1.よくわからない男と、よくわからない女
注意
自殺に関係する描写があります。苦手な方は読まないようにお願いします。実際には死にませんが。
当然フィクションですので、読んでいただけるなら嬉しいです。
今年は空梅雨かと皆が噂すると、途端に雨がざあざあ降り出して一向に止まず。
テレビのお姉さんの話を聞けば今日は日本中どこもかしこも大雨の様子。所によっては土砂崩れなんかの災害も随分と起こっているらしい。
梅雨はどうにも辛気臭いので好きになれない。青年と呼べる年頃まで梅雨のない北方の田舎に暮らしていたから余計に、かもしれない。
辛気臭いのも好きではないから、よし、と自分に発破をかけてお気に入りのペンを握ってみようか。
古臭くて広くも無いアパートの一室で、私は奮発して買った万年筆を握ってみるが、特に使い道はない。
ちょっと背伸びして買い求めたこの万年筆は、ただの手慰みの為の一品である。
本当なら、私が世論を紙面で踊らせる腕利きの新聞記者や、大御所なんて呼ばれる大文豪か何かであれば、かなり決まりが良いだろうが、私はつまらない物書きで、この上等な万年筆も私なんかに握られていては居心地が悪いに違いない。
この万年筆が、まっさらな原稿用紙にするするとインクを走らせるようなことは、おそらく一生ないのだろう。
その悲しさと哀れさがまるで自分の事のように思えてきて、やっぱり求めなければ良かったかと後悔する。そしてやはり一目見てすっかり気に入ってしまったこの万年筆がとびきりに美しい物である事に改めて気付かされ、私にできる最大限の敬意として、そっと万年筆をペン立てに差し込む。
安物のボールペンやシャープペンに挟まれて、そこでもやっぱり決まりが悪い。
購入した際についてきた上等そうな万年筆の容れ物は、生来のものぐさである私が、どこに置いたか忘れてしまってそれきりだ。申し訳ないが今日もこの万年筆には決まりの悪いこの場所に収まってもらう事にしよう。
お姉さんの予報は見事にはずれ、今日は午後から随分と久しく思える太陽が顔を覗かせていた。
久々に出かけよう。
出かけなければならない。
くたびれたドアを開けて錆びた鉄板床と申し訳程度の落下防止柵だけのみすぼらしい廊下に出ると、湿った空気と久々の太陽が、私を手荒く歓迎してくれた。
後悔した。出不精の私が外出できるような環境ではないに違いなかった。
すぐさま壊れかけのやかましい扇風機の前に帰りたいと心から願って、しかし、せっかく新調したまま数週間も置き去りにされた下駄をたった数歩でまたカビ臭い玄関に放り出すのかと思うと、それも哀れに思い、えいやと一歩を踏み出してみる。
なるほど、このむわっとくる空気も、肌がひりつく様な太陽光も、歩きだしてみればどうと言う事はなかった。建築法的に不安になる古い鉄板床をかんかん鳴らして歩くと思いのほか気分が良い。
これまた降りるのが不安になる鉄板製の階段まで歩いてから、鍵を閉めていない事に気がついた。慌ててドアまで戻る。袖を探すと、今度は鍵がない。どこに落した、いや、単純に部屋の中に忘れただけに違いない。なにせ久々の外出なのだ。
なにごともままならぬものである。
部屋の鍵をかけた。と確信するためにドアと階段とを二往復して、それから真新しい下駄越しのアスファルトを踏みしめる。
目的地は決まっていたから最寄りの駅を目指す。せかせか歩けば十分で到着する距離をのんきにからんころんと楽しみながら二十分もかけて歩く。
平日の街中は今の私と同じくのんきな雰囲気で満たされていて気分が良いが、駅の中はそうではない。どこから湧いたのかと思う程の人。田舎生まれ田舎育ちの私には十年住んでも急かされているようで落ち着かない。
まあ、かろうじて首都圏。と諦める。十年住んで慣れない方が悪いのだ。豪勢にタクシーでも拾って目的地まで行ければいいのだが、生まれついての貧乏性が無用な出費を許せない。ままならぬものである。と偉そうに夢想してみるが、たいして面白くも無い思い出が湧いてきそうだったので、すぐさまやめた。
多少もたつきながら切符を買って電車に乗る。込み合う車両ではないのは何度か乗っていたので知っていた。人もまばらな車内の適当な座席に腰を下ろす。退屈しのぎにむこうの車窓から街の様子を眺めていると、銭湯の煙突が遠くの方に見えていた。
