有馬煜の事情 其の五
「ただいま」
有馬家特製コンソメスープの匂いがする。いつもの我が家。
「お帰りなさい」
姉さんの声がキッチンから聞こえた。ぼくは自室に荷物を置く為、そして今後の事について話す為の心の整理をする為に階段を上がる。有馬家特製コンソメスープの匂いが少しばかり遠のく。
「手洗いうがい」
「分かってるよ」
「分かってるならやりなさいよ、風邪引くでしょ」
「このご時世で風邪を引く事なんてあり得ないでしょ」
昔と比べるとあり得ない事だらけのこの世界。OFのおかげで誰も裏切らない誰も傷つかない様になって、OFのおかげで完全なる個体なんて物は消滅した。ぼくらは等しく政府に汚染されている。病原菌なんて体内に入り込めたとしてもその瞬間にOF内のケアシステムがそれを検知して直ぐ様抗体を作り出す。挙げ句の果てに老化すら抑制され、三十代後半の容姿で大体の人間は寿命による最期を迎える。何が言いたいかといえば、風邪なんて引きたくても引けなんいんだよ、という事。
鞄を下ろして一息つく。
「学校はどう?何とかなりそう?」
「まぁね。友達も少ないけどいるし、兄さんの事で何かされたりは今の所ないよ」
「良かった。私、職員室で煜が登校してきたぞって先生達が驚いてるの見て笑いそうになっちゃったよ」
「驚くでしょ、昨今珍しい不登校生徒が自らの意思で登校してきたんだから」
それもそうか、と姉さんはくすりと笑う。教師という職業が昔どれだけ大変だったか姉さんは正直分かってないだろう。子供の背後にいる親に萎縮して叱りたくても叱れない。そうしている間にも広がるいじめ。自殺する子供。自殺した生徒の親の怒りの矛先は何もせず見て見ぬ振りをしていた自分に向く。
絶対ではないにしろ、そういったルーティンが学校という小さな社会には存在していた。何より、良い生活を送っている子供はタチが悪かった。立ち振る舞いという物を理解しているからこそ両親にはバレずに暗躍する事が出来てしまっていた。それすらもOFは変えたのだからそこは素直に恐れ入る部分であはある。
生徒達の安全な学校生活を守るべく、精神状態や健康状態を手に取るように理解して生徒達に接する事が可能になった。昔の様に悪さをしようにも生徒達の力が及ばぬ外側から常に監視され管理されている。ビッグブラザーがあなたを見守っています。そんな状態。
姉さんはとても評価されてる。僕と住んでいる事を除いては。このまま何も知らないままに生きていって欲しい。政府とか、ヴォルフガングズとか兄さんとか。そういった知らなくても良い事、考えなくても良い事から出来るだけ遠ざけてこの平和極まり無い世界で約束された幸せを手に入れて欲しい。
だからこそぼくは話さなければならない。
「姉さん、あのね」
「なに?」
「ぼく、やらなきゃいけない事があるんだよね」
「そうよ?沢山勉強してなりたいものになるの。お医者さんでも、何かの技術者でもなんでも良い。なりたいものになるのよ」
「うん。それもそうなんだけれど」
「そうなんだけれど?」
「うん。そうなんだけれど」
「ダメだよ煜」
それは今まで姉さんから受け取ったことの無い言葉の色と音色を兼ね備えたはっきりとした否定だった。姉さんの瞳は少しばかり潤んでいる。
「ダメって何が?」
「あなた、良く無いこと考えてる。分かるの」
「OFでも他者が何を考えてるか分からないってのに姉さんにはぼくのそれが手に取るようにわかるの?」
「分かるよ。初めてじゃないから」
「話が見えないんだけど……」
「奇跡君が悪党になった時、まさにその瞬間にね煜、あなたと同じ眼をしてた。だから分かるの。ああ、煜も社会に刃向かおうとするんだなって。そしてきっとこの世界にとって精一杯の悪行を行おうとするんだろうなって」
ヴォルフガングズなんて社会的悪でしかない。有馬奇跡も悪い大人や私自身、周りの友人が必要な時に必要な言葉をかけられなかったから道を踏み外してしまった。あれだけ有能であれだけ才能に溢れた人間は後にも先にも現れない、と。姉さんではなく花總蓮として、ぼく。そしてぼくの後ろにいるであろう兄さんに語りかける姿は何というか今にも消えてしまいそうな灯火の様に思える。
「姉さん……ぼく、兄さんを追いたいんだ」
「ダメだって」
「姉さんの気持ちは分かる」
「分かってない」
「……姉さんだってぼくの気持ち分かってないだろ」
「当たり前じゃない、他人なんだもの」
「偽善者ぶらないでよ、優しく包み込もうとしないでよ、頼んでないだろ?ぼくの進む道はぼくが決める。ぼくはこの社会の枠組みら抜ける」
「だから、ダメだってば!!」
閃光。そして髪の毛が焼け焦げた時の独特な臭いが部屋を包む。OFからの通知。
『精神的な損傷大、肉体的損傷あり。頬からの出血。直ちに治療して下さい。マニュアルは……』
などという警告と有難くも鬱陶しい世話焼きなOF総てを司る人工知能geniusが労わり、心配してくれている。
「ダメだって、ダメだってば煜……分かって」
「姉さん、そんな物騒な物をよく隠し持てていたね」
M45。花總蓮には似合わないそれをしっかりと握り締め、ぼくの額を撃ち抜こうとしているその姿は様になっている。
「あなたが何をしようとしてるかは分かってる。人の心を乱し、平和を崩し去ろうとするあの狼の一群に加わる気なんでしょ」
「ぼく……」
「そこまでです。有馬煜」
声のする方に目をやる。そこには一見すると女子と見間違える程男性らしさが欠落した菊花凌が処刑執行官の白衣を纏って立っている。気付けばその後ろに数人同じ様な顔をした連中。
「有馬煜。君を保護します」
拘束する。逮捕する。そういうニュアンスを含んだ言葉。
有馬家特製コンソメスープの普遍性も匂いも失われた瞬間、ぼくは即座に佐伯達から貰った機器のスイッチを押した。