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『浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ』 と言われたので

『浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ』と言われたので、婚約者の父親から家督を譲り受けました

作者: みやこ
掲載日:2026/11/02


第一章 浮気男は、家ごと捨てるに限る






「浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ」


婚約者のアルフレッドがそう言ったので、私は笑った。


「はっはっは! そりゃ傑作だ!」


腹の底から笑ってやった。


場所は王都でも指折りの高級料理店。


目の前には婚約者。


その隣には、彼の浮気相手。


しかも浮気相手は、私が贈ったドレスを着ていた。


なかなか愉快な光景である。


「な、何がおかしい!」


「いやあ、すまん! あまりに見事な馬鹿を見たものでな!」


「馬鹿だと!?」


「おう。婚約者の金で買ったドレスを愛人に着せ、その愛人を婚約者との食事に連れてくる。ここまで堂々とした馬鹿は初めて見た!」


私は上機嫌でワインを飲み干した。


「で、アルフレッド。お前、私との婚約を続けたいのか?」


「当然だ! お前は俺の婚約者だろう!」


「なるほど。では、お前の愛人はどうする?」


「リリアは繊細なんだ。お前のような女にはわからんだろうが、彼女にも俺の愛情が必要なんだよ」


「ほう!」


「だから、お前には正妻として広い心を持ってもらいたい」


「はっはっは!」


「笑うな!」


「いや、実にいい! お前ほど愉快な男はそうそういない!」


私は涙を拭った。


笑いすぎて腹が痛い。


だが、そろそろ笑い話も終わりにしよう。


「アルフレッド。一つ聞こう」


「なんだ!」


「お前、自分の家が誰のものか知っているか?」


「何を馬鹿な。グランベルク侯爵家は、いずれ俺が継ぐに決まっている!」


「そうか、そうか」


私はにっこり笑った。


「では、今のうちに存分に楽しんでおけ」


「……は?」


「お前の父上から、たった今、家督を譲ってほしいと頼まれているのでな」


アルフレッドの口がぽかんと開いた。


「……誰に?」


「私にだ」


私は立ち上がり、彼の肩をぽんと叩いた。


「安心しろ。お前の面倒は見ない!」


そのとき。


扉の外から、凛とした声が響いた。


「エレオノーラ様。お迎えに上がりました」


入ってきたのは、銀髪に青い瞳の美しい青年。


私の護衛騎士、カイルである。


彼は私を見るなり、嬉しそうに目を細めた。


「本日も大変お美しいです」


「はっはっは! お前は相変わらずだな!」


「はい。生涯変わるつもりはございません」


そして彼は、アルフレッドに向き直った。


笑顔が消える。


「アルフレッド様」


「な、なんだ」


「今後、エレオノーラ様に無礼を働かれた場合は、相応の覚悟をお願いいたします」


「お、脅す気か!」


「いいえ」


カイルは礼儀正しく微笑んだ。


「ご忠告です」


実に頼もしい男である。


もっとも、彼が私の前で忠犬のように尻尾を振りたがっていることを、私はまだ知らなかった。







第二章 婚約者が馬鹿なら、その父親は賢かった




私、エレオノーラ・ヴァレンシュタインは二十六歳。


伯爵家の長女にして、王都でもそこそこ名の知れた商人である。


いや、そこそこというのは謙遜だ。


私が経営する商会は、現在、王国内の香辛料流通の三割を握っている。


港湾都市に倉庫を七つ。


国内に支店が十二。


国外に取引先が二十六。


そして、なぜか王都に私の銅像が建ちかけたこともある。


あれは全力で止めた。


生きている人間の銅像など、鳥の便所になる未来しか見えん。


「お嬢様。侯爵邸に到着いたしました」


「うむ。ご苦労!」


馬車の扉を開けたカイルに手を差し出す。


彼は私の手を取った。


白い手袋越しでも、指先の温かさが伝わる。


「足元にお気をつけください」


「私は転ばんぞ?」


「存じております」


「ならばなぜ毎回言う?」


「お守りしたいからです」


さらりと言う。


まったく。


この男は、顔だけでなく口まで良い。


カイル・レインフォード。


二十四歳。


元は没落子爵家の三男で、今は私の護衛騎士兼補佐官だ。


腕っぷしが強く、頭も切れる。


礼儀正しく、辛抱強く、忠誠心は鋼鉄製。


ただし私に対してだけ、妙に甘い。


「エレオノーラ様、襟元が」


「ん?」


「失礼いたします」


彼の指が私の首元に触れた。


ずれた首飾りを直してくれる。


顔が近い。


青い瞳が真剣で、長い睫毛が妙に美しい。


「……よし」


「いかがなさいました?」


「いや。お前は本当に顔がいいなと思ってな」


するとカイルの耳が真っ赤になった。


「……ありがとうございます」


「おお、照れた!」


「どうか、あまりおからかいにならないでください」


「はっはっは! 可愛いやつめ!」


私は彼の背中をばしんと叩いた。


カイルが少しだけ肩を落としたことには気づかなかった。


グランベルク侯爵家。


それは王国でも指折りの名門貴族だ。


広大な領地。


歴史ある城館。


豊かな鉱山。


王都に三つの屋敷。


そして。


現在、借金が金貨十四万枚。


「増えましたねえ!」


私は帳簿を見て笑った。


侯爵家の執務室で、当主のローデリック・グランベルク侯爵が力なく頷く。


「笑い事ではないぞ、エレオノーラ」


「いやいや、ここまで来れば笑うしかありませんな!」


「お前は昔から豪胆だな……」


ローデリック侯爵は五十代半ば。


かつては王国財務院の重鎮だった男である。


私とは三年前、事業を通じて知り合った。


最初に会ったとき、私は彼に言った。


『侯爵閣下。この事業計画は腐った魚より臭いますな!』


もちろん怒鳴られた。


だが、三日後。


彼は私の商会を訪ねてきた。


『お前の言う通りだった。助言が欲しい』


以来、奇妙な友情が続いている。


「で、閣下。ご子息がまた何か?」


「……アルフレッドが、私の名義で金を借りた」


「ほう」


「しかも高利貸しからだ」


「ほほう!」


「金額は金貨一万枚」


