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001. 枯れゆく地の少女

     〔1〕


 その少女には行き先がなかった。

 十の歳から二つを数えたばかりの身の上で、生家のあった村の暮らしから放逐されてはどうしようもない。

 それは端的に述べてしまえば、よくある口減らしの一環であった。とはいえ、無情にただ追いやられたわけではない。貧しい辺境の土地柄ではあるものの王国と領主の統治下にあり、西側の中央部へと街道を数日ほども遡れば一応の城壁を備えた都市が築かれてもいる。その都市へ、村に出入りの行商人から伝手(つて)を辿り、村長が奉公出しの紹介状を書き付けてくれてはいた。

 果たして首尾よく雇い上げてもらえる可能性などいかほどあったものか、此度(こたび)のことを図った大人たちとて分かりきっていたはずのことであったが。

 狭い、積荷で満載の荷馬車の隅に邪魔物のように押し込められて。幾日と揺すられ続けて都市に着き、疲れ果てた身に鞭打つ思いで件の“伝手がある”と紹介された商家へと出向いてみれば……。店主として名乗った中年の男は紹介状には手早く目を通すだけで切り上げ、こうつぶやいた「……またか」と。そして続けた言葉には嘆息がまみれていた「悪いが今は人手が足りていてね。新しく雇い入れる余裕もない。他所(よそ)をあたっておくれ」

 それで終わりだった。野良犬を払うようにとまでは邪険にされなかったが、取り付く島もないとまさにあのことだ。さっさと店の奥へと引っ込んでしまった男に、追いすがる気にはとてもなれなかった。そんなことをしていたらそれこそ無事に済んだものか。

 分かりきっていたことだ。この大陸の東端とされる“終わりの地”にあって、豊かさなど遠い地の夢物語のごとく。常に蝕み続ける貧しさの下、諦観こそが友であり、そうしてこの辺境へと押し込められた人々がついには力尽きる時を迎えるまでに無駄なあがきを繰り返す。そんな場所なのだから。

 あの遥か東の大山脈を越えた向こう側から、なおもってこの地を蝕み続ける元凶とは何なのか。知る者は誰もいない。いや、ひょっとしたら(いにしえ)からの知恵を受け継ぐなどと(うそぶ)くお偉い学者様方なら知っていることもあるのかもしれないが、そうした“余裕のある”人々ほど西の豊かで安全な土地から出てこようとはしない。まあ……それはそうだろう。誰だってそうするだろうし、もし立場が異なったなら自分だってそうするのだろうから。

 なにより……そんなことを気にしたところで意味がなかった。少女には今日の寝床もない。年端もいかぬ女の細身で、なお痩せ果てて非力も極まりなく。荷物とてろくに持ってはいないのだ。薄いボロの背嚢(はいのう)の中には、木製の水筒と(くず)みたいな保存食の余り、あとは替えの下着が一組みだけ。他はすべて村にまだ暮らす弟妹たちへと残してきた。元より自身のための所有物など数えるほどしかありはしなかったが。

 何もないこの身に。残ったものは名前だけだ。

 アルヴァ。姓はない。辺境の貧しい農民になどそんなものは必要なかった。エルランドの家の孫でヨーゼフとカリータの娘、そうした名乗りだけで十分であり……そして意味を失った系譜でもある。

 それでも、アルヴァと、たとえ両の手がともに空虚であっても抱きしめていられるものを胸の内に。ただ一つの()()

 そして決めなければならない。アルヴァは自らの決意を問うた。残された時間は、もう半日を切っている。日の暮れるまでに……己が身をどこへ処すのか。

 本気でなりふりを構わないとなれば、女の身であれば糊口をしのぐ選択がありうる。アルヴァはまだ幼さを残す身で、飢えに痩せていたこともあってまだその体は“月の日”を迎えて大人としての女にはなれていなかったが……。それでも、そう、なりふりを構わないというのはそういうことだ。

 けれど、本当に? そう問い続ける自分が内側から見逃してくれない。

 諦観は友だ。それは常にそばにあった。だが……本当の意味で諦められることと諦められないことの違いを。

 持って行くことはできる。己の決意一つで、おそらくは、そこだけが誰にも残された最後の領土として。

 アルヴァは、壁にさえぎられ狭くなった昼下がりの空を、その内から見上げて……そうして一つの思いを定めると、西側の外門へと向けて歩を進めた。もうここに用はない。せっかくの入市税として支払った銅貨数枚が無駄となってしまうが、それを気にする必要もない。

 なくなってしまったのだ。



     ◆


 アルヴァは山を登っていた。登り続けていた。

 あの都市からさらに西の王国中央部へと向かう街道は、行き来を容易ならざるものとする土地の高低――要するに山と谷――をなるべく避けようとした形で蛇行して走っている。ならば、その道から外れてみれば山深くへ踏み入るもたやすい地形ということを意味した。

 方角としては北西にあたるのだろう……。できるだけ西側で、人がおらぬ自然なる場で、かつ高い所へ。そう望んだなら、少女の小柄な歩幅で足の及ぶ範囲となればこの方角が適当であった。

