婚約破棄された日のデートが、こんなに楽しくていいのでしょうか
「フェリシア、君との婚約を破棄したい。ほかに愛する女性ができた」
ラウル様がそうおっしゃった時、私は膝の上の鞄を見た。
中には、四つ折りにした遊園地の刷り物が入っている。金色の屋根の下を、色とりどりの木馬が回る絵。王都には三年ぶりに来たそうで、今日が最終日だった。
「では、今日のお出かけも、なくなるのですね」
「そんな話をしているんじゃない」
自分でも、おかしなことを聞いたと思う。
二年間の婚約が、終わる。来春にはこの人と結婚するはずだった。その大きな出来事が、どうしても頭に入ってこなかった。代わりに、昨日磨いてもらった靴や、今朝選んだ歩きやすいドレスばかりが浮かんだ。
「ベルタ嬢といると、心が安らぐんだ。彼女は君と違って、私にあれこれ求めない」
「……私、そんなに、求めていましたか」
「出かける場所だの、手紙の返事だの。君には少し、落ち着きが足りないと思う」
私は口を閉じた。
手紙の返事を催促したのは、一度だけだ。母の誕生日に招いてよいか、返事がないと席を決められなかったから。
お出かけも、いつもはラウル様が行きたいところへ行った。遊園地だけはどうしても見たくて、何週間も前からお願いしていた。好きな人と一緒に、木馬に乗ってみたかった。
「泣かないでくれないか。悪者になったような気分になる」
そう言われて初めて、頬が濡れていることに気づいた。
慌ててハンカチを取り出す。向かいで話を聞いていた伯母のマルタが、カップを音を立てずに置いた。
「ラウル様。今のお言葉は、フェリシアを泣かせた方がおっしゃることではないわね」
「そういうつもりではありません。お互いに合う相手を選んだ方がいいと、分かってもらいたいだけです」
伯母が私の隣へ移ってきた。母の代わりに王都で預かってくれている伯母は、私の背を一度撫で、それから黙って待ってくれた。
私は、濡れたハンカチを握り直した。
「分かりました。婚約破棄は、お受けします」
「そうか。君なら理解してくれると思っていたよ」
「でも、私は今日初めて聞きました。私も望んでいたことには、しないでください」
ラウル様の笑顔が止まった。
いつもなら、その顔を見るだけで言いすぎたと思っていた。けれど今日は、続きを言わなければ、何もかも私のせいになってしまう気がした。
「お父様たちには、ありのままをお伝えします。ベルタ様を好きになったあなたが、婚約破棄を申し出られたと」
「話を大げさにする必要はないだろう」
「私にとっては、大きなことです」
声が震えた。悲しくて、悔しくて、そのくせまだ、この人に嫌われたくないと思っている自分が情けなかった。
伯母が、私の言葉に頷いた。
「両家への連絡はこちらからもいたします。今日はお帰りくださいな」
「フェリシア、もう少し落ち着いたら――」
「今日は、あなたを見ていたくありません」
今度は、最後まで言えた。
ラウル様は立ち上がったが、しばらく手袋をはめられずにいた。私が何か取り繕うのを待っているようだった。私はもう、彼の手元を見なかった。
扉が閉まってから、伯母にしがみついて泣いた。
遊園地へ行きたいと言った時、子供ではないのだからと笑われた。それでも最後には承知してくださったから、私は嬉しかったのだ。今日はきっと、一緒に笑えると思っていた。
そんな小さな楽しみまで失くしてしまったことが、どうにも悲しかった。
* * *
昼食を半分ほどで切り上げ、客間へ戻ったところで、アルディ侯爵が伯母を訪ねていらした。
借りていた本を返すだけだからと玄関で辞去なさろうとしたらしい。伯母が引き留め、客間にいた私に、会いたくなければ部屋へ戻ってよいと言ってくれた。
