せて、俺は大急ぎで寮に向かう。
三人がやられた形跡から見て、下手人のアルタイルの仕事は数分前のことだ。学舎と同じ敷地内にある学生寮だが、辿り着かれる前に追いつけるはず。
「――アルタイル!!」
実際、走り出して五分もしないうちにアルタイルを見つけることができた。
悠々と学生寮までの道を歩いていたアルタイルが、俺の声に反応して足を止める。振り返る奴は風になびく金髪を手で押さえて、青い瞳で真っ直ぐ俺を射抜いた。
む、と変に息が詰まる。それに見たところ、奴の衣服には乱れも汚れもない。どうやら取り巻きАBCは本当に一瞬でやられたらしい。そもそも、全員が絞め技で負けたくせに、一人が絞められている間に他の二人は何をしていたんだ。
「呼び止めておいてじろじろと眺めるだけ。何か用があるのかい?」
「いや、手と足をいっぺんに使っても同時に絞め落とせるのは二人までのはず。いったいどうやって、三人を同時に絞め落としたのか見当がつかなくてな……」
「――――」
疑問をそのまま口にした俺に、アルタイルの目が攻撃的に細められた。
なんだかよくわからないが警戒されたらしい。まぁ、されて当然か。今の発言は明らかに俺と取り巻きАBCの関係性を暗示している。本当は関係ないんだが。
「あの三人は無事だったかな? 突然のことだったし、三人がかりだったからボクも手加減する余裕がなくってね」
「気道は確保していたようだったから、命に別状はないだろう。それでも絞め落とすのはやりすぎだと思うぞ。殴り倒した方がよっぽど脳に後遺症が残らない」
「それもスマートじゃないとボクは思うけどね。――彼らは君の差し金かな?」
ほんの少しだけ、アルタイルの声が低くなった。
確かめたかったのはその部分だろう。取り巻きАBCが俺の名前を出したかどうかはわからないが、俺の方からあいつらとの関係は告白したようなものだ。
それに俺が望んだわけではなくても、俺が望んだとあいつらが思ったのは事実。そう考えるだろうと、あいつらの腹の底を読めなかった俺の失態だ。
だから、その責任はまぎれもなく俺にある。
「そうだ。あいつらも、そう言ってたんじゃないのか?」
「そうか。……そうなんだ」
「――――」
「残念だよ。クラウス・ラズベリー。君が、そんな男になってしまったなんて」
再会したアルタイルは、無感情な奴だった。
顔も目も声も、態度も仕草も何もかもが無色透明で、まるで望んでそうしているみたいに印象を消している奴で。だからかもしれない。
初めて悲しそうなその声が、俺の心を無性に掻き毟っていったのは。
「お前が俺にそれを言うのか、アルタイル!」
頭に血が上って、俺はアルタイル――いや、アルテミスに掴みかかった。
その襟首を掴んで、軽い体を乱暴に持ち上げようとする。女にしては身長はあるが、男の平均よりは低い。当然、体重だってずっと軽い。
乱暴に振り回して、簡単にへし折ることだってできる。なのに、
「離して、くれよっ!」
「――っ!」
襟を掴んだ手をひねられて、逆に俺の体がくるりとひっくり返っていた。
背中から地面にぶつかる瞬間、腕を引いたアルテミスがやわらかに俺を落とす。体に受けた衝撃は少ない。なのに、心の衝撃が大きすぎて俺は動けなかった。
呆然と見上げる俺を、アルテミスが顔をくしゃくしゃにして見下ろす。
「昔とは違うんだ。君の友達だったアルタイル・パリウッドはもういない。ここにいるのはアルタイル・ファリオンだ」
「そんなこと、わかってる……っ」
「わかってるなら、お願いだからそうしてほしい。もう話しかけないで、構ってこないでくれ。ボクもそうするから、君もそうしたらいい」
アルテミスがそう言って、地面に大の字の俺の前で髪をかき上げた。
そのとき、ちらりとアルテミスの左耳の付け根が見えた。
――そこに、白い傷がある。
ほんのささやかなそれは、幼い俺が誤って彼女に付けた消えない傷だった。
俺がアルテミスと、婚約するきっかけになった傷だった。
それが目に入った途端に、腹の中でマグマが火を噴いた。
「これで……これで勝ったと思うなよ、アルタイル!」
黙ったままの俺を置いて、アルテミスが寮に向かう道を歩き出していた。
飛び起きた俺はその背中に、馬鹿みたいに大きい声で言ってやる。
「今日の勝ちは譲ってやる! でもだ! 一度の敗北が全ての敗北じゃない! この勝利で今後も主席の座が揺るがないなんて、勘違いするんじゃぁないぞ!」
振り返ったアルテミスが、俺の台詞に困惑している。
いいぞ。感情が出てきたじゃないか。無表情で無感動で、そんなの馬鹿らしい。お前の声を聞かせろ。お前の表情を見せろ。せっかく、再会したんだから!
そうだ! 主席の座は今は預けておくが、すぐに追い落としてやる。
他の奴にその役目は譲らない。お前が主席である限り、次席の座は俺のものだ。
お前が主席で次席が俺で、その立場は俺以外の誰にも変えさせない。
「いつか必ず! 俺はお前に勝って主席の座を奪うぞ! そのときは――」
「そのときは?」
「――お前の服をひっぺがして、裸で俺の足下に跪かせてやる!!」
そうだ! アルタイルがアルテミスだとばれれば、学籍は確実に抹消される。そうなったら一生、俺は実力で主席を奪えなかったことになる。だから、決まりだ。
アルタイルがアルテミスであるとばらすのは、俺が実力で主席を奪ったときだ。
つまり、次席に落ちたときがアルテミス=アルタイル、お前の最後だ!
「――――」
指を突きつけた俺の堂々たる宣言に、アルテミスは呆然とした顔をしている。
どうやら奴にも、俺の覚悟の大きさと追い詰められる自分が理解できたらしい。
次第にアルテミスは肩を震わせ、唇を噛んで下を向き、わなわなと拳を固めて……あれ? なんかちょっと反応おかしいな?
そう思った直後、アルテミスは真っ赤な顔を涙目にして俺を睨みつけた。
「この! へ、変態――!!」
爆弾級の発言が飛び出し、俺は目を剥いてしまう。
急に何をとんでもないことを言い出しやがったのか、この女。
「へ、変態だと!? 俺のどこが変態だ! 人聞きの悪いことを言うな!」
「は、裸にして跪かせるって、変態以外の何者でもないじゃないかぁ! 近寄らないでくれ! この、ボンクラウス――!!」
「なぁ!?」
最後の最後に爆弾を放り込んで、アルテミス=アルタイルが逃げ去っていく。
俺はその小さくなる背中を呆然と、脱力して見送るしかなかった。
遠く、夕焼けの空に鳥が飛んでいる。
阿呆と、小馬鹿にするように鳴く声が聞こえた気がした。