2.こじらせてぶっ飛んでる女
梅雨とは思えない様な強い雨の音が、私とこの貴婦人との間に唐突に生まれた沈黙を埋めてくれていた。
「あなたは今日ここで死のうと思ってここにいらっしゃたのでしょう?」
言葉の形こそ疑問を投げかける風になっているが、言葉を聞いた印象としては、こちらの考えをまるきり理解している風にしか聞こえない。
せっかく雨音が沈黙を美しく埋めてくれていたと言うのに、貴婦人は最初の印象なんてものは、散弾銃で撃ち抜いてやる。と言わんばかりの、山野をかけるに不足ない、活力あふれる声色で私に問いかけた。
「あなたこそ、こんな所でぶら下がり運動でもするおつもりだったのですか?」
素直に答えるのがなんとなく癪だ。そうなのでしょう?分かっていますよ。なんていう心の声が聞こえてきそうな表情で言われると、どこかへ行っていた反骨心とやらが、えっちらほっちら帰ってくる。
「いいえ、死ぬ気はさっぱり失せました。あなたもそうなのではありませんか?」
この婦人にどうやら皮肉の類はまったく堪えないらしい。なので、もう面倒くさくなって素直に話につきあうことにした。
どうせ外は結構な雨で、無理に濡れて帰っては風邪をひく。雨脚が弱まるまではここにいなければならない。
「そうですね、死に姿なんて、人に見せられたものじゃないでしょう」
「そうですね。その通り。ですけれど私は別の欲が湧いてきました」
すっかり溌剌としている様子を見ると、この婦人がほんの数分前まで首つり自殺をしようと思っていた。とは誰も思わないだろう。
「別の欲が湧いてきたんです」
「そうですか、良うございましたね」
「どんな欲なのか、聞いてくださらない?」
「嫌です」
「ではこれは独り言です」
特に考えるでもなくぽんぽんと返事を返す。雨がやむまでの付き合いなのだから、いくら美人といえども無条件に親切にしてやる理由は無い。同族憐憫に近い感情も、死ぬ気を失くした今の婦人に向けるのも筋が違う。だから、婦人の放った言葉は私にとっては完全な奇襲攻撃であった。
「私を抱いてください」
私は絶句した。いや、私は聞きの体勢に入っていたのだから絶句、と言うのは間違いかもしれない。返す言葉を失った。と言うのが比較的近い表現と言えるだろうが、この場合様々な感情が私の心の内を荒らしまわっているから、自失した。と言うのが最も適切なのかもしれなかった。だがそんな表現の事はまったく些細な事で、私の心の内を正しく表現したからと言って、一体何の意味があるのかと言う哲学的命題は、この際全くきっぱりすっぱりと無視してかまわない程度の問題でしかない。この女は一体何を言っているのか。
「分かりません?せっ」
「やかましい」
私はとにかくこの女の言葉を遮りたくて、慌てて言葉を口にした。物書きの世界には禁止されている言葉。あるいは自重すべき言葉。と言うものが確かに存在するのだ。
「意外と初心なのですね、そちらの経験がない?」
初心がどうとかいう話ではない。私は良識の話をしている。いや正しくは話していないから、良識とか倫理観とか常識とか貞操観念とか、とにかくそういうものについて考えている。
「私は処女ですので、お相子ですね」
「興味無い」
「まあ、男色家の方でしたか、それは失礼を」
「そうじゃない、あんた一体何なんだ?急にそんな話をしだして」
「湧いた欲の話ですけれど」
「ああ、そうだったか」
湧いた欲の話。とは言うが、突飛過ぎて理解が出来そうにない。何をどうしたらこんな訳のわからない話になるのか。
理解が及ばないので感情だけが反応して、半ば子供じみた口げんかのような様相になってしまうが、こんな意味不明な状況で冷静な方がどうかしている。
この女が、話の内容に似つかわしくないほど真剣な表情で言うものだから、余計に腹が立つ。はて、なんに対して?
「据え膳食わぬは、ではないのですか?」
「平気な顔して食う方がよほど恥さらしだと思うが」
「まあ、意気地のないこと」
「意気地のない男はあんたも嫌だろう」
「いいえ、ではあなたは生娘のように体を固くして、そこで横になっていてくれればそれで構いません」
「お断りだ」
「では着物をお脱ぎになってくださいな」
「なんだってそんなに致したがる!よそでやれ!」
「次の方が見つかる前にまた死にたくなったらどうするのです?」
「知った事か」
「まあ、なんて無責任なお方、あなたは責任を果たすべきです」
「なんの責任だ、覚えがない」
「私に欲を思い出させた責任を」
「思い出させた?意味がわからん」
「女に性欲が無いとでも?過激な妄想は処女の得意とする所です」
「それこそ私の知ったことではない」
「独り者の女性は、意外と処女のまま死にたくない。と思っているのですよ?殿方だって同じでしょう?」
「そんなものか?全く分からん。それと年頃の娘が処女処女連呼するな」
「面倒な童貞ですね、良いから黙って私を抱けばいいのです」
「そんな訳に行くか」
「ではどうしたら抱いてくれるのです」
「だから抱かないと言っている」
「埒が明きませんね」
「諦めろ」
「いいえ、こんな奇跡みたいな偶然は二度も起こりません、今を逃せば次は無いのです」
「必死すぎだろ」
「どうせあなたも私も死ぬのだからいいではありませんか」
「責任を負えなんて言いません」
「優しくしろとも言いません」
「あなたは何も考えず、何も思わず、ただ私を抱けばいいのです」
「私を抱いてください」
わずかに涙を蓄えながら、文字通りの決死の表情で、知ることと言えば見た目と態度の悪さぐらいであるよく知りもしない男に縋る女をどうして袖にできようか。
私は恐れ多くも物書きの末席に居座る人間だが、この時ばかりは心の内に湧き上がる玉虫色の感情を表現しきる事はできそうにないと、静かにタオルを投げることになった。
理性の神が実在するなら、そいつは職務怠慢で逮捕されるべきです。
そして羞恥心の神が実在するなら、あなたは少し勤勉がすぎるので、もう少し休まれた方がよろしい。
書きあげて、読み返して、赤面して死にたくなって、更新ボタンを、押すぞ、押しちゃうぞ。
真面目な内容のつもりでも、こう言うのを書く時の覚悟の要求値が軒並み外れて高すぎる。
せめて失笑でもしていただければ。幸いです。次は長い予定です。