「はっはっは!」


「笑うな! 胃が痛い!」


侯爵が頭を抱えた。


「なぜ、あれほど愚かに育ってしまったのだ……」


「閣下。原因を知りたいですか?」


「……言え」


「甘やかしたからです」


「ぐっ!」


「失敗しても尻拭い。浪費しても補填。女に騙されても揉み消し。そんな育て方をすれば、馬鹿は立派な馬鹿になります!」


「ぐうう……!」


「お見事! 侯爵閣下!」


「褒めるな!」


侯爵は机に突っ伏した。


私もさすがに気の毒になり、肩を叩く。


「まあ、閣下。過去は変えられません。しかし未来は変えられます」


「……本当に、引き受けてくれるのか?」


「ええ」


私は机上の書類を指で叩いた。


グランベルク侯爵家家督継承に関する特別認可書。


王印が押されている。


この国には、領地経営の能力を重んじる古い制度がある。


当主の実子に継承能力がない場合、国王の許可を得て養子に家督を譲ることができるのだ。


もちろん、簡単な話ではない。


王宮の審査。


親族会議の承認。


領地の財務調査。


そして、莫大な債務の引き受け。


そのすべてを、私はこの半年で片づけていた。


「私はグランベルク家の養女となり、次期当主になります。ただし、条件があります」


「なんだ」


「アルフレッド様への金銭援助は、一切打ち切りです」


「……わかった」


「使用人への横暴も禁止。愛人への贈答も禁止。領地経営への口出しも禁止」


「うむ」


「最後に」


私は笑顔を消した。


「彼がこれまで食いつぶした金は、必ず本人に返済させます」


侯爵が顔を上げた。


「エレオノーラ……あれでも、私の息子なのだ」


「承知しています」


「……頼む。あれを、人間に戻してやってくれ」


私はしばらく黙った。


そして、ゆっくり笑った。


「閣下」


「うむ」


「馬鹿を治す薬はありません」


「……そうか」


「ですが、馬鹿が自分の足で立つための地獄なら、用意できます!」


侯爵は泣きそうな顔で笑った。


「まったく……恐ろしい娘だ」


「褒め言葉として受け取ります!」


こうして私は、侯爵家を継ぐことになった。


なお、このとき私には一つだけ誤算があった。


アルフレッドが、想像以上の馬鹿だったことである。






第三章 馬鹿息子、盛大に墓穴を掘る





「父上! どういうことですか!」


翌朝。


侯爵家の玄関に、アルフレッドの怒声が響き渡った。


私はちょうど朝食を終えたところだった。


焼きたてのパン。


蜂蜜をかけたチーズ。


香りの良い紅茶。


実に素晴らしい朝である。


「朝から元気だな、アルフレッド!」


「エレオノーラ! 貴様、何をした!」


「朝食を食べた!」


「そういう意味ではない!」


「ならば質問は正確にしたまえ!」


アルフレッドは顔を真っ赤にしていた。


隣には例の愛人、リリア。


金髪に大きな瞳の、可愛らしい娘である。


もっとも、今日の彼女はあまり可愛くなかった。


なにしろ、私を見る目が蛇のようだったので。


「エレオノーラ様……ひどいです……!」


リリアが涙ぐむ。


「アルフレッド様を追い詰めるなんて……!」


「ほう。私が何をした?」


「婚約破棄を盾に、侯爵様を脅したのでしょう!」


「違うな」


「嘘です!」


「では、証拠を出せ」


「……え?」


「脅したと言うなら、証拠を出せ。いつ、どこで、誰が聞いた?」


「そ、それは……」


「出せないなら、ただの妄想だ!」


私はにっこり笑った。


「妄想を人前で喋ると恥をかくぞ、お嬢さん」


リリアが悔しそうに唇を噛む。


アルフレッドが彼女をかばった。


「リリアに謝れ!」


「嫌だ!」


「なっ!」


「私は間違ったことを言っておらん!」


「貴様という女は、本当に可愛げがない!」


「おお! 今さら気づいたか!」


私は手を叩いた。


「婚約して三年! 遅すぎる発見だな!」


「だからお前は男に愛されないんだ!」


その瞬間。


背後で、かちゃん、と音がした。


カイルが紅茶のポットを置いた音である。


「……アルフレッド様」


静かな声だった。


彼は微笑んでいた。


微笑んでいるのに、なぜか部屋の温度が下がった気がした。


「今のお言葉、撤回していただけますか」


「なぜだ! 本当のことだろう!」


「撤回を」


「貴様は黙っていろ! たかが護衛の分際で!」


私は思わず眉を上げた。


ほう。


これはいかん。


アルフレッドは私を侮辱した。


それだけなら、まあよい。


馬鹿の言葉など犬の遠吠えと同じだ。


だが、カイルを侮辱するのは話が別である。


「アルフレッド」


「なんだ!」


「今の言葉、取り消せ」


「は?」


「カイルに謝れと言ったんだ」


「なぜ俺が使用人に謝らねばならん!」


私は椅子から立ち上がった。


一歩。


また一歩。


アルフレッドに近づく。


彼は一歩下がった。


「お前なあ」


「な、なんだ!」


「自分の力で飯を食ったこともない男が、働いている人間を見下すな!」


どん、と床を踏み鳴らす。


「カイルは己の腕で稼いでいる! 私もそうだ! ここの料理人も、庭師も、掃除婦も、皆そうだ!」


「そ、それがどうした!」


「お前はどうだ!?」


私は彼の鼻先に指を突きつけた。


「お前が着ている服! 誰の金だ!」


「父上の……」


「靴は!」


「……父上の」


「リリア嬢の首飾りは!」


「…………」


「私の金だ!!」


部屋が静まり返った。


リリアが慌てて胸元を押さえる。


「あ、あの、これはアルフレッド様から……」


「そうだろうな。私が婚約祝いに預けた宝石商の信用状で買った品だからな!」


「えっ」


「しかも支払いはまだだ!」


私はにっこり笑った。


「請求書はこちらに回ってきた。面白いので払っておいたぞ!」


アルフレッドがほっとした顔をした。


馬鹿め。


「ただし」


私は懐から書類を取り出した。


「お前の借金として計上してある」


「なっ……!」


「金貨八百枚。年利は契約通り五分。毎月きっちり返してもらおう!」


「横暴だ!」


「購入したのはお前だ!」


「俺にはそんな金はない!」


「なら働け!」


アルフレッドは絶句した。


どうやら彼の辞書には、働くという言葉がないらしい。


実に残念である。


その日の午後。