そのさらに向こうには、見えはしないが商店街がある。そこには総菜屋があって、都会に越してきたばかりの頃は揚げたてのクリームコロッケを目当てに毎日のように通い詰め、そこの女将にもっとマシな物を食いなと説教された事が懐かしい。
世話焼きのやさしい女将と無口で愛想のない主人が、聞く所かなりドラマチックな経緯で始めた総菜屋は商店街一の名物である。最近は原稿の方に掛かりきりで御無沙汰だったが、また食べたいと心から思う。
凝り性な所がある私は、金物屋にも世話になった。独身者の私はちょっとばかり料理が出来る。包丁から何から、調理器具はその金物屋で粗方そろえた。そろえさせた、と言った方が間違いが少ないかもしれない。原稿料が入る度に不機嫌そうな店主に無茶な仕入れを頼んだものだったが、店主は仕入れられないとは絶対に言わなかった。ここしばらくはまともな料理をしていない事に気がついて申し訳ない気持ちになる。
そう言えばその商店街の裏通りには、くそったれのケイ坊が住んでいる。酒と女とを際限なしに好むくせに理知的な、感じの悪い好漢である。彼との出会いはもう忘れた。彼の印象に見合うだけの出来事があったのかもしれないし、無かったのかもしれない。どうでもいい事は三歩も歩けばすぐに忘れてしまう私である。
私と彼は顔を合わせれば必ず皮肉を言い合い、互いの意見を否定する。感じ入ったり否定出来なかったら負けで、負けた方が酒代を持つ。と言うのがいつからか始まった私と彼とのお決まりの遊びだ。
あの安酒しか置いていない老けたおねぇさんの店も、この所顔を出していない。半分ぐらい残している私のボトルは少しばかり惜しい。そんな事ばかり覚えている。
湧いては消える記憶をあらためていると、そんな十年を過ごした街が次第に離れていく。
なるほど、なんとなしに哀愁を誘う表現として、鉄道が使われる理由が分かる。故郷を離れる時には微塵も感じなかった名前も知らない感情が、目の裏を殴りつけている。
私は幽霊を信じない。自分の目には見えないからだ。だからこの名前も知らない感情だって幽霊みたいなものに違いないのだから、私は心霊番組を見る時とぴったり同じだけの覚悟で、瞼を閉じて右手で瞼を覆い隠した。
「なんだよ、お姉さんの言う通りか」
ほんの一瞬ばかりで落ち着いて目を開けてから外を見ると、先ほどの太陽こそが貴様の幻想だと言わんばかりの厳粛な雫が車窓を歪めていた。
学生の時に買ったちょっとお高い腕時計を見ると、目的の駅まではあと数分の所だった。
電車を乗り換えてまた少し揺られると、今までの都市的な風景はすっかり無くなっていた。暖かい灰色の景色から寒々しい緑ばかりの道中で、見て面白い物などありはしないかと探しても何もありはしなかった。それでも不思議と眠気は襲ってこなかった。
こぢんまりとした駅を出て、一つしかないバスターミナルから目当てのバスに乗り込む。普段はバスになど乗る機会も滅多にない。バスで行ける距離なら普段の私なら歩くのだ。だが今日はさめざめと雨が降っているからしようがない。そう言い分けして、ほとんど初めてのバスなるものに内心うきうきしながら平静を装って乗車した。それ故に整理券を取り忘れて運転手に注意されたとしても致し方がないことなのである。
こう言う時にこそ、私は何にも知らない子供以下の存在なのだなと痛感する。子供には輝かしい未来があると聞くが、四十も目前の私にはそんな物があるはずもない。
せめて卑屈にはなるまい、知らぬものは知らぬと胸を張るのだ。年を重ねて虚勢ばかりが上手になってげんなりするがどうしようもない事である。
せめて料金支払いでは失敗すまい、旅の恥はかき捨てと、愧死することすら織り込み済みの常ならぬ決意をしてカチリと更新される料金表を、その料金表には全く覚えのないであろう恨みを少々込めて睨みつける。目当ての停留所まではあと四つ。時間にしてどのくらいなのだろうと、ちらりと思ったが、やはりこれ以上恥をかきたくないので集中してまたカチリとなった料金表を睨みつけた。
