表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

助けて、と書いたのは

作者: 遊可くるみ
掲載日:2026/04/28


第一章 差出人は自分



 十一月の午後、インターホンが鳴った。


 宅配便だった。段ボール箱。両手で持てるくらいの大きさ。軽い。伝票を確認して、俺は首を傾げた。


 宛先は俺の名前と住所。それはいい。問題は差出人だ。


 差出人にも、俺の名前と住所が書いてある。


「……は?」


 自分で自分に荷物を送った覚えはない。字は——見覚えがあるような、ないような。伝票のボールペンの字は少し急いで書いたような筆跡で、確信が持てない。


 配達員はもう行ってしまった。段ボール箱を玄関に置いたまま、俺はしばらく立っていた。


 いたずら、だろうか。


 テープを切った。中を開けた。


 布だった。白い布。丁寧に畳まれている。取り出すと、広がった。


 ワンピース。


 女性用の、白いワンピース。シンプルなデザイン。膝下くらいの丈。袖はなくて、肩紐で吊るタイプ。新品ではない。でも汚れてもいない。誰かが着ていた——着ていて、洗って、畳んで、箱に入れた。そういう感じがした。


 箱の底に、もう一つ。小さなカードが入っていた。


 白いメッセージカード。裏に花の模様が印刷されている。表に、手書きの文字が一言。


『助けて』


 三文字。ボールペンの、少し震えた字。


 俺はカードを持ったまま、ワンピースを見下ろした。


 何だこれは。



◇◇◇



 シュウに電話した。


 コール三回で出た。こいつはいつも三回で出る。一回目で取ると必死に見えるから嫌だと言っていた。くだらない美学だ。


「おう」


「今からうち来れる?」


「なに、急に。彼女でもできた?」


「いいから来い」


「へいへい」


 三十分後、シュウが来た。いつものパーカーにジーンズ。コンビニの袋を提げている。


「ほれ、差し入れ。ポテチとコーラ」


「ありがと。——で、ちょっと見てほしいもんがある。ワンピースなんだけど」


「お、新刊出た? 百九巻だろ。俺もまだ買ってねえんだよな」


「いや、そっちじゃなくて——」


「ん?」


「こっちのワンピース」


 玄関の段ボール箱を指した。シュウが覗き込んだ。白いワンピースが入っている。


「……服?」


「服」


「……お前、ついに女装に目覚めたか」


「違う。届いたんだよ。差出人が俺で」


「え? 自分で買ったんじゃなくて?」


「買ってない。覚えがない」


 シュウがワンピースを手に取って、広げて、裏返して。


「ふつうに女物だな。サイズは——Mくらい? お前には小さいだろ」


「着る前提で話すな。いいからこれ見ろ」


 メッセージカードを渡した。シュウが受け取って、読んだ。


 空気が変わった。


「……助けて?」


「そう。これだけ」


 シュウがカードを裏返した。花の模様。それだけ。他に何も書いていない。


「誰が送ったんだ?」


「だから差出人が俺なんだよ。俺の名前で、俺の住所から」


「覚えがないのに?」


「ない」


 シュウがカードをテーブルに置いた。ワンピースを見た。カードを見た。もう一度ワンピースを見た。


「……気持ち悪いな」


「だろ」


「警察に届けたほうがいいんじゃね?」


「ワンピースとカード持って『自分から届きました』って? 頭おかしいやつだと思われるだけだろ」


「まあな」


 シュウは少し考える顔をして、それからいつもの軽い調子に戻った。


「まあ、いたずらだろ。大学の誰かが伝票偽造したとかさ。お前、恨み買ってない?」


「買ってない……と思う」


「じゃあ放っとけよ。ポテチ食おうぜ」


 シュウはソファに座って、ポテチの袋を開けた。コーラのプルタブを引いた。何事もなかったように。


 俺もソファに座った。ポテチを食べた。シュウとくだらない話をした。ゲームの話。バイトの話。就活が終わって暇になった話。


 シュウが帰ったのは夜の九時だった。


「じゃあな。ワンピース、似合うといいなー」


「着ねえよ」


「ウケるw」


 ドアが閉まった。足音が遠ざかっていく。


 一人になった部屋に、ワンピースが残っていた。


 テーブルの上に、白い布。その横に、白いカード。


『助けて』


 誰が書いたのか。なぜ俺に送ったのか。なぜ差出人が俺自身なのか。


 何も分からない。分からないが——気になる。気になって仕方がない。この三文字が、頭の中にこびりついて離れない。


 助けて。


 俺は立ち上がって、ワンピースを手に取った。


 着てみようとは思わなかった。思わなかったはずだ。でも手が動いていた。広げて、頭を通して、肩紐を引っ張って。サイズが合わない。きつい。肩が窮屈で、胸が苦しい。裾は膝の上あたりまでしか届かない。鏡で見たら間抜けだろう。