「大丈夫です。ユーグ様でしたら」
この方とは、伯母の茶会で何度かお会いしていた。
人前で私を褒め立てる方ではないけれど、私の話が途中になった時、後で続きを聞いてくださる。私の知らない話題ばかり続いた席でも、後で声をかけてくださるのが嬉しかった。
客間へ入ってきたユーグ様は、私の赤い目を見ても、ぎょっとした顔をなさらなかった。
伯母が今朝のことを短く伝えると、本を机へ置いて、私から少し離れた椅子に座られた。
「うまい慰めを言えそうになくて、申し訳ない」
「謝らないでください。私も、なんと返したらよいか分かりませんから」
ぎこちなく笑ったら、ユーグ様も少しだけ笑われた。けれど、その目の下に疲れたような影があって、私は首を傾げた。
いつもはもっと、よく眠っている方の顔をしている。
「ユーグ様も、何かありましたか」
伯母が口を開きかけ、ユーグ様が先に頷いた。
「三週間前に、婚約がなくなりました」
「……まあ」
「アニエスに、ほかの人が好きだと言われまして。私もまだ、人に話すのが下手です」
私は伯母を見た。伯母は静かに頷いた。
知っていたら、こんな聞き方はしなかったのに。慌てて謝りかけた私へ、ユーグ様が苦笑を向けられた。
「謝らないでください。どうやら今日は、二人ともそれを言われる日ですね」
少し笑えて、それから泣きたくなった。
立派な侯爵様が、目の前で困った顔をしている。話してよいことを選びかねているその様子が、さっきからの私と同じだった。
「……まだ、その方に会いたいと思われますか」
「思う時もあります。ただ、会ったら何を話したいのか、分からない」
「私もです。嫌なことを言われたのに。帰ってほしいと思ったのに、もう来ないと思うと、悲しいのです」
言ってから、なんて未練がましい話だろうと思った。
でもユーグ様は呆れず、少し考えてからおっしゃった。
「楽しかったことも、ありましたからね」
「はい。あったのです」
それまで嫌いにならなければいけないようで、苦しかった。
初めて贈ってもらった花が嬉しかったことも、二人で見た芝居が面白かったことも、ちゃんとあった。それを知ったまま、あの人とはもう結婚したくないと思ってもいいのかもしれない。
伯母がお茶を淹れてくれる間、私は鞄の留め具を開けた。ハンカチをしまおうとして、遊園地の刷り物に指が触れた。
青い木馬の端が、鞄からのぞいた。
「今日、行かれる予定だったのですか」
「ええ。でも、もう……」
紙を奥へ押し込もうとした手が止まった。
行きたかった。
ラウル様と行きたかったのは本当だけれど、あの青い馬に乗ってみたいと思ったのは、私だ。来年も来るとは限らない。一日中部屋で泣いているうちに、遊園地は王都からいなくなってしまう。
「私、まだ行きたいです」
伯母の方を見て言うと、伯母はすぐに頷いた。
「では、行きましょう。私もちょうど、甘いものを買いに出たかったの」
「よろしいのですか」
「ええ。今から着替えれば、午後はたっぷりあるわ」
嬉しくて返事をしかけたところで、ユーグ様が伯母へ一礼し、立ち上がる支度をなさった。
「それでは、私はこれで。楽しんでいらしてください」
寂しいと思った。
この方も、一人でお屋敷へ帰るのだろうか。楽しかったことを思い出して、会えない人に会いたくなってしまうのだろうか。
私は刷り物を広げ、少ししわになった青い馬を、ユーグ様へ向けた。
「ご予定がなければ、ご一緒しませんか」
「私が?」
「はい。うまい慰めは、なくて大丈夫です。私もできませんけれど……一緒に木馬に乗るくらいなら、できます」
ユーグ様は紙を見て、私を見た。
困らせたかもしれない。そう思った時、彼の口元がゆっくりと緩んだ。