目当ての停留所に着くころには、雨は随分とささやかな様子になっていた。バスのワイパーもいつ動いているのか分からないほどで、少し目を離すときれいにまばらな雫をぬぐっている。機械と言う奴は誰も見もしなければ感謝もされないと言うのに、まったく勤勉で素晴らしいと思いながら席を立って出口へ向かう。財布を取り出して、料金を確認して、小銭を指でかき回しながら二十円足りない事に気がついて絶望に打ちひしがれる。
「お客さん、両替機がついてるから」
まるで阿呆のように口をあけたまま呆然として、たっぷり五秒も財布に指を突っこんだままぴくりとも動かない私を見かねたのか、運転手が私に声をかけた。そう言われてハッとする。幸い、財布の中には偉人が印刷された神々しい紙幣が、細かい料金を払えない事を申し訳なさそうにしながらもそこにある。当然のように両替機自体の事は私でも知っていた。それがここにあることには気付かなかっただけなのだ。危うくこんな所で、一度はやってみたいと思っていた、釣りはいらねぇ。をやるしかないのかと覚悟したが杞憂で済んで何よりであった。
「しかしこんな所に何の用事があるんだい?」
じゃらじゃらと耳にさわる音をさせながら偉大な細菌学者をミンチにしていると、運転手が不思議そうな声色で聞いてきた。
そこで私はここまで私以外の乗客が一人も増えなかった事に気がついた。あいにくの雨、駅から街を抜けて鉄道の通っていない隣町へ向かうバスである。逆方向なら多少は乗客もあったかもしれないが、このバスには他に客がおらず、運転手も暇つぶしに少しくらい話をしたい気分になったのかもしれない。
「少し歩くと山の中ごろに廃寺があるらしくて一度様子を見てみたいと思ったんです」
だから私もそういう気分になって、あらかじめ考えてあった文句を口にした。
「廃寺じゃなくて廃神社だね、ご神体もきちんと麓の新しいお社に移ったけど、あんまりお勧めしないよ。私は見えないが見える友人が言うには、出る、らしい」
運転手は私の意図的な間違いを訂正して、気味悪そうにしながらも教えてくれる。この人はきっと親切な人で、私が興味本位で考えの足らない事をしようとしているのをやめさせようとしているに違いなかった。出るらしい事も私は知っていたが知っていたからここに来た。
「物書きでして、見てみない事には書けませんので」
私は心霊現象を全く信じていないし、神仏の類の存在もまるきり信じていなかった。そしてそんな自分の目に見えない事情にはまったく興味が無く、用事があるのはその廃神社であったから、またしても考えてあった言葉をはっきりと口にしながら、料金を支払った。
「そりゃあ豪気だね、じゃあ、気をつけてな」
運転手の言葉を会釈で返し、そのまま階段状になっているステップをゆっくり下りて振り返る。扉が閉まっていざ発車というタイミングで運転手がこちらを見ながら、警察官みたいな敬礼をしてくれる。
バスが発車して、そのバスがすっかり見えなくなってから私はゆっくり歩きだす。
「粋なマネをしてくれるじゃあないか」
バスの運転手がらしくない敬礼をはなむけてくれた事がなんとなく嬉しくて、にやにやしながら一人語つ。
道路に歩道が無かったので、下駄をコロンコロン鳴らしながら路側帯を歩くことにした。アスファルトも濡れているせいか音が街中よりも丸みを帯びている。
雨はほとんど止みかけで気にならない。雲が厚いせいでやや薄暗いが、日没まではまだまだ時間があるので問題なく目的地に到着するだろう。
着流し風の格好を穏やかなぬるい風にゆすられながら陽気に歩く。水たまりの水が下駄を濡らそうが、足を濡らそうが構いはしない。着物の裾が濡れた時は少しむっとなるが、普段使いの安物だと割り切って気にしないことにする。
気休めに道端を見てみると元は芝だったのであろう草むらは、きっちり見渡す限りまでぼさぼさで手入れをされている様子はない。車通りの少ない、管理が多少杜撰でも文句が出にくい道路なのであろうことがすぐに分かった。
よくよく道路を見てみれば、あちこちにひびが入っていて、そのひびを治たのであろう痕も出っ張っていたり、凹んでいたりと随分とくたびれている様子。長らく働き詰めのアスファルトにご苦労さんと声をかけながら歩くと、石造りの階段が目に入ってきた。