 でも、着た瞬間——


 視界が、白くなった。


 音が消えた。部屋の輪郭が溶けた。足元の感覚がなくなった。


 落ちている。上に落ちている。いや、横に。方向がわからない。体が引っ張られている。どこかへ。いつかへ。


 白い光の中を、引きずられるように。


 気がつくと、立っていた。


 知らない場所だった。


 夜だった。狭い路地。ネオンの光がビルの壁を染めている。どこかの繁華街の裏通り。足元にフライヤーが散らばっている。拾い上げた。


 地下アイドルのライブ告知。日付が印刷されている。


 ——一年前の日付だった。


 俺は、ワンピースを着た男として、一年前の夜に立っていた。



第二章 彼女の時間



 寒かった。


 十一月の夜だ。——いや、フライヤーの日付が正しければ、去年の十一月。ちょうど一年前。


 俺は路地に立っていた。白いワンピースを着た、身長百七十五センチの男。どこからどう見ても不審者だ。通りがかった女性が足早に離れていくのが見えた。無理もない。


 体を確認した。自分の体だ。自分の手、自分の足、自分の顔。鏡がないから顔は見えないが、触った感じは間違いない。ワンピースの下はTシャツとジーンズ。部屋着のまま飛ばされたらしい。


 スマートフォンを取り出した。電波はある。画面の日付——去年の十一月十五日。時刻は午後八時十二分。


 本当に、一年前にいる。


 フライヤーをもう一度見た。『UNDER STAGE vol.47 出演:セナ / きらり / mochi 地下一階 LIVE BAR ECHO 19:00 OPEN / 19:30 START』


 今夜のライブだ。まだやっている時間。


 路地を出ると、小さな看板があった。矢印が地下を指している。階段を降りた。重い扉を開けた。



◇◇◇



 煙草の匂いと、こもった熱気。


 地下のライブバーは狭かった。キャパシティは五十人くらいだろう。でも客は——数えた。七人。ステージの前に、まばらに立っている。


 ステージには少女が一人立っていた。マイクを握って、歌っている。


 スポットライトが一つだけ当たっている。安いPAから音が出ている。低音が割れている。照明は暗くて、ステージの端は影に沈んでいる。


 でも少女は歌っていた。


 真剣に。全力で。七人の客に向かって。七十人に歌うのと同じ熱量で。


 声は悪くなかった。音程は安定している。でも華がない、と言えばそうだろう。地下アイドルとして売れるかどうかの境界線上に、危うく立っている。そういう歌だった。


 俺はドリンクカウンターの近くに立った。バーテンダーが怪訝な顔をした。——そりゃそうだ。ワンピースを着た男が入ってきたのだから。


「すいません、ドリンク一杯」


「……ソフトドリンクでいいですか」


「はい」


 コーラを受け取って、壁際に移動した。目立たない場所。暗い隅。


 客を見た。七人のうち、五人は女性。アイドルのファン同士らしく、揃いのペンライトを持っている。残り二人が男性。


 一人は——


 心臓が跳ねた。


 シュウだった。


 一年前のシュウ。今と髪型が少し違う。でも間違いない。あのパーカー。あの姿勢。背筋を伸ばして、ステージを食い入るように見ている。


 シュウが、地下アイドルのライブにいる。


 四年間、こいつと一緒にいた。大学一年の春、同じゼミで隣に座ったのが始まりだった。それからほぼ毎日会って、飯を食って、ゲームをして、くだらない話をした。就活のエントリーシートを見せ合ったこともある。


 でもシュウがアイドルのライブに通っていることは、一度も聞いたことがなかった。


 ステージの少女がMCに入った。


「えーっと……今日も来てくれてありがとうございます。セナです。次で最後の曲になります」


 声は小さかった。マイクを通しても、あまり響かない。でも丁寧な声だった。


「最近ちょっと、うーん、色々考えることがあって。でも、来てくれる人がいる限り、歌いたいなって。——最後の曲、聴いてください」


 曲が始まった。バラードだった。彼女の声に合っていた。さっきまでのアップテンポの曲より、ずっと良かった。声が伸びて、天井の低いライブバーの隅々まで届いた。


 シュウが微動だにしなかった。目を閉じて、聴いていた。


 俺は壁に背をつけて、コーラを飲みながら見ていた。シュウと、少女と、七人しかいないライブハウスを。


 知らなかった。こんなシュウを、知らなかった。



◇◇◇



 ライブが終わった。客がまばらに帰っていく。


 シュウはすぐには帰らなかった。物販のテーブルに行った。少女——セナが出てきて、CDとチェキを売っている。シュウが列に並んだ。列というほどの人数はいない。二人だけ。