私は侯爵家の使用人たちを集めた。


大広間には百人近い人間が並んでいる。


老齢の執事。


若い侍女。


厨房の料理人。


庭師。


馬丁。


皆、不安そうな顔をしていた。


当然だ。


当主が変われば、使用人は真っ先に首を切られる。


しかも侯爵家は借金まみれだ。


「諸君!」


私は壇上に立った。


「本日から私がこの家の経営を預かる!」


ざわめきが起こった。


「まず、三つ約束する!」


指を一本立てる。


「第一に、給金の遅配は本日限りで終わりだ! 未払い分は今日中に払う!」


どよめき。


二本目。


「第二に、能力のある者は身分にかかわらず登用する! 働きに応じて給金も上げる!」


さらに大きなどよめき。


三本目。


「第三に!」


私は大きく息を吸った。


「私の屋敷では、飯を残すな! 泣くなら腹いっぱい食ってから泣け!」


しん、と静まった。


それから。


誰かが吹き出した。


一人、また一人と笑い始める。


やがて大広間は笑い声に包まれた。


「それから、もう一つ!」


私は声を張り上げた。


「アルフレッドが無茶な命令をしたら、私に報告しろ! あいつの命令より私の命令が優先だ!」


今度は拍手が起こった。


老執事が涙ぐみながら頭を下げる。


「ありがとうございます……エレオノーラ様……」


「礼はいらん! その代わり、しっかり働け!」


「はい!」


私は満足して頷いた。


そのとき、隣のカイルが小さく呟いた。


「……やはり、あなたは素晴らしい」


「ん?」


「いえ」


彼は私に向き直った。


そして、まるで騎士が主君に忠誠を誓うように、片膝をついた。


「エレオノーラ様」


「なんだ?」


「私は、生涯あなたにお仕えします」


「はっはっは! 大げさだな!」


「大げさではありません」


青い瞳が、まっすぐ私を見つめる。


「あなたがどこへ行こうと、必ずお供します」


私は一瞬、言葉に詰まった。


……なんだ。


妙に胸が温かい。


まったく、この男は。


「よし! では、とりあえず夕食の肉を二倍にしよう!」


「……ありがとうございます」


カイルは微笑んだ。


なぜか少しだけ、残念そうだった。








第四章 忠犬騎士は、主人の恋心にだけ鈍感である





侯爵家の改革は、予想以上に忙しかった。


無駄な支出を切る。


使われていない土地を貸し出す。


鉱山の採掘権を見直す。


商人たちと契約を結び直す。


そして。


アルフレッドの浪費を止める。


これが一番面倒だった。


「エレオノーラ様! 大変です!」


ある日、執事が駆け込んできた。


「アルフレッド様が、また馬車を購入なさいました!」


「ほう! いくらだ!」


「金貨三千枚です!」


「はっはっは!」


私は笑った。


笑って、書類を一枚取り出した。


「よし、売れ!」


「えっ」


「購入契約はまだ成立していないだろう? 手付金を違約金に充当し、残額は払わん!」


「ですが、アルフレッド様が……」


「文句があるなら本人に払わせろ!」


執事は感動したように頭を下げた。


「かしこまりました!」


数時間後。


「エレオノーラァァァ!!」


アルフレッドが怒鳴り込んできた。


「俺の馬車をどうした!」


「売った!」


「なぜだ!」


「金がないからだ!」


「俺は次期侯爵だぞ!」


「違う!」


「…………」


「私は次期侯爵だ!」


アルフレッドの顔が歪んだ。


最近、この顔を見る機会が増えた。


少々、気の毒ではある。


だが同情はしない。


彼はまだ、働いている者に一度も謝っていないのだから。


「お前、俺を破滅させる気か……!」


「いいや」


私は笑った。


「お前はすでに破滅へ向かって走っている。私はその馬車から降りただけだ」


「……覚えていろ!」


「おう! 忘れんぞ!」


彼は扉を叩きつけて出ていった。


私はため息をついた。


「やれやれ」


「お疲れ様です」


カイルが紅茶を差し出した。


「ありがとう」


「本日は少し、お休みになられてはいかがですか」


「仕事が山積みだぞ」


「存じております」


「ならば休めん」


「……では」


カイルは少し考えた。


「私と、お出かけしませんか」


「ほう?」


「街の視察という名目で」


「視察か!」


「はい」


「よし! 行こう!」


即決した。


ところが。


なぜかカイルは、耳まで赤くなった。


王都の大通りは、昼下がりの陽光で輝いていた。


露店から焼き菓子の甘い香りが漂い、花売りの少女が元気に声を張り上げている。


「エレオノーラ様、こちらを」


カイルが差し出したのは、小さな紙袋だった。


中には焼きたての砂糖菓子。


「おお! 美味そうだ!」


「以前、お好きだとおっしゃっていたので」


「よく覚えていたな!」


「あなたのお言葉は、ほとんど覚えております」


「……ほとんど?」


「はい」


「私が三年前、酒場で酔って歌った歌もか?」


「全四番まで」


「忘れろ!!」


カイルが笑った。


くそ。


なんて綺麗に笑う男だ。


私は菓子を一つ口に放り込んだ。


甘い。


美味い。


もう一つ食べようとしたところで、口元に粉砂糖がついていることに気づいた。


「む?」


「動かないでください」


カイルがそっと手を伸ばした。


親指で私の唇の端を拭う。


その仕草が、妙に優しかった。


「……取れました」


「お、おう」


私は珍しく声が裏返った。


カイルが首を傾げる。


「いかがなさいました?」


「いや、なんでもない!」


変だ。


私は商談で国王と向かい合っても動じない女だ。


なのに。


たかが男の指一本で、胸が妙に騒がしい。


……もしや。


砂糖菓子に変なものでも入っていたか?


夕暮れ。


私たちは川沿いの遊歩道を歩いていた。


商人たちの船が行き交い、橋の上には恋人たちが並んでいる。


「……なあ、カイル」


「はい」


「お前、恋人はおらんのか?」


彼がぴたりと止まった。


「……おりません」


「ほう! 意外だな!」


「そうでしょうか」


「その顔で、その性格だ。引く手あまただろう!」


「……一人だけ」


「ん?」


「ずっと、お慕いしている方がいます」


私は思わず足を止めた。


ほう。


ほほう!


これは面白い!