石造りの階段と言っても、さほど上等な代物ではない。キチンと切りそろえられた石材は一つも無く、所々にいびつで少々決まりの悪い居姿が特徴的である。端の少し大きな石材との隙間から草が無数に生えているのも、まあわびさびと言えなくはないのかもしれない。
バスの運転手が言う通りに気味悪がって誰も近づかないのか、階段の石には苔らしきものが所々生えている。いまだこの場所に通う参拝客が居る、と言う事はあるまい。
そう思って雨でぬめる様な気がする階段をゆっくりと慎重に昇っていく。二十も昇れば周囲はうっそうと茂る樹木に覆われて一段と薄暗くなる。四十も昇れば、日光を遮るためか肌寒く感じもする。六十も昇れば、もしやこれは悪寒と言う物なのではとちらりと不安に思いもするが、八十も昇れば、ああ足腰が痛いと悪寒などどこかに飛んでいく。そして百も昇れば廃れた社が視界に入ってほっとする。
神社として機能していたのはもう随分と前の話で、今は社だった木造の建物が一つ建っているだけに過ぎない。しめ縄や、あのガラガラなる大きな鈴も無い。ただ古いだけの建物は、今にも消えてなくなってしまうのではと思う程には頼りない。
ぼんやりと建物と周囲を見渡していると、雨脚が強まってきていることに気がついた。これはいけない。びしょ濡れになれば流石に風邪をこじらせると思うや、即座に建物の軒下に逃げ込んで、自分の行動のおかしさに笑いがこみあげてくる。
「いまさら風邪をひくと心配してどうするんだか、どうせこれから」
誰も居やしないと思って遠慮のない声量で独り言を漏らす。
「誰かいるのですか?」
尻が浮いた。
いや、尻はそもそもが足に支えられて浮いている。そうではなくて酷く驚いてしまって絶句する。
楚々とした美しい外見が夢想できる様な痛々しい程に幻想的な声だった。その声はあまりに儚く私のような粗雑な人間が考えなしに息を吸いこんだら、その勢いのままに消えてしまうのではないかと思うような感覚があった。この声の持ち主がこの世の物ではない気がしておそるおそる社の方へと振り返る。
すると、確かに閉じていた扉がわずかに開いていて、その隙間からこちらを覗くようにして立っている女が一人。
「こちらの神社に何かご用でしょうか」
私はこの女が何を言っているのか理解できなかった。私の脳の中に存在するはずの言語中枢なる部分が突如として猛烈なボイコットを始めたのである。全体的に鈍くなっているらしい私の脳みそに理解できるのはこの女の声が、まるでこの世の物とは思えない美しさを孕んでいる事だけであった。
「あの、大丈夫ですか」
私はこの女の不審そうな表情に気がついたが理解はできない程度には動きの鈍い脳みそにカッと血を送り、どうにか言葉をひねろうと努力してみるが、今だ本調子には程遠い私の脳みそが紡いだ言葉はそれはそれは酷い言葉だった。物書きの風上どころか風下にだって置けはせぬ、捻りもへったくれも言葉に必要な要素を何もかも一纏めにしてドブ川に投げ込んだような有様のみすぼらしい形だけの言葉が口を突く。
「雨宿りに軒先をお借りしています」
さあ、今こそ笑ってよい。私の書いたつまらない作品の中にも、ここまで無意味で、意味不明なセリフなどは存在しなかった。つまるところ、この一言は私の貧相な語彙を証明する最高傑作の冗談だと言っていい。
口を突いた刹那後にはそう思わなければ生きていけない切実な、逃げようのない自分自身への羞恥心が、私のたいして役に立たない脳みそにさらなる血液を送りこんだ。愧死するならば今以外にあるまい。そう確信するが、残念ながら私は羞恥心では死ねない性分の様だった。
「そう、ですか」
女もどう返してよいのか分からずに言葉を濁して、私も女も決して目を会わせずに黙りこむ。
私は今すぐ持参した毒薬の類を一気にあおってしまい、そのままパタリと死にたい気分になった。しかし見ず知らずの女に四十前の不細工な男が自殺する様を見せつけるなど倫理に反すると思い至って、これからどうするべきかを必死になって考えた。強まる雨の音がやかましくて全く考えが纏まらない。死ねなくなったのに必死になって考えるとは、ままならぬものである。
「そこでは濡れてしまうのではありませんか」
私は無意識に女に背を向けていたらしく、女の声は背中の方から聞こえてきた。改めて振り向くのも恥ずかしく、礼を欠くのを承知でそのまま声だけで返事をした。