「では、ぜひ。今日はまだ、帰ってしたいことを思いついていないので」
「馬は、お嫌いではありませんか」
「生きている方には乗れます。こちらは初めてですが」
それを聞くと、私まで少し頼もしくなった。
初めてなのは、二人とも同じだった。
* * *
川沿いの広場には、赤と白の縞模様の天幕が並んでいた。
馬車を降りると、焼けた砂糖の匂いと、笛の音がいっぺんに届いた。輪投げの輪が木の杭を外れ、近くで歓声が上がる。子供の手を引く親だけでなく、若い男女や年配のご夫婦も大勢歩いていた。
「あれです!」
入園してすぐ、私は指をさしかけ、慌てて手を下ろした。
金色の屋根の下で、木馬がゆっくり回っていた。白、栗色、それに刷り物より鮮やかな青。魔石の光が台の下を巡るたび、馬の背が滑らかに上下する。
「どうして手を下ろすのですか」
「はしゃぎすぎかと思って」
「私は教えていただいて助かりました。先ほどまで、あちらの赤い馬かと」
ユーグ様が示したのは、輪投げの景品棚に置かれた、手のひらほどの玩具だった。
あれに二人で乗るところを想像して、思わず笑ってしまった。ユーグ様も、さすがに小さすぎますね、と笑われた。
木馬の前には十人ほどの列ができていた。
伯母と侍女のニナは、近くの腰掛けで待つと言ってくれた。私たちが最後尾に並ぶと、伯母は扇を振って見送った。
「青い馬が空いているとよいですね」
「ユーグ様は、どの馬になさいますか」
「隣の栗色でしょうか。どうも、他人とは思えなくて」
青い馬の後ろから、栗色の馬が現れた。
見事なたてがみを持っているのに、眉だけがひどく下がっている。乗せている少年は楽しそうなのに、馬の方は何かを心配しているように見えた。
「似ていませんよ」
「今の私には、あれくらいがちょうどよさそうです」
冗談めかした声だった。でも私は、昨年の茶会で、ユーグ様が泥だらけの犬を抱いて笑っていた顔を思い出していた。
あんなふうに、もう一度笑ってくださったら嬉しい。
その時、額に冷たいものが当たった。
見上げた空には、いつの間にか濃い灰色の雲が寄っていた。続けて落ちた雨粒が、土の上へ黒い点を増やしていく。
係の人が鐘を鳴らした。
「次の運転は、しばらくお待ちください! 雨が上がって、床の安全を確かめてから再開いたします」
目の前で回っていた木馬が、ゆっくりと止まる。
屋根はあっても、乗り降りする外側の床には雨が吹き込んでいた。係の人たちが乗客に手を貸し、順番に降ろしている。
列がほどけ、皆が近くの天幕へ急ぎ始めた。
「フェリシア、こっちよ」
伯母の声がした。すぐそばの菓子屋には、雨よけの天幕が張り出している。ユーグ様が私に道を譲り、伯母たちに続いて入ると、ほどなく雨脚が強くなった。
長椅子の空いているところへ四人で腰掛けた。天幕の縁から、太い雨水が流れ落ちている。
「間に合ってよかったわね。ニナ、あなたも袖が濡れているわ」
「これくらい平気でございます。それより、向こうで温かい飲み物を売っていますよ」
伯母たちが店先へ目を向ける中、私は止まった木馬を見ていた。
青い馬の上には、もう誰もいない。風に吹かれた雨が、台の端を濡らしていた。
「……残念ですけれど、お茶を飲んだら帰りましょうか」
そう言うと、ユーグ様が私を見た。
「もう、乗りたくなくなりました?」
「いいえ。でも、いつ止むか分かりませんし。お付き合いいただいたのに、こんなことになって」
「雨の責任まで、引き受けなくてよいと思います」
私は返す言葉に詰まった。
ユーグ様は、急かさずに待ってくださった。どちらでもよいという顔ではなく、私の返事を聞こうとする顔だった。
「……待ってみたいです」