「誰だ!」


「……申し上げられません」


「なぜだ!」


「その方には、まだお伝えしておりませんので」


「なるほど! 片思いか!」


私は腕を組んだ。


「よし! 私が相談に乗ろう!」


「……相談、ですか」


「相手はどんな女だ?」


「……強い方です」


「ほう」


「誰よりも堂々としていて、誰よりも優しい」


「よい女だな!」


「はい。私には、もったいないほど」


「馬鹿を言うな! お前ほどいい男はそうそうおらん!」


すると。


カイルが、ひどく切なそうに笑った。


「……ありがとうございます」


なぜだろう。


その笑顔を見た途端、胸がきゅっと痛くなった。


嫌な感じだ。


私の知らない女を、カイルがそんな顔で想っている。


それが。


面白くない。


……いや、待て。


何を考えている、私は。


カイルは私の大切な部下だ。


彼が幸せになるなら、喜ぶべきではないか。


「……エレオノーラ様?」


「おう!」


「どうかなさいましたか?」


「なんでもない!」


私は笑った。


「その女、必ず落とせ!」


カイルが目を瞬かせた。


「……よろしいのですか?」


「当たり前だ!」


「本当に?」


「私が嘘を言うか!」


彼は少しだけ目を伏せた。


そして。


「……では、頑張ります」


嬉しそうに微笑んだ。


私は胸の奥がちくりとした。


なんだ。


なんなのだ、これは。


私は恋愛に関して、どうにも商才がないらしい。








第五章 婚約破棄の舞踏会





グランベルク家の家督継承が正式に発表されるのは、王宮の秋季舞踏会だった。


国王陛下が立ち会い、貴族たちの前で新当主を承認する。


その前に、アルフレッドとの婚約を正式に解消することになっていた。


私は彼に、最後の機会を与えた。


謝罪。


借金の返済計画。


そして、リリアとの関係を清算すること。


そうすれば、貴族として最低限の体面は保てる。


だが。


アルフレッドは、すべてを台無しにした。


「皆様! お聞きください!」


舞踏会の真っ最中。


アルフレッドが、突然壇上に上がったのだ。


隣にはリリア。


彼女は白いドレスを着ていた。


……白いドレス?


