第一話だ! 刮目しろ!
世界史において、アルセール王国は最古の歴史を持つ一大国家だ。
建国から千年を超える王家の血統。肥沃で広大な国土にも恵まれ、さらに向こう千年の安寧を約束された豊穣の国――そんな話がまかり通るくらいには平和なお国柄だ。
他国との関係も実に良好で、歴史ある強国なんて噂が出回っているおかげか戦乱の兆しもまるでない。実際は百年以上も戦争がないので、軍備は張子の虎も同然だ。
この王立貴族学院でも馬術、剣術の指南などが実技教練としてカリキュラムに組み込まれているものの、教師や兵隊も戦争という実戦を知らない世代。
真面目に取り組む生徒の方が少数派というものだ。
指導する側も、生徒のそのやる気のなさを理解している。そのせいで教え方にも身が入っておらず、実に不甲斐ない授業といえよう。
が、そんな授業だからこそ俺にはチャンスでもあった。
全員が足並み揃えて手を抜けば、それがそのまま評価の平均になる。「頑張れば頑張るほど馬鹿じゃね?」的な空気が蔓延することになるのだ。
それを目の当たりにすれば、さすがのアルタイルも「あ、これってひょっとして本気でやったら馬鹿見る感じ?」と気が抜ける可能性は否めない。
そもそもあいつ、主席の座に拘りすぎている。大して評価されていない授業など、ポイント稼ぎにもならない暇潰しだ。
おそらく、手を抜いて無様をさらすに違いない。やった、これは勝つる――!
「で、プライド捨てて挑んだ結果があの惨敗ってわけか。なるほど、そりゃ痛い。痛い痛い、クラウス痛いよー、それちょっと痛すぎるよー」
「うるさいぞ、ボッシュ! そんなこと、俺が一番わかっている!」
崩れ去った俺の目論見の全容を知って、ボッシュは膝を叩いて大笑いだ。
馬術の授業が終わって校舎に戻り、今は着替えて座学の教室に戻ったところだ。実は落馬の痛みが今さらやってきて膝と腰が痛いが、それを顔に出す無様はしない。
優雅でエレガントな俺の演出、それもラズベリーの看板を背負う責務なのだから。
「いいか、ボッシュ。あの抜け目のないアルタイルのことだ。おそらく奴は事前に、俺が今日の馬上演習にかける意気込みを知っていたに違いない。奴が油断するに違いないと踏んだ俺の油断を、奴は見事に逆手に取ったわけだ。まさに卑劣!」
「え? ごめん、ちょっとよくわかんなくなった。油断するに違いないと踏んだクラウスの油断がなんだって?」
「わからない奴だな。つまり、『馬上演習なんて本気でやる方が馬鹿らしいしぃ。っていうかこれって主席のポイントにどれぐらい貢献するんですかぁ?』と斜に構えて油断するあいつに俺がつけ込もうとして、その俺の神算鬼謀を先読みした奴は『本気でやる方が馬鹿らしいしぃ』という素振りで俺の油断を逆に誘い、その卑劣な策にまんまと引っかかった俺はニンジンに飛びつく馬のごとく……誰が馬並みの阿呆だ!」
「自分で言って自分でプライド傷付けるのやめろよ。お前の速度にオレと世界が置いてけぼりにされるし。それにお前、あいつの油断を誘うもなにも授業の前に宣戦布告しちゃってたじゃん。今日こそは勝つって」
「なん……だと……!」
致命的な失策を指摘されて、俺は思わず喉を詰まらせた。
しまった。そうか、宣戦布告してしまっていた。奴を油断させる作戦だったはずなのに、これで奴に勝てるぞしめしめと思ったら我慢できなくなったんだった。
まさかかえって奴の闘争心に火をつけていたとは……不覚!
「前々から思ってたけど、クラウスって隠し事に向かないよな……こう、企んでる奴の行動パターンじゃないっていうかさ」
「馬鹿を言うな! 俺ほど清濁併せ呑む、本物の貴族なぞそうはいないぞ!」
「昨日も子どもみたいな時間に寝て備えてたし、朝は『俺は今、超新生した』とか言ってただろ」
「違う! それはお前の聞き間違いだ! 『俺は今、腸捻転した』と言ったんだ」
「腸捻転ってすごい痛いらしいぞ」
「そうだ! だから今も地獄のような苦しみに必死で耐えている。見ろ。この苦痛に耐えることで流れる脂汗を懸命に流さないように堪える強靭な俺の精神力を!」
「もう何を見ろって言われてんのかよくわかんなくなったよ。オーラ?」
高速で腹をさすり、地獄の炎に耐えるような俺の演技力にボッシュが白旗を上げる。
まんまと騙されてくれたらしい。危ないところだった。
プライドを守るのにも孤立無援を強いられる、それも俺の立場の辛いところだ。
「ご無事ですか、クラウス様」
「心配しましたよ。正直、落馬の瞬間は生きた心地がしませんでした」
「死んだかと思いました」
と、ボッシュを騙しきったところで同じクラスの学友が声をかけてくる。
さっきからチラチラ、話しかけてくるチャンスをうかがっていた連中だ。
「お前らか……」
人の顔色を見て行動する卑屈な態度、実に結構!