「いえ、もう幾らか濡れていますので気にしません」
私の経験上、ミジンコの大きさばかりしか持ち合わせていない私のささやかな自尊心が良い方向に働いたためしがなかったが、それでも恥をかくよりかは大分マシだと割り切って、あたかも小粋な風を装って言い切る。粋とは無縁の無粋の極みのような男が小粋な風を装っても痛ましいだけで、滑稽さはなりをひそめるばかりになるだろうが、そこは自らの羞恥心でこの気持ちにふたをすれば全く何の問題もないのだ。せめてこのすっかり隠れて分かりにくいであろう滑稽さが、この女にも伝わればあるいは私も救われるかもしれぬ。それは無理な話だと分かっている。それでも男は女の前では無様と知りつつ見栄をはる。はて、何に対しての見栄なのか。私自身でも何を言わんとしているのかよく分からない。
「でも風邪をひいてしまうかもしれません」
私は理由がさっぱり分からないが、混乱の極致にあった。
なんでこんな場所に人がいるのか。
誰もいないだろうと目当てをつけたのがこの廃神社である。随分昔に廃れ、今では心霊現象が起こるなどとつまらない噂が僅かばかり聞こえてくる、交通の便も良くない、不人気なつまらない田舎の廃神社。
ここならば死ぬにはちょうど良かろうと、仕事をすまし、身の回りの整理も方々に手を尽くして滞りなく終わらせ、それから梅雨の晴れ間、と日付を定めて、わざわざ電車を乗り換え、乗り慣れないバスで恥をさらしながらもここまで来たのに、どうして今、この場所で、人と会ってしまうのか。
ああ、ままならぬ、何事も。と心の内で今日一番のままならぬ、をぶちあげて、そこでふと冷静になった。
今日はどうせ死ねない。
この女がどういう理由でここに居るのか、私には皆目見当もつかぬ。
であれば、この女の言う通りに体を労わって、次の機会を目指して、それから万全に事を構える方がずっと効率が良かろう。
なるほど、これは良い思いつきに思えたが、たったひとつだけ問題点があった。
いまさらどの面下げて振り向くと言うのか。
ミレニアム問題も裸足で逃げ出す超難問である。
無様をさらし、その無様を自らの自尊心と羞恥心で見ないふりをし、おそらく訳のわからぬ不審者と思われている私がどのようにして、やっぱり中に入れてくれ。と言えるのか。
この質問を街中の十人に投げかければ、十人中十人が無理だと即断し、眺めていただけの十人が、それは無理だと断言するに違いない。
十人中二十人がそう言うのであれば、無理に違いあるまい。私は屋内に入る事をすっぱり諦めることにした。
そう思うと、今度は依然として成長中らしい雨が気になってくる。
すっかり成人した雨粒は地面に当たって子供たちを産めよ増やせよの大盤振る舞いで、裸足に下駄の私の素足を容赦なく泥水で汚しているし、すでに湿っている着物などは、私の気分も相まって、随分と重たい気がする。ああ、冷えてきた。ぶるりと体が震えだすと、もうこの寒さにすっかり嫌気が差すものの、やっぱり自分から中に入りたいとは言えない。なんだか気分が落ち込み過ぎて、むしろ気分が高揚してくる。
さあ、みなさん御一緒に、ま、ま、な、ら、ぬ。
はい、ありがとう。
「やはり、体が冷えているのでしょう、中へどうぞ。そこよりはマシになるでしょう」
私の葛藤を背中から察したのか、女がそんな事を言って中に引っ込んでいった。
私は恥を捨て、誇りを捨て、裾についた泥と一緒にためらいを気持ち一匙分だけ払って、勤めて無表情で女の後を追った。
中に入って。おや、と思った。
想像よりも痛みの少ない柱や梁を不思議に思ったのではない。
一般の家屋に見られない、特徴的な内部構造に関心を引かれたのではない。
部屋の中央に二つ重ねられた台座と、あれは確かクリンチノットと呼ばれる結び方で結われた、台座の直上にたらされた麻縄に興味を引かれたのだ。あの結び方は荷重がかかる限り絶対に緩まない様な結び方である事を、幼少時ルアー釣りにハマった事のある私は知っていた。
それから私は女を探した。
女は隠れるわけでもなく、隠すでもなく、台座の横に立っていた。
残念ながら、声のイメージほど美しい女性では無かったが、凛とした雰囲気のある美人であることが見て取れた。
「驚かれましたか」