「では、待ちましょう。お腹が空きましたし、ちょうどよいです」
「でも、ユーグ様は」
「私も、あの馬に乗ってみたくなりました。眉のことを言った手前、置いて帰るのも気の毒です」
吹き出したら、ユーグ様がほっとしたように笑われた。
私は鞄を膝に置いた。帰るために立ち上がる代わりに、濡れなかった刷り物を取り出し、隣の方と眺めた。しばらくして注文を聞きに来てもらえたので、紙を畳んで鞄へ戻した。
店では、揚げた輪形の菓子を売っていた。砂糖をまぶしたものと、砂糖に肉桂を混ぜたものがある。
私が肉桂の方を選ぶと、ユーグ様も同じものを頼みかけて、途中で口を閉じられた。
「……いや、私は砂糖だけの方で」
「肉桂は、お苦手ですか」
「少し。ただ、同じものの方が話が合うかと思って」
「違うものを食べても、話せますよ」
自分で言ってから、私は笑った。
さっきまで、木馬を待ちたいとすら言えなかったのに。この方の遠慮なら、どうしてこんなにはっきり見えるのだろう。
「そうですね。失礼しました」
ユーグ様は今度こそ、砂糖だけの菓子を選ばれた。
温かい茶と一緒に運ばれてきた菓子は、紙を敷いた小さな皿に載っていた。私は手袋を外して鞄へしまい、まだ熱い端を指でつまんだ。
かじると薄い表面が崩れ、柔らかい中身から湯気が上がる。肉桂の甘い匂いがして、思わず目を閉じた。
「おいしい……」
「そんな顔をされると、そちらも頼みたくなります」
「お嫌いなものまで、おいしくはできません」
「ええ。でも、見ているのは楽しいです」
目を開けると、ユーグ様が私を見ていた。
食べ方がおかしかったのかと唇に指を当てたら、彼は首を振った。
「去年、マルタ夫人の犬を追った時のことを思い出しました」
「ああ、ポルカを。あの子、泥の上へ一直線に走っていきましたね」
「助けに入った私より、あなたの方が足が速かった」
正確には、庭師が植木鉢を並べている間を、私だけが横向きに抜けられたのだった。
捕まえたポルカは私の腕から飛び出し、追いついたユーグ様の胸へ突っ込んだ。二人とも、せっかくの晴れ着が泥だらけになった。
「ユーグ様が、笑ってくださったので助かりました。あんなに汚してしまって、怒られると思ったのです」
「あなたは私の上着を見て真っ青になったのに、ポルカがくしゃみをしたら、そちらの心配を始めたでしょう」
「鼻に泥が入ったのかと」
「ええ。その顔がおかしくて。あなたが裾のことより犬のことを気にしていたので、私も安心して笑えました」
そんなところを覚えていてくださったのか。
私は肉桂のついた指を紙で拭きながら、あの日の自分を思い出した。伯母が着替えを用意してくれるまで、ユーグ様と二人で、抱いている犬の鼻を調べた。確かに、ひどく楽しかった。
「あの時の上着は、どうなりましたか」
「染みは落ちました。今日は着てこなかったのですが」
「今日はポルカもお留守番ですから、大丈夫です」
「分かりません。王都の反対側からでも、あなたがいると聞けば来そうです」
我慢できずに笑うと、茶を飲んでいた伯母まで肩を揺らした。
「私も呼んでちょうだい。あの子が回転木馬に乗るところは見たいわ」
ニナが、それは係の方に止められます、と真面目な顔で言うので、私たちは余計に笑った。
笑い終えてから、ユーグ様が残っていた菓子を見つめた。
急に静かになった横顔に、私は声をかけずにいた。少しして、彼の方から話された。
「……こういう時に、まだ思い出しますね。帰ったら、今日の話をしようと」
「アニエス様に?」
「ええ。つまらない話をして笑わせるのが、好きだったんです。最後の頃は、返事が遅くなっていたのに」
さっき笑ってくださったことが、嬉しかった。