こうしてご機嫌伺いをされていると、自分がラズベリー家の嫡男であることを実感させられる。家柄抜きの個人としても、俺とでは人間的魅力と男性的魅力で比べ物にならないのだから、奴らが縮こまるのも当然なのだ。
なので、俺はちゃんとこういうわきまえている連中には慈悲を示すことにしている。
「ふふん、お前らの心配には感謝しよう。幸い、ケガはないから安心するがいい。母なる大地……いや、豊穣を司る土の女神は俺にご執心と見える」
「お、おおう」
「さ、さすがです、クラウス様! やはり、凡人には計れぬ器の持ち主!」
「感服しました。ラズベリー家の次期当主の貫録ですね!」
ぐははと笑う俺の言葉に、連中が太鼓持ちのように美辞麗句を並べ立てる。
俺ほどにもなると実に聞き慣れた陳腐な称賛だが、聞き慣れているなら必要ないかというと別にそんなことはない。称賛はどれだけ聞いてもいい。血が沸き立つ!
「見え見えのお世辞と太鼓持ちだってのに、なーにがそんなに嬉しいんだか」
「お前はわかっていないな、ボッシュ。取り入ろうとする姿勢の貴賤はともかく、俺に取り入る価値があると見ていることは正しい。そしてそれは奴らが取り入ろうとするほど俺が優れているということでもある。一面的に考えすぎるな」
それにこんな連中でも、いずれはアルセール王国の未来を担う人材になる。
この学院は王国の未来を担う人材を育成する教育機関だ。まだ蕾に過ぎない奴らという存在は、ここで教育という水と肥料を与えられてようやく花開く。
そしてその蕾が開花したとき、奴らに必要なのは有能な指導者――つまり俺だ。
優秀な能力と確かな家柄に恵まれた俺が、まだ花を咲かせるどころかハナクソをほじるだけの存在である衆愚を導かなければならない。
「本来なら教師がやるべき役目すら背負ってしまうだと……自分が怖い……!」
「ど、どうされましたか、クラウス様? やけに遠い目をされていますが」
「ふっ、見えたのだ。俺やお前らが輝かしく、花開く未来というものがな!」
「へ、へえ……」
俺の描く未来図が恐れ多いのか、取り巻きАBCは感動に声も出ない様子だ。
将来、ボッシュは俺の右腕にする予定だが、せっかくなのでこいつらにも華々しい役職のチャンスはくれてやろう。
学院生活は二年間、同じ前修生としての付き合いは大事にしなくてはならん。
ちなみに王立貴族学院は二年制で、入学一年目の生徒を前修生、二年目の生徒を後修生と呼び、学舎と授業内容を分ける形を取っている。
俺が栄えある前修生の次席で、アルタイルが主席というわけだ。ぐぎぎ。
「――――」
などと考えていると、見計らったみたいなタイミングでアルタイルが教室に戻ってきた。馬術授業用の乗馬服を脱ぎ、今は学院指定の男子制服姿だ。
これがなかなか様になっていて、ますます俺は苛立つ。
学内では制服の着用が義務付けられているが、その着こなし方は様々だ。
中には着崩すことでオリジナリティを出したり、ボッシュのようにボタンを外しただらしないものもいる。俺は入学前に100人のオーディエンスを集め、その全員が認める着こなしを追及することで、他の追随を許さないファッションリーダーの位置を確立した。しかし、アルタイルの着こなしはそんな俺すら嫉妬するほど自然体だ。
俺にも言えることだが、やはり素材が良ければ何を着ても似合うというのは真理だ。
「ファリオンですね。クラウス様にケガをさせて、涼しい顔をしているもんだ」
「憎たらしい奴ですよ、まったく」
「クラウス様は死にかけたというのに」
同じく、アルタイルに気付いた取り巻きАBCも言いたい放題だ。
というか、俺は死にかけてないしケガもしてないし。
「いちいち奴を気にするな。それと、俺はケガなんてしていないから間違うなよ。調子を崩していたのは演習の前からだ。腸捻転でな」
「腸捻転!? 腸が壊死するかもしれないアレですか!? 大丈夫なんですか!?」
「ば、馬鹿! 大声を出すな!」
しまった! 重病アピールしすぎていらん不安を掻き立ててしまった。
腸捻転ではなく、食中毒だったか? いや、だがそれでは同じものを食べているはずの奴らが発症していない辻褄が合わない! つまみ食いしたことにされる!