私は眉を上げた。


まるで花嫁衣装ではないか。


「私は本日、この場で重大な告発をいたします!」


会場がざわめいた。


アルフレッドは私を指さした。


「エレオノーラ・ヴァレンシュタイン! 貴様の悪事を、ここで暴いてやる!」


ほう。


そう来たか。


私はワインを一口飲んだ。


「続けたまえ!」


「貴様は父上を騙し、侯爵家を乗っ取ろうとしている!」


「ほう!」


「しかも、私との婚約を一方的に破棄し、リリアを虐め抜いた!」


リリアが涙を流す。


「わ、私は……ただ、アルフレッド様を愛しただけなのに……!」


周囲の貴族たちがひそひそ話し始めた。


「ひどいわ……」


「まあ、なんてこと……」


私は静かにグラスを置いた。


カイルが隣で低く囁く。


「エレオノーラ様。よろしいですか」


「うむ」


「私が処理いたしましょうか」


「いや」


私は笑った。


「せっかくの余興だ。最後まで見ようではないか!」


アルフレッドは得意げだった。


「エレオノーラ! 今ここで謝罪しろ! そして父上を騙して手に入れた家督を返せ!」


「誰に?」


「俺に決まっている!」


「なるほど!」


私は壇上へ歩み寄った。


人々が道を開ける。


私は悠然と階段を上がり、アルフレッドの前に立った。


「では、一つ聞く」


「なんだ!」


「侯爵家の現在の借金総額を知っているか?」


「……は?」


「答えろ」


「そ、それは……」


「金貨十四万枚だ」


会場がどよめいた。


「そのうち、お前が作った借金はいくらか知っているか?」


「な、何を……」


「金貨二万三千枚だ!」


私は帳簿を掲げた。


「高級馬車! 宝石! 別荘! 賭博! 愛人への贈答品! いやあ、豪快に使ったな!」


「そ、それは父上が……!」


「父上の金?」


私は笑った。


「違うぞ。侯爵家の金だ。領民が納めた税と、使用人たちが働いて稼いだ金だ!」


「ぐっ……!」


「その金を食いつぶしたお前が、家督を返せと?」


私は胸を張った。


「よかろう!」


会場が静まり返る。


アルフレッドが目を輝かせた。


「ほ、本当か!」


「ただし条件がある!」


「なんだ!」


「借金十四万枚を、今ここで全額返済しろ!」


「…………は?」


「できるだろう? 未来の侯爵様!」


誰かが吹き出した。


アルフレッドの顔が真っ赤になる。


「ふ、ふざけるな!」


「ふざけているのはお前だ!」


私は笑顔を消した。


「家督とは、立派な椅子に座って酒を飲む権利ではない!」


広間に声が響く。


「領民を養い、家臣を守り、借金を返し、未来を築く責任だ!」


私は一歩踏み出した。


「お前に、それができるか?」


アルフレッドは何も言わなかった。


私は続けた。


「私はできる」


懐から一枚の証書を取り出す。


「侯爵家の債務のうち、すでに金貨五万枚を私の商会が買い取った」


さらにもう一枚。


「鉱山の新規契約で、来年度からの収入を三倍にする見込みだ」


もう一枚。


「港湾都市との輸送契約も締結済み!」


私は書類を重ねた。


「三年で財政を立て直す。五年で領民の税を下げる。十年で王国一豊かな領地にする!」


会場が静まった。


やがて。


どこからか拍手が起こる。


一人。


二人。


十人。


そして、広間全体に拍手が広がった。


「お見事だ!」


国王陛下の声が響いた。


全員が振り返る。


玉座から立ち上がった陛下は、満足そうに頷いていた。


「エレオノーラ。そなたの手腕は、すでに王宮財務院が確認している」


「光栄です、陛下!」


「そして、ローデリック侯爵の申し出も正式に認可した」


陛下はアルフレッドを見た。


「アルフレッド。そなたに家督を継ぐ資格はない」


「……っ!」


「本日をもって、グランベルク侯爵家の次期当主はエレオノーラとする」


大広間が歓声に包まれた。


アルフレッドは呆然としていた。


だが。


本当の地獄は、ここからだった。






第六章 愚か者の転落





「そんな馬鹿な……!」


アルフレッドは壇上で震えていた。


「俺が……俺が侯爵になれない……?」


「そうだ!」


私はにっこり笑った。


「おめでとう! 今日から自由だぞ!」


「ふ、ふざけるな!」


「もう父上の仕事を手伝う必要もない! 貴族としての責任もない! 好きな女と好きなだけ遊べる!」


「そんなもの……!」


「ただし、自分の金でな!」


アルフレッドの顔から血の気が引いた。


「……金?」


「当然だろう?」


私は書類を一枚差し出した。


「本日付で、お前への生活費の支給を停止する」


「…………」


「侯爵家名義の馬車も使用禁止」


「…………」


「王都の別邸も明け渡してもらう」


「…………」


「それから、借金の返済開始は来月一日だ!」


アルフレッドの口が、ぱくぱくと動いた。


まるで陸に打ち上げられた魚だ。


「……どこに住めばいい?」


「好きなところに住め!」


「金は……?」


「働け!」


「俺は……貴族だぞ……?」


「そうだな。だから読み書きくらいはできるだろう!」


私は大きく頷いた。


「帳簿係でもどうだ?」


会場のあちこちから笑い声が漏れた。


アルフレッドは唇を震わせた。


「ひどい……」


おや。


初めて聞く言葉だ。


「ひどい……こんなの、あんまりだ……!」


彼はリリアの手を握った。


「リリア……! 君だけは、俺の味方だよな!?」


リリアは青ざめていた。


「え……ええ……もちろんですわ……」


「そうだ! 君さえいれば俺は……!」


「で、ですが……」


彼女は恐る恐る尋ねた。


「アルフレッド様……本当に、侯爵になれないのですか?」


「あ、ああ……」


「お屋敷も……?」


「……なくなる」


「馬車も?」


「……ああ」


「宝石は?」


「……買えない」


リリアの顔がみるみる歪んだ。


「……そんな」


「だが、愛があるだろう!?」


「愛……?」


彼女はアルフレッドの手を見つめた。


そして。


そっと手を引き抜いた。


「……ごめんなさい」


「……え?」


「私、少し考える時間が欲しいです」


「リリア?」


「だって……生活が……」


アルフレッドが目を見開いた。


「君は……俺を愛しているんだろう!?」


「もちろんです! でも……」


リリアの視線が、会場の貴族たちへと泳ぐ。


その先には、独身で裕福な伯爵がいた。


「……愛だけでは、生きていけませんもの」


彼女は小さく頭を下げた。


「失礼いたします」


そして。


逃げた。


見事な逃げ足だった。


アルフレッドはしばらく、その背中を見つめていた。


「……リリア?」


返事はない。


「リリア……!」


追いかけようとして、足がもつれた。


壇上の段差につまずき、派手に転ぶ。


どしゃん!