 シュウの番が来た。


「今日も良かったです」


 シュウの声は、俺が知っているシュウの声と少し違った。いつもの軽口がない。素直な、飾らない声。


「ありがとうございます。いつも来てくれて」


 セナが微笑んだ。疲れている顔だったが、笑顔は温かかった。


「次のライブも来ます」


「嬉しい。——あの、名前、聞いてもいいですか?」


「……シュウ、です」


「シュウさん。覚えます」


 俺は見ていた。二人のやり取りを。壁の影から。


 これが、始まりだったのかもしれない。


 俺は静かにライブバーを出た。路地に戻った。冷たい空気が肌を刺す。ワンピースの薄い布は寒さを防いでくれない。


 ——脱げば、戻れるのだろうか。


 ワンピースの肩紐に手をかけた。頭を抜くように脱いだ。布が体から離れた瞬間——


 また、白い光。


 引っ張られる感覚。方向のない落下。


 気がつくと、自分の部屋だった。


 夜。時計を見た。——出発したときとほぼ同じ時刻。時間は経っていない。


 手にワンピースを握っている。白い布。少し皺になっている。


 俺は床に座り込んだ。


 タイムリープ。本当に。ワンピースを着ると過去に行ける。脱ぐと現在に戻る。


 そして過去のシュウが、地下アイドルのライブに通っていた。一年前から。俺に一言も言わずに。


 なぜ隠していたのか。


 ワンピースを畳んだ。メッセージカードを見た。


『助けて』


 誰を、何から。


 まだ何もわからない。でも一つだけわかったことがある。このワンピースは——シュウに繋がっている。



第三章 知らなかった顔



 翌日から、俺はシュウを観察し始めた。


 いつもの大学。いつもの学食。いつもの席。向かい合って昼飯を食う。シュウはカツカレーを食べている。俺はうどん。


 見た目は何も変わらない。いつものシュウ。よく喋る。よく笑う。人懐っこくて、隣のテーブルの知らないやつにも話しかける。


 でも俺は今、シュウのスマートフォンの画面が気になっていた。


 LINEの通知が光った。シュウがさりげなく伏せた。いつもはそんなことしない。画面を見せながら「こいつマジでウケるんだけど」と言うのがシュウだ。


 俺は何も言わなかった。


「お前最近休日なにしてんの」


 シュウが聞いてきた。世間話の延長だ。


「今色々立て込んでんだけど、暇なときは鑑賞とか」


「お前、干渉するタイプだっけ? てか彼女いねーだろ?」


「彼女いなくてもできるわ!」


「じゃあ誰を干渉してんだよ」


「誰をじゃなくて何をだろ。まあ、ランキングにあがってるやつとか……。お前は?」


 シュウの箸が止まった。一瞬だけ。


「……え、あっ」


「休日何してんだよ」


「俺も、俺もカンショウしてる」


「なんかオススメあるか?」


「……お前には教えない」


 シュウは笑ってカツカレーを掻き込んだ。話を逸らすように、バイト先の店長の愚痴を始めた。


 俺は笑って聞いていた。でも頭の中では、昨日見た光景が再生されていた。暗いライブハウスで、食い入るようにステージを見つめるシュウの横顔。



◇◇◇



 その夜、二回目のリープをした。


 ワンピースを着る。白い光。引っ張られる感覚。


 目を開けると——街中だった。昼間。冬の陽射し。日付を確認する。去年の一月。約十ヶ月前。


 前回より時間が進んでいる。ワンピースが連れていく場所は、こちらで選べないらしい。


 駅前のカフェ。ガラス越しに中が見える。


 シュウがいた。向かいに——女の子。


 セナ。


 あのライブハウスで歌っていた少女。ステージ衣装ではなく、白いニットにジーンズという普段着。髪を下ろしている。化粧も薄い。ステージで見たときより、ずっと幼く見えた。


 二人は笑っている。シュウがメニューを指差して何か言っている。セナが首を振って、別のページを開いている。カフェラテとケーキ。普通のデート。普通のカップルに見える。


 付き合っているのか。


 十ヶ月前の時点で。ということは、ライブに通い始めてから二ヶ月ほどで付き合い始めたことになる。


 シュウは——こいつは、彼女がいたのだ。


 四年間の付き合いで、一度も彼女の存在を口にしなかった。あのシュウ が。何でも話す、何でも見せる、秘密なんかないと言い切るあのシュウが。


 なぜ隠す。


 俺はカフェの向かいのベンチに座って、二人を見ていた。ワンピースを着た男がベンチに座っているのは異様だが、冬のコートを上に羽織れば目立たない。——コートなんか持ってきていないが。寒い。


 三十分ほどして、二人がカフェを出た。


 手を繋いでいる。シュウが何か言って、セナが笑う。幸せそうだ。本当に幸せそうだ。


 俺はシュウの顔を見ていた。大学で見るシュウとは違う顔をしていた。軽口がない。ふざけていない。ただ、穏やかに笑