それでも、その笑顔の先に思い浮かぶのは、私ではないのだと分かると、胸が少し痛んだ。今朝までラウル様と出かけたかった私が、こんなことを思うのは勝手だ。
「今日は、おうちへ帰る前に、話してしまってはどうでしょう」
「今、ですか」
「はい。少なくとも私と伯母様には、届きます」
ユーグ様が、皿から顔を上げた。
私は指を拭いた紙を、空いた皿の端へ寄せた。元の恋人の代わりができるとは思わない。でも、この方に、誰も聞かない話を抱えて帰ってほしくなかった。
「たとえば、侯爵ともあろう者が、木馬の眉を気にしていたという話を?」
「その方は、まだご自分では乗っていませんから。乗ってからのご感想も伺いたいです」
「手厳しい」
「楽しみにしているのです」
ユーグ様は、照れたように私から目を外し、それから伯母にも笑顔を向けられた。
「では、ぜひ聞いてください。今日、私は初めて木馬に乗ります」
伯母がカップを掲げ、ニナが小さく拍手をした。
私も笑って拍手をすると、彼はもう一度、はっきりと私を見た。
その時には、さっきの寂しそうな顔ではなかった。
雨は、一時間ほどで上がった。
係の人たちが床を拭き、誰も乗せずに木馬を回して確かめている。私は皿を片づけに来た店の人へお礼を言い、手袋をはめ直した。
「そろそろでしょうか」
「行ってみましょう。今度こそ、青い馬を」
伯母たちは菓子屋の席から見ていると言ってくれた。
ユーグ様が売り場で二人分の切符を買ってくださり、再び列へ並んだ。濡れた広場が夕方の光を照り返し、止んだばかりなのに、あちこちから子供の声が戻ってきた。
私たちの番になると、青い馬と隣の栗色の馬は、どちらも空いていた。
係の女性が踏み台を置いてくれた。私は両手で支柱を握って馬の背に座り、裾を整えた。横を向くと、ユーグ様はもう栗色の馬に乗っていた。
生きた馬ならさぞ堂々と乗りこなされるのだろう。けれど今は、足元を確かめたり、支柱を握る位置を変えたりと、妙に落ち着かない。
「大丈夫ですか」
「手綱がないのに、つい探してしまいます」
「落ちないように、ちゃんとつかまってくださいね」
自分も初めて乗るくせに世話を焼くと、ユーグ様が素直に両手を添えられた。
鐘が鳴り、軽やかな音楽が始まった。青い馬がゆっくりと前へ進み、それからふわりと持ち上がった。
「わあ……!」
広場が動き、赤い天幕が後ろへ流れていく。低くなったと思うと、また少し高くなる。風が帽子のリボンを揺らした。
楽しい。思っていたより、ずっと楽しい。
横を見たら、ユーグ様が真剣な顔で、栗色の馬と一緒に上下していた。
「ユーグ様、そんなに難しいお顔をなさらなくても」
「想像していたより、浮くのですね、これ」
声まで真面目なので、私はとうとう笑ってしまった。
笑ってはいけなかったかしら、と一瞬思った。でもユーグ様は私を見て、ご自分でもおかしくなったように笑い出された。
「そんなに笑うなら、感想はあなたに任せます」
「とてもお似合いだと、伯母様にお伝えします」
ちょうど菓子屋の前へ回ってきて、伯母が手を振った。
私が片手を上げると、ユーグ様も、今度は支柱から片手を離し、手を振って応じられた。ニナが両手を口の横へ添えて、何かを言っている。音楽に紛れて聞こえなくても、笑っていることは分かった。
一周して戻ってくる間に、私はもっと笑いたくなった。
今日、婚約破棄された。朝は伯母の胸で泣いていた。それなのに、風の中で隣の方と顔を見合わせるのが、こんなに嬉しい。
ラウル様にもこの姿を見せたい、とは思わなかった。ユーグ様がもう一度笑ってくださるなら、それを見たいと思った。
木馬が止まり、踏み台を使って降りる頃には、ユーグ様の髪が少し乱れていた。