高価な礼服が床に擦れた。


グラスが倒れ、赤いワインが胸元に広がる。


まるで血を浴びたようだった。


「……う、うう……」


アルフレッドの肩が震えた。


「……なんで……」


彼は床に手をついたまま呟いた。


「なんで、こんなことに……」


私は彼を見下ろした。


「アルフレッド」


「……っ!」


「お前は、私を捨てたつもりだったのだろう?」


彼は顔を上げた。


涙でぐしゃぐしゃだった。


「違う……俺は……!」


「浮気くらいで婚約破棄とは大げさだ、と言ったな」


「……っ」


「だがな」


私は静かに告げた。


「私は浮気だけでお前を見限ったわけではない」


彼の目が揺れた。


「お前は人を見下し、責任から逃げ、他人の金を自分のものだと思い込んでいた」


「……う……」


「そして、最後まで一度も謝らなかった」


私は背を向けた。


「そんな男に、私の人生は預けられん」


「ま、待ってくれ……!」


アルフレッドが叫んだ。


「エレオノーラ……!」


私は振り返らなかった。


「頼む……!」


涙声が響いた。


「俺が悪かった……! だから……!」


私は足を止めた。


そして、一度だけ振り返った。


「謝る相手を間違えているぞ」


「……え?」


「お前がまず謝るべきなのは、父上と、お前が迷惑をかけた人々だ」


私は穏やかに言った。


「私への謝罪は、そのあとだ」


アルフレッドは、何も言えなかった。








第七章 忠犬騎士、とうとう我慢の限界を迎える





舞踏会の翌日。


私は侯爵家の執務室で書類と格闘していた。


「うおおおお!」


「エレオノーラ様」


「なんだ!」


「お茶をどうぞ」


「うむ!」


カイルが紅茶を置く。


私は一口飲み、天井を仰いだ。


「……疲れた!」


「お疲れ様です」


「まったく、侯爵家というのは面倒だな!」


「では、少しお休みください」


「休む暇など……」


「エレオノーラ様」


カイルが私の手からペンを取った。


珍しい。


彼が私の仕事を止めるとは。


「……カイル?」


「今日は、私の言うことを聞いていただけませんか」


「ほう?」


「一日だけで構いません」


青い瞳が真剣だった。


「私に、あなたを甘やかす権利をください」


……なんだ、それは。


心臓が跳ねた。


「……好きにしろ!」


私は勢いよく答えた。


カイルが、嬉しそうに微笑んだ。


連れていかれたのは、王都郊外の小さな湖だった。


周囲には白い花が咲き、木漏れ日が水面を照らしている。


湖畔には、すでに昼食の用意がされていた。


白いテーブルクロス。


焼きたてのパン。


肉料理。


果物。


そして、私の好きな赤ワイン。


「……カイル」


「はい」


「これは何だ?」


「昼食です」


「それは見ればわかる!」


「では……」


彼は少し頬を赤くした。


「デート、でしょうか」


私は固まった。


「…………」


「…………」


「……デート?」


「はい」


「私と?」


「はい」


「お前が?」


「はい」


私はゆっくり椅子に座った。


そして。


「……なぜだ?」


カイルが目を丸くした。


「……なぜ、と申されますと」


「いや、お前には好きな女がいるのだろう?」


「おります」


「ならば、その女とデートすればよいではないか!」


カイルはしばらく黙っていた。


そして、額に手を当てた。


「……エレオノーラ様」


「なんだ」


「私は、あなたのことが好きです」


「…………」


風が吹いた。


湖面がきらきらと輝く。


鳥が鳴いた。


私は瞬きをした。


「…………」


「…………」


「……は?」


なんとも間抜けな声が出た。


カイルは、ゆっくり片膝をついた。


「エレオノーラ・ヴァレンシュタイン様」


「お、おう」


「私は、あなたを心からお慕いしております」


「…………」


「あなたの強さも、優しさも、豪快な笑い声も、すべてが愛おしい」


彼は私の手を取った。


「初めてお会いした日から、ずっと」


私は思わず息を呑んだ。


初めて会った日。


あれは四年前。


私は辺境の市場で、暴漢に絡まれていた青年を助けた。


いや、正確には、暴漢を殴り飛ばしていた青年に興味を持ったのだ。


『お前、いい腕をしているな! 私のところで働かんか!』


そう言った。


彼は驚いた顔をしたあと、笑った。


『……喜んで』


それがカイルだった。


「……あのときから?」


「はい」


「四年間?」


「はい」


「……一度も言わずに?」


「あなたには婚約者がいらっしゃいましたので」


カイルは微笑んだ。


「あなたの幸せを壊したくありませんでした」


……馬鹿だ。


なんて馬鹿な男だ。


こんなに綺麗な顔をして。


こんなに優しくて。


こんなに、私を大切にしてくれて。


それなのに。


「……お前は、本当に馬鹿だな」


「よく言われます」


「誰にだ!」


「主に、あなたに」


「はっはっは!」


私は笑った。


笑って。


なぜか、涙が出た。


「……困った男だ」


「はい」


「私は、可愛げがないぞ」


「存じております」


「口も悪い」


「存じております」


「怒ると怖い」


「世界で一番、よく存じております」


「おい!」


カイルが笑った。


私は彼の頬に手を伸ばした。


「……それでも、いいのか?」


彼は私の手に頬を寄せた。


まるで、飼い主に甘える大型犬のように。


「あなたでなければ、嫌なのです」


……ああ。


駄目だ。


こんなことを言われたら。


私はもう、逃げられない。


「……カイル」


「はい」


「立て」


彼が立ち上がる。


私は、その胸ぐらを掴んだ。


「……目を閉じろ」


「……はい」


素直に目を閉じる。


まったく。


忠犬にもほどがある。


私は背伸びをした。


そして。


彼の唇に、そっと口づけた。


短いキスだった。


ほんの一瞬。


触れて、離れた。


それだけなのに。


私の心臓は、戦場の太鼓のように鳴っていた。


「…………」


「…………」


カイルが固まっている。


「……カイル?」


「…………」


「おい」


「…………」


「生きているか?」


「……死にそうです」


「はっはっは!」


私は笑った。


するとカイルが、突然私を抱きしめた。


「……っ!」


強い腕。


温かい胸。


耳元で聞こえる、少し乱れた呼吸。


「……申し訳ありません」


「な、何がだ?」


「少しだけ……我慢ができません」


私は顔が熱くなった。


なんだ。


なんなんだ、この男は。


普段はあんなに礼儀正しいくせに。


こんなときだけ、ずるい。


「……よい」


私は彼の背中に腕を回した。


「許す」


するとカイルの腕に、さらに力がこもった。


「……エレオノーラ様」


「なんだ」


「もう一度、口づけてもよろしいですか」


私は目を閉じた。


「……聞くな、馬鹿者」


次のキスは。


さっきより、ずっと長かった。







第八章 馬鹿息子、ついに本当の地獄を見る





一方その頃。


アルフレッドは、王都の安宿にいた。


かつての彼なら、足を踏み入れることすらなかった場所だ。


狭い部屋。


薄い寝台。


冷たい水。


食事は固いパンと薄いスープ。


「……こんなもの、食えるか!」


彼は皿を叩きつけた。


だが、誰も新しい食事を持ってこない。


使用人はいない。


料理人もいない。


執事もいない。


怒鳴っても、誰も来ない。


「……くそ……!」


彼は腹を押さえた。


空腹だった。


昨日から何も食べていない。


財布には、金貨が数枚。


それも、宿代を払えばすぐになくなる。


「……リリア……」


彼は愛人の名を呟いた。


舞踏会の翌日、リリアの屋敷を訪ねた。


だが、門前払いされた。


『お嬢様は、お会いになりません』


使用人の冷たい声。


『今後、お越しにならないでください』


それだけだった。


彼は何度も手紙を書いた。


返事は来なかった。


やがて、リリアが別の貴族と婚約したという噂を聞いた。


裕福な伯爵家の次男。


資産家。