 東ではなく西を望んだ理由は簡単だった。もう故郷からは切り離された身なのだ。弟妹たちへと残してきた思いこそあれど、未練たらしく近寄ってなどと、そんな無様は御免だった。

 まだ見ぬ西へ向けて、それも高みから、誰よりもこの地のすべてを見下してやるのだ。

 だから山肌を登り続けた。わずかの体力も振り絞って。初日はすぐに日没を迎えたが、構わず草生えと木の根のくぼみに身を嵌めすくめて夜を過ごした。火も焚かず、食料を広げもしなければ野の獣がそうそう寄ってくることもない。むろん凍えを遠ざけることもできないが、構わなかった。虫にはさんざんに食われてしまったが。

 二日目もろくに休憩も挟まず山岳に挑み続けるなどとすれば、元より大した作りでもなかった革編みのサンダルなど壊れてしまい、アルヴァの足裏は血豆が潰れ果てていたが。それも構わなかった。もう帰りを気にする必要はないのだから。使い潰しておしまいでいい。

 とはいえ、それで歩みが軽快たろうはずもなく。ほんの数歩を進むのに百の呼吸を費やすような。緩慢な動作へと、次第に陥ってゆき。

 結局は一番近いだろうと見た峰の(いただき)にすら届かないと。それを尽きる体力とともに認めざるを得なくなった夕暮れに。

 込み上げてくる衝動に抗う(すべ)もまた、なかった。

「……うっ」

 泣き出す無様など。だが、いかに歯を食いしばろうと拳を握り締めようと、目尻からこぼれ落ちようとするわずかなそれを、(とど)めることはできず。

 一度流れ出してしまえば、もう、うめきの声も()()もなかった。

 なぜ。どうして。言葉にならない思いの端切れ。その意味を失い、見届けられることもない無念。だが何の関係がある? 誰もいないのなら――もう、我慢する必要だってない。

 うなる声は大きくなっていった。不思議と涙は涸れなかった。水筒の中身などとっくに残っておらず、身の内の水分もまた同様かと思っていたのだが。そんな状態でなけなしの水気を失う行いは愚かの極みなのだろうか。そうは思わない。命の結晶だ。その雫だ。これをこそ大いに流した果てに、濁流と化してすべてを沈めてしまえばいい!

 高ぶる狂熱と――相反するがごとく、ふらりと気が遠のきかけて。

 悟らざるを得ない。ここが限界だと。

 そうしてアルヴァは、手近な小岩にとりあえずはと腰掛けて休もうとした。しかし。

 その程度の数歩の身動きすらも……既に許されぬほど使()()()()()()()()のだと。気づくのが遅かった。いや、あるいはそれで当然であったのか……。先ほど好き放題に流してわめいて搾り出したものこそが、最後の一線の踏み越えだったのだろうから。

 アルヴァの足はもつれて崩れ、身を立て直そうと伸ばした手すら目測からずれて空振り。

 あっ――と気がついた時にはもう、崖肌めいた岩坂を転げ落ちていた。


 落下の、ほんの数瞬だろう狭間に。

 アルヴァの脳裏を()ぎった思いは、痛くないといいな――と、それくらいが限界だった。

 手爪を無理やりにでも岩坂に突き立てて身を引き止める力など、元よりありはしない。そうするだけの気勢さえも、もはや。

 だから最後、ちょっとした崖面の出っ張りによって身が跳ねて宙に投げ出された時、感じた静謐は祈りに似ていた。落下は柔らかいのだ。これで着地が固くなければ誰もが好むだろうに。

 一瞬の覚悟と身の固め。そして全てを受け入れた。だが。

 なぜか不思議と……いつまでも痛くはないままで。しかもなんとなく、温かいような。

 おそるおそると、固く閉ざしていた(まなこ)をアルヴァが見開いてみれば。

 見つめ返してくる目と視線が合った。深い、黒色の、知性をうかがわせる目と。

 アルヴァは抱きとめられていたのだ。崖面に上体を預けるようにして座り込むだか半ばを寝やるだかしていた男に。

 黒髪黒目の壮年の男だった。清潔で、上等な布地の服を着ている。おそらくは体格も悪くはないのだろう。この体勢からではよく見定められないが、なにせ小娘なりといえども上方からけっこうな勢いで落ちてきたはずのアルヴァの身をやすやすと受け止めているのだから。

 と、目があって数呼吸、不意にぴりりと静電気の強いものにも似た衝撃が身の内の芯なるところを走り抜けて。その痛みで思わず「きゃっ」と小声をあげたアルヴァに、男も反応を返してきた。

「……ふむ」

 とても不思議そうな眼差しで。アルヴァのことを見やり返した黒髪の男は、続けて言葉をこう(のたま)った。

「こういったものも、アレに該当するのだろうかね? つまり……“オヤカタ! 空から女の子がっ!” と」

「え? ちょっと意味がよくわからないです」


 はじめて交わした言葉がそんな、出会いであったが。

 これこそが後の大陸史に絢爛たる栄華を記す大帝国の始まりの日であったのだと。

 知るものはいない。きっと、この二人以外には。

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