いかに無粋な私といえども、流石に、何にです?とは聞き返さなかった。
彼女の極めて平坦な声に、若干の申し訳なさが含まれていることに気がついたからだ。
「いえ、あ、いや、驚きました」
「そうでしょうとも」
まるでこれから首つり自殺をします。と言わんばかりの様子を見ても、別に驚きはしない。
首吊りは、最も自殺のイメージが強い死に方だと私は思う。なぜなら、一目で自殺と分かる。余程の理由が無ければ首吊りに見せかけて人を殺すなんて事はフィクションの中にしか存在すまい。
だから私が首つり自殺について考えた事は何度かあった。
苦しいらしいと言う事、後が大変らしいと言う事から私はこの方法を選ばなかった。
だが、私もまさか、女性が自殺する寸前に独り言を漏らし、その自殺を邪魔してしまっていたとは思っていなかった。
私自身の間の悪さに驚いたのだ。
「お勧めしませんよ」
「何が、でしょう」
又聞とはいえ知識のある私にしてみれば、自殺するのに、わざわざ痛かったり、苦しかったりする死に方を選ぶ必要があるとは全く思えなかった。
だから、単純に親切心で、あるいは余計なお節介として、お勧めしないと口にしたが、彼女はそうは受け取らなかったらしく、即座に返された言葉には若干の怒りが籠められていた。
「首つり。苦しいらしいですよ。なかなか死なないらしいですし、麻縄も暴れるうちに切れる可能性が比較的高いみたいです」
どうせなら服毒がよろしいかと、と言葉を結んで、彼女の反応を覗き見た。先ほどまでの恥ずかしさや気まずさは、すでに雨音と一緒になって分からなくなってしまったが、自殺を邪魔してしまった申し訳なさが、彼女の顔を見る事を妨げた。
人を殺すのは、とても勇気がいる。それが自分なら余計に必要なのだ。死ぬ死ぬ言っても、なかなかできないのはその為だ。
行動の伴わない自殺未遂、もしくは自殺欲求の発露など、それこそ雨粒の数ほどに経験してきた。そろそろ自殺上級者を自称しても良いくらいだと思っている私である。
「ふ、ふふ」
彼女の顔をちらと見て、すぐに目をそらしてしまった臆病で勇気の持てない私は、この音が一体何なのかがさっぱり分からなかった。
「ふふふふ」
何の音かと出所を探してみれば、彼女がきれいな手で口元を隠して笑っている。意味が分からなかった。
面白い事を言ったつもりはかけらも無い。至極真面目な、私なりのアドバイスのつもりであったのだが。
その笑い方に品があって、育ちの良さを感じさせるあたりを見ると、どこかの貴婦人なのでは、いる所にはいるのだなぁと、私は全く関係の無い部分で感心した。
「ああ、おかしい」
「……さようですか」
「ええ、きれいさっぱり死ぬ気が失せました」
しばらく笑っていた彼女はそう言って居住まいを正して頭を下げた。
彼女をよくよく観察してみれば、上等な着物をぴしりと着こんでいて、髪も見事に結いあげられている。頭の下げ方にまで気品があって、さぞ育ちの良いお方である事は間違いないと確信する。
「お見苦しい所をお見せしました」
「いいえ、あなたは大層美人でいらっしゃる」
「……ふ、ふふふ」
つい口をついて出た言葉は、大概が本心であり、貴人に対する生来の反骨心などは微塵も含ませる事が出来なかった。
何が面白いのか彼女はまた口元を隠して笑いだしたが、今度はさっきよりも短い時間で落ち着いた。
「あなたはとても、おかしな人ね」
「……さようですか」
「ええ、あなたは、さあ死ぬぞ、と思っている時でも、人の心配をする余裕があるのね」
「貴婦人といえども手鏡はお持ちでない?」
「まあ、ふ、ふふ。もちろん、持っています」
「……さようで」
この貴婦人は、どうやら私程度の語彙では太刀打ちできないほどの腕前を持っているらしかった。
こんな所まで読んでいただいてありがとうございます。
長年温めていたネタでちょっと書いてみようと思いまして書きました。
書き切れると良いなぁ、心が折れると更新止まります。
あと私は凄まじい遅筆なので、次の話まで凄く時間がかかると思います。
他の作品は一時更新停止にして、とりあえずこいつを完結まで。
持っていけたらいいなぁ。
一応毎回一万文字程度を目安にして書くつもりですが、関係無しに増減すると思います。
読みにくくてすみません。