王宮に勤める有望株。


……自分より、ずっと条件の良い男。


「……嘘だ……」


アルフレッドは、寝台に倒れ込んだ。


「リリアは……俺を愛していると……」


だが。


その言葉は、狭い部屋の中に虚しく消えた。


さらに一週間後。


彼のもとに、正式な請求書が届いた。


借金総額、金貨二万三千枚。


返済期日。


支払い方法。


そして、支払わなかった場合の法的措置。


「……こんなの、払えるわけがない……!」


彼は震える手で書類を握りしめた。


翌日、父親を訪ねた。


だが。


「……アルフレッド」


ローデリック侯爵は、疲れ切った顔で息子を見た。


「私は、もうお前を助けられん」


「父上……!」


「何度も機会を与えた」


「……っ」


「そのたびに、お前は私の金と信用を使い果たした」


「で、でも……!」


アルフレッドは床に膝をついた。


「俺は、父上の息子でしょう!?」


「……ああ」


「だったら助けてください!」


侯爵は目を閉じた。


「息子だからこそ、もう助けん」


「……そんな……」


「お前が自分で立つまで、私は一切の援助をしない」


アルフレッドの目から涙が溢れた。


「……父上……!」


彼は父親の足にすがった。


「お願いです……! 何でもします……! だから……!」


侯爵は、息子の手をそっと外した。


「ならば、働きなさい」


その言葉は、どんな叱責よりも残酷だった。


アルフレッドは仕事を探した。


最初に訪れたのは、王都の銀行だった。


「俺はグランベルク侯爵家の嫡男だ!」


支店長は冷静に答えた。


「存じております。ですが、経理の経験はございますか?」


「……ない」


「帳簿はつけられますか?」


「……いや」


「では、採用は難しいですね」


次は商会。


「俺は貴族だぞ!」


「荷物の運搬はできますか?」


「……は?」


「重い荷物を運べる方を募集しております」


「俺に荷運びをしろと!?」


「はい」


「馬鹿にするな!」


「では、結構です」


次は役所。


次は店。


次は倉庫。


どこへ行っても、同じだった。


家柄など、何の役にも立たない。


彼には、売れる能力がなかった。


そして。


ついに財布が空になった。


雨の日だった。


アルフレッドは、安宿から追い出された。


「金がないなら出ていってくれ!」


「ま、待ってくれ! 明日には……!」


「昨日もそう言っただろう!」


扉が閉まる。


冷たい雨が、頭から降り注いだ。


彼は立ち尽くした。


かつては絹の衣服に身を包み、宝石を飾り、高級馬車で街を走っていた。


今は。


泥だらけの靴。


ほつれた服。


空腹で震える身体。


誰も彼を見向きもしない。


「……なんで……」


彼は呟いた。


「なんで、俺が……」


通りを、一台の豪華な馬車が走っていく。


グランベルク侯爵家の紋章。


アルフレッドは顔を上げた。


「……エレオノーラ……!」


彼は必死に走った。


「待ってくれ! エレオノーラ!」


馬車が止まる。


扉が開いた。


現れたのは、私だった。


「……アルフレッド?」


私は驚いた。


彼は、ひどい有様だった。


髪は乱れ、顔は痩せ、頬はこけている。


高慢だった目には、怯えしかなかった。


「……エレオノーラ……」


彼は私の前に膝をついた。


「頼む……」


雨に濡れた手が、私のドレスの裾を掴む。


「……助けてくれ……!」


私は黙って見下ろした。


「もう……金がないんだ……!」


彼の声が震えた。


「飯も……食べられない……!」


涙が雨に混じって流れる。


「お願いだ……! 俺が悪かった……!」


彼は額を地面に擦りつけた。


「謝る……! 何度でも謝る……! だから……!」


私はしばらく黙っていた。


そして、静かに尋ねた。


「アルフレッド」


「……っ!」


「お前は、何を反省した?」


「……え?」


「何が悪かった?」


アルフレッドは口を開いた。


だが、言葉が出てこない。


「……それは……」


「金を使いすぎたことか?」


「……あ、ああ……!」


「浮気したことか?」


「そ、それも……!」


「では、使用人に暴言を吐いたことは?」


「……っ」


「父上の名義で借金をしたことは?」


「…………」


「私の金で愛人に贈り物をしたことは?」


「…………」


私はため息をついた。


「お前は、まだ何もわかっていない」


アルフレッドが顔を上げた。


「……そんな……!」


「お前が欲しいのは、許しではない」


私は言った。


「金だ」


「……っ!」


「腹いっぱい食べて、暖かい寝床で眠り、また何もしない生活に戻りたいだけだ」


アルフレッドの顔が歪んだ。


「……違う……!」


「ならば証明しろ」


「……どうやって……?」


私は一枚の紙を差し出した。


「私の商会の倉庫で、人手を募集している」


「……え?」


「朝六時から夕方六時まで。荷運び、清掃、仕分け作業。給金は日払いだ」


彼は震える手で紙を受け取った。


「……俺に……荷運びを……?」


「嫌なら受けなくてよい」


私は馬車に戻ろうとした。


「ま、待ってくれ!」


アルフレッドが叫んだ。


「……やる……!」


私は振り返った。


「……何でも……やる……!」


彼は涙を流しながら頭を下げた。


「だから……仕事を……ください……!」


私は静かに頷いた。


「よし」


そして、告げた。


「明日の朝六時だ。遅刻するな」









第九章 ざまあは終わらない。人生は続く







アルフレッドの仕事は、散々だった。


初日。


荷物を持ち上げられず、腰を痛めた。


二日目。


寝坊して遅刻し、給金を減らされた。


三日目。


掃除の仕方がわからず、年下の少年に教わった。


四日目。


倉庫の監督に怒鳴られ、泣いた。


五日目。


あまりの疲労に、夕食を食べながら眠った。


そして六日目。


彼は仕事を辞めようとした。


「……もう嫌だ……!」


倉庫の隅で、膝を抱えていた。


そこへ、老齢の荷運び人が声をかけた。


「坊ちゃん、どうした?」


「……うるさい……」


「疲れたか?」


「……当たり前だ……!」


老人は笑った。


「そりゃそうだ。働くってのは疲れるもんだ」


「……俺は……こんなことをする人間じゃ……」


「そうかい」


老人は隣に座った。


「じゃあ、どんな人間なんだ?」


「……俺は……貴族で……」


「へえ」


「……侯爵家の……」


「そうかい」


老人はパンを一つ差し出した。


「食うか?」


アルフレッドは、パンを見つめた。


「……いいのか?」


「腹が減ってるんだろ?」


「……ああ……」


彼はパンを受け取った。


固いパンだった。


高級料理店のパンとは比べものにならない。


だが。


ひどく、美味かった。


「……うまい……」


涙が落ちた。


「……なんで……こんなに……」


老人は笑った。


「働いたあとの飯は、うまいだろ?」


アルフレッドは、声を上げて泣いた。


自分がどれほど恵まれていたのか。


どれほど多くの人間に支えられていたのか。


ようやく、ほんの少しだけ。


理解したのだった。


だが、だからといって、借金は消えない。


彼の一日の給金では、利息の一部すら返せない。


かつて金貨を何百枚も使っていた男が、今は銅貨一枚の重みを知る。


それが、彼に与えられた罰だった。


そして。


私は、その様子を一度も見に行かなかった。


カイルが尋ねた。


「……よろしいのですか?」


「何がだ?」


「アルフレッド様のことです」


「よい」


私は書類に署名した。


「私が見に行けば、あいつはまた私に甘える」


「……そうですね」


「だから、見に行かん」


私は顔を上げた。


「人間、立ち上がるときは自分の足で立たねばならん」


カイルは微笑んだ。


「……あなたらしいお考えです」


「そうか?」


「はい」


彼は私の手を取った。


「そして、私はそんなあなたが大好きです」


「…………」


私は固まった。


「……おい、カイル」


「はい」


「仕事中だぞ」


「存じております」


「今、告白したな?」


「はい」