本人は気づかず、乗っていた栗色の馬を振り返っている。
「いかがでしたか、初めての木馬は」
「思ったより短かったです。もう終わりかと」
私も同じことを思っていた。
嬉しくて、今度はためらわずに言えた。
「もう一度、並びませんか」
「ええ。今度は、私からお願いしようとしていました」
私たちは伯母の席まで戻り、もう一度乗りたいと伝えた。
伯母は、どうぞごゆっくり、と笑ってくれた。帰りに持っていくお菓子を、ニナと選んでいるところだという。
今度の切符は私に買わせていただいた。ユーグ様は一度私の顔を見て、それから嬉しそうに礼を言われた。
二度目の木馬から降りると、空は薄い橙色になっていた。
出口へ歩く途中、私は伯母とニナの少し後ろで、ユーグ様へ声をかけた。
「今日、こんなに楽しくてよいのでしょうか」
彼はすぐに、よいとも悪いともおっしゃらなかった。
代わりに、少し歩調を緩めて尋ねられた。
「朝のことが、気になりますか」
「はい。あんなに泣いたのに、薄情みたいで。でも、今は本当に楽しいのです」
言葉にすると、よく分かった。
ラウル様のことを思い出せば、まだ悲しい。明日の朝にも泣くかもしれない。でも、今日木馬に乗ったことや、ユーグ様と菓子を食べたことまで、悲しくする必要はない。
「楽しかったですね」
ユーグ様がおっしゃった。
同じ一日を過ごした方のその言葉が、嬉しかった。
「はい。また、行きたいくらいです」
「明日には、片づけ始めてしまうのが残念です」
「ええ……」
それきりにしたくなくて、私は鞄の持ち手を握った。
遊園地はなくなっても、ユーグ様は王都にいらっしゃる。いつか茶会で会えるまで、待っていなければならないわけではない。
帰りの馬車では、伯母が買った菓子の話をしてくれた。
明日のお茶に出す分と、領地の母へ送る日持ちのする分。母から返事が届く頃には、婚約破棄の知らせも伝わっている。心配をかけると思うと、また申し訳なさが込み上げた。
でも、今日のことも書こうと思った。悲しかったことだけでなく、木馬に二度も乗ったことも。
伯母の屋敷に着き、ユーグ様が帰りの挨拶をなさった。
伯母が玄関の中でニナに荷物を渡している間、私は石段の下に立つ彼を呼び止めた。
「来週の日曜日も、お会いできませんか」
「もちろん。何か、困ったことが?」
「いいえ。困っていなくても、お会いしたいです」
顔が熱くなった。
さっきまであんなにたくさん話せていたのに、急に次の言葉が難しくなった。それでも、これは伝えたいと思った。
「植物園の温室なら、雨でも入れます。大きな睡蓮が咲いているそうですから……一緒に見ませんか」
ユーグ様が、一段だけ石段を上がってこられた。
私を見つめる目が、菓子屋で話していた時よりずっと明るかった。
「ぜひ。私の方からお誘いするつもりでした」
「本当に?」
「ただ、今日のうちでは早すぎるかと、迷っていました」
私は首を振った。
早すぎるどころか、今ここで約束できるのが嬉しい。何も決めずに帰ってしまわれたら、きっと部屋で後悔する。
「では、日曜日に。お迎えに来てくださいますか」
「喜んで」
ユーグ様は笑って、私の手を取られた。
木馬に乗るのを助けるためでも、馬車から降ろすためでもない。その短い握手が、今日いちばん恥ずかしくて、いちばん名残惜しかった。
* * *
翌朝、ラウル様から手紙が届いた。
しばらく距離を置こうという意味だった、落ち着いたら話し合おう、と書かれていた。私は読み終えてから、伯母に見せた。
「お返事は、私から書いてもよろしいですか」
伯母が頷いてくれたので、私は机に向かった。
婚約破棄はお受けしたこと。やり直すつもりはないこと。今後の話は両家を通していただきたいこと。