ギャースカと取り巻きАBCが騒ぐものだから、教室中の注目が俺の腹に集まる!
マズイ、今すぐに大げさにのたうち回るべきか。だが、ちらっとアルタイルまでこっちを見ている場面で弱味はさらせない。
とりあえず、奴に見えるようにピースサインだけしておいた。
「……はぁ」
なんだ、そのため息。
しかし、それきりアルタイルは興味をなくした顔で自分の座席に座ってしまう。
愛想のない奴だが、そのおかげで助かった。奴に腸捻転のことを追及されたら、俺も嘘を突き通す覚悟で床をのたうち回らねばならなかった。
「これほどの駆け引きを要求するとは……やはり奴は侮れない……!」
「クラウス様、それで腸は大丈夫なので……?」
冷や汗をかく俺の前で、取り巻きАBCはまだ古い話題を引っ張っている。
その話はもう終わっているし、そもそもそろそろ授業の時間だ。
「俺のことは気にするな。次の授業も始まる、席に戻れ。アルタイルのことは、いずれ必ずきっちりと決着をつけてやる」
「は、はい、わかりました」
「クラウス様、ご自愛ください」
「医者に尻を見せるのは恥ずかしいことではありません」
最後まで余計なお世話な取り巻きАBCを下がらせ、次の授業の準備をする。
座学の教材を机に並べる俺に、隣の席のボッシュのにやけ面が見えた。
「なんだ。言いたいことがあるなら言ったらどうだ」
「立派なボス猿ぶりだったなぁと思ってさ。ま、微妙に置いてけぼりにしてた感もあったけど、クラウスはいいリーダーになると思ったよ」
「当然だ。俺自身が日々、そうなるように努力しているからな!」
まさかまさか、そんな言葉で俺を褒めているつもりなのだろうか。
気持ち悪いこともあるものだと思うが、悪い気はしないのは取り巻きАBCと同じ。むしろ普段はなかなか言わないボッシュなので、俺の自尊心にはいい響きだ。
「ボッシュにプラス2点……」
「なんだって? 何に書き込んでるんだ? 手帳?」
「累積クラウスポイントだ。俺に対する各人の行動を加減方式で採点している。卒業までにどれだけ加点できるか、常に自分に言い聞かせておくといいぞ」
「……それ、自分のことは採点してないの?」
「もちろんしている。俺の俺に対する基準は厳しいぞ。次席に甘んじている間はとてもではないが、加点する甘えは許せそうにないな」
他人から称賛されるのが当たり前の立場にある俺だ。
だからこそ、本当に俺に必要なのは他人の称賛ではなく、自分で自分の成長と成果を認められる結果なのだ。それはそれとして他人の称賛も欲しいが。
「次席の立場など、アルタイルを下してすぐに返上してくれる」
座学で負け、実技でもしてやられたが、二年の学院生活は始まったばかりだ。
ファッションリーダー勝負では互角、この先に無数にあるであろう競い合う場面で見事に奴を下し、俺の足下に跪かせてやろう。
「だからまだ、俺は負けなど認めないぞ、アルタイル。がるるるる」
尽きぬ対抗心に火をつけて、俺は最前列で教科書を眺めるアルタイルを睨む。
このまま視線で奴の後頭部に火がつかないものか。いや、いかんいかん。そんな馬鹿みたいな不戦勝に意味はない。次に馬から落ちて泣くのはあいつだ。
「――?」
「危ない!」
俺の熱視線に気付いたのか、アルタイルが不思議そうに後ろを振り返る。
俺はサッと机の下に屈み込み、その視線からまんまと逃れた。俺が虎視眈々と奴を狙っていることがばれ、警戒されては困るのだ。
だが、見えぬプレッシャーに追われる恐怖をとくと味わうがいい。
頂点に君臨するということは、常に寝首を掻かれる危険に怯えるということだ。
「そのプレッシャーに勝てて初めて、頂を得る資格がある。ふっふ……あだっ!」
「……いいリーダーになるとは思うけど、まだ足下が見えてないかもなぁ」
机の裏側に不覚にも頭をぶつけた俺に、頬杖をつくボッシュが知った風に言った。
やけに意味深な言い方だが、いったい何が言いたかったのか。
その言葉の意味を俺が思い知ったのは、この日の放課後すぐのことだった。