「……まったく!」


私は顔を赤くして笑った。


「この忠犬め!」









第十章 侯爵夫人ではなく、侯爵になった女の結婚


半年後。


グランベルク侯爵家の財政は、目に見えて改善していた。


鉱山の収益は増え、商業都市との交易も順調。


領民の税負担は軽くなり、使用人たちの給金も上がった。


そして。


私は、正式にグランベルク侯爵となった。


王国初の女性侯爵。


世間は大騒ぎだった。


新聞には、連日私の名前が載った。


『鉄血の女侯爵、領地改革に成功!』


『王国一恐ろしい女、財政再建!』


『婚約者を捨て、侯爵家を手に入れた女!』


「はっはっは!」


私は新聞を読んで笑った。


「王国一恐ろしいとは失礼だな!」


「事実では?」


カイルがさらりと言った。


「おい!」


「ですが、私にとっては世界一愛らしい方です」


「……っ!」


私は新聞を顔に押しつけた。


「……お前、最近遠慮がなくなったな!」


「はい」


「なぜだ!」


「婚約者になりましたので」


「…………」


そう。


私はカイルと婚約した。


あの湖畔でのキスから、一ヶ月後のことである。


彼は正式に、私の前に跪いた。


美しい指輪を差し出し。


『エレオノーラ様。私を、あなたの生涯の伴侶にしてください』


そう言った。


私は笑った。


『はっはっは! 喜んで!』


そして、彼を抱きしめた。


彼は泣いた。


……本当に泣いた。


『……夢のようです……』


『馬鹿者! 夢なら覚めるぞ!』


『では、現実でよかった』


そう言って微笑んだ顔が、あまりに幸せそうで。


私は、胸がいっぱいになった。


結婚式は、春に決まった。


私は豪華な式など興味がなかった。


だが。


カイルが珍しく譲らなかった。


「一生に一度ですから」


「いや、別に簡素でも……」


「駄目です」


「……カイル?」


「あなたには、世界で一番美しい花嫁になっていただきたいのです」


私は目を瞬かせた。


「……お前、そんなに私の花嫁姿が見たいのか?」


「はい」


「……なぜだ」


「あなたが私の妻になる日を、四年間夢見ておりましたので」


「…………」


私は机に突っ伏した。


「……カイル」


「はい」


「お前、私を殺す気か?」


「いいえ。百歳までお守りするつもりです」


「……ならば、心臓に悪いことを言うな」


カイルは嬉しそうに笑った。


「努力いたします」


絶対に努力する気はない顔だった。


結婚式当日。


王都の大聖堂には、たくさんの人々が集まっていた。


貴族。


商人。


領民。


使用人。


そして、私の家族。


私は純白のドレスに身を包んだ。


鏡の前で、少しだけ緊張する。


「……似合うか?」


侍女たちは一斉に頷いた。


「もちろんです!」


「世界一お美しいです!」


「カイル様が倒れてしまうかもしれません!」


「はっはっは!」


私は笑った。


だが。


少しだけ、胸が震えていた。


私は、強い女だ。


商談でも、戦場でも、修羅場でも、堂々としてきた。


だが。


今日だけは。


少し、怖い。


幸せになることが。


怖かった。


もし、失ったら。


もし、裏切られたら。


また、あのときのように笑っていられるだろうか。


そんなことを考えていると。


扉が開いた。


「エレオノーラ様」


カイルだった。


白い礼服。


銀の髪。


青い瞳。


息を呑むほど、美しい。


「……カイル」


彼は私を見た。


そして。


その場に固まった。


「…………」


「…………」


「……おい」


「…………」


「カイル?」


彼の目から、ぽろりと涙が落ちた。


「……綺麗です」


私は笑った。


「はっはっは! 泣くな、馬鹿者!」


「……申し訳ありません」


「式はこれからだぞ!」


「……はい」


彼は涙を拭った。


そして、私の前に跪いた。


「エレオノーラ様」


「……なんだ」


「私は、あなたを幸せにします」


青い瞳が、まっすぐ私を見つめる。


「何があっても、あなたの味方です」


「……うむ」


「あなたが笑う日も、泣く日も」


彼は私の手を取った。


「私は、ずっと隣におります」


私はゆっくり息を吐いた。


……ああ。


そうか。


私は、もう。


一人で戦わなくていいのだ。


「……カイル」


「はい」


「私も、お前を幸せにする」


私は彼の手を握り返した。


「何があっても、お前を守る」


彼が微笑んだ。


「……頼もしい妻です」


「当然だ!」


私は胸を張った。


「私はグランベルク侯爵だぞ!」


そして。


彼の額に、そっとキスをした。


「……さあ、行こう」


「はい」


私たちは、手をつないで歩き出した。






終章 幸せな女は、今日も豪快に笑う






それから、三年。


グランベルク侯爵領は、王国でも指折りの豊かな土地となった。


商業は栄え、領民は笑い、街には新しい店が並んだ。


私は忙しかった。


実に忙しかった。


だが、幸せだった。


そして。


「エレオノーラ!」


今日も、夫が私を呼んでいる。


「なんだ、カイル!」


「少し、お休みになりませんか」


「仕事がある!」


「存じております」


「ならば……」


カイルが、私を抱き上げた。


「……おい!?」


「本日は、私の言うことを聞いていただきます」


「ま、待て! 降ろせ!」


「嫌です」


「お前、最近ますます強引になったな!」


「あなたの夫ですから」


「理由になっておらん!」


彼は笑った。


そして、私の頬にキスをした。


「愛しております」


「……っ!」


私は顔を赤くして、彼の肩を叩いた。


「……まったく!」


そして、笑った。


「私もだ、この馬鹿者!」


カイルは、世界で一番幸せそうに微笑んだ。


一方。


アルフレッドは、今も倉庫で働いている。


借金は、まだほとんど返せていない。


それでも、最近は少しずつ仕事を覚え、真面目に働くようになったという。


彼は一度だけ、私に手紙を寄越した。


『エレオノーラへ。


今まで、本当にすまなかった。


君がどれほど俺を助けてくれていたのか、今になってわかった。


父上にも、使用人たちにも、謝った。


許してもらえるとは思っていない。


だが、いつか借金を返し終えたら、もう一度、胸を張って君に謝りたい。


それまで、どうか元気で。』


私は、その手紙を読んだ。


そして。


引き出しにしまった。


返事は書かなかった。


それでいい。


彼の人生は、彼のものだ。


私の人生は、私のもの。


私には、もう。


帰る場所がある。


「エレオノーラ」


カイルが私を呼ぶ。


「なんだ?」


「今日も、お美しいです」


「はっはっは!」


私は笑った。


豪快に。


陽気に。


腹の底から。


「お前も、相変わらずいい男だな!」


彼は嬉しそうに微笑んだ。


私はその首に腕を回し、唇を重ねた。


そして。


「さあ、今日も稼ぐぞ!」


「……はい。ですが、その前に」


「ん?」


「もう一度、口づけを」


「はっはっは!」


私は笑って、夫を抱きしめた。


「欲張りな男だ!」


「あなたにだけです」


「よし! 許す!」


彼の唇が、優しく重なる。


窓の外には、明るい陽光。


庭には、満開の花。


そして。


私の隣には、世界一忠実で、世界一愛しい夫がいる。


……ああ。


人生というのは、本当に面白い。


浮気男を捨てたら、侯爵家が手に入った。


侯爵家を手に入れたら、最高の夫まで手に入った。


まったく。


なんという大儲けだ!


「はっはっは!」


私は今日も、豪快に笑う。


だって、幸せなのだから!


――完――


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― 新着の感想 ―
しかも浮気相手は私が贈ったドレスを着ていた、を三度見しました。婚約者(男)にドレスを贈ったのか、婚約者の母や姉妹にドレスを贈ったのか謎は深まるばかりでした。 これも謎でした。 「お前の父上から、たっ…
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