書き終えて封をした時、少し泣いた。二年間好きだった人に、自分から終わりを告げたのだと思った。
けれどその日の午後、母に宛てて木馬の話を書いているうちに、私は笑っていた。
日曜日に何を着ていこうか、ニナに相談もした。
ユーグ様との植物園は、楽しかった。
大きな睡蓮の葉を前に、ポルカなら乗れるだろうか、と二人で考えた。もちろん係の方に試させていただくようなことはしなかった。伯母から、もう少し花も見なさい、と呆れられた。
その次は、ユーグ様の好きな風景画を見に行った。
一枚の前で長く立っていらしたので、私は隣の絵もゆっくり見た。後で、退屈だったのではと心配されたけれど、私は本当に、絵の中の赤い屋根を数えていたのだ。
そう伝えると、ユーグ様は私を連れてその絵へ戻った。二人で数えても数が合わず、最後には伯母まで巻き込んだ。
遊園地へ行った日から三週間後、伯母の庭でお茶を飲んだ帰りに、ユーグ様が私へ気持ちを伝えてくださった。
その日はどこへも出かけていない。ポルカは足元で寝ていて、伯母は少し離れた花壇で庭師と話していた。
「フェリシア。あなたが好きです。正式に、お付き合いを願えませんか」
嬉しかった。
胸が苦しくなるほど嬉しくて、すぐに返事をしたつもりなのに、声が出ていなかった。ユーグ様の眉が、あの木馬のように下がりかけたので、私は慌てて頷いた。
「私も、ユーグ様が好きです。……もう、お伝えしているつもりでした」
「私と同じくらい、木馬や睡蓮がお好きなのかもしれないと思って」
「同じではありません!」
少し大きな声が出て、眠っていたポルカが頭を上げた。
私たちは揃って犬を見た。ポルカは一度鼻を鳴らすと、また眠ってしまった。
私は笑いながら、ユーグ様の手を取った。
今日まで、誘うたびに応じてくださった手だ。あの日、帰りたいのか待ちたいのかを、私に尋ねてくださった方。自分の好きな絵の前で立ち止まり、私の数えた屋根にも付き合ってくださる方。
「あなたといると、楽しいことを見つけるたびに、お顔を見たくなります。一緒に笑ってくださると嬉しくて。お別れした後は、次に会える日まで数えてしまうのです」
ユーグ様が、私の手を両手で包まれた。
「私もです。日曜日が終わると、もう次の日曜日が待ち遠しい」
「では、時々は、平日にもいらしてください」
「ええ。ぜひ、そうさせてください」
彼の笑顔を見ているうちに、涙が落ちた。
ユーグ様は慌てかけたけれど、私が笑っているのを見ると、ほっとして手を握り直してくださった。
伯母に報告しに行くまで、私たちはしばらく、次は何曜日に会えるかを相談した。
冬の初めに、私たちは婚約した。
その頃には、ユーグ様は仕事帰りにも伯母の家へ寄ってくださるようになっていた。長居できない日もある。そんな時は短いお茶の間に、次に行きたいところを相談する。
婚約が決まった晩、私はあの遊園地の刷り物を見せた。
折り目は白くなり、青い馬の鼻先には、少ししわが寄っている。
「次に王都へ来た時も、一緒に乗ってくださいますか」
「もちろん。あの栗色の馬を、取られないようにしなければ」
「並ぶのは、順番ですよ」
分かっています、とユーグ様は笑われた。
それから刷り物をそっと畳み、私へ返してくださった。
「その時は、妻と乗りに来ましたと、係の方に言ってもよいですか」
まだ先の木馬の話をしていたのに、私はすっかり赤くなった。
嬉しくて、二度も頷いてから、やっと返事ができた。
「はい。私も、夫と来たのだと、自慢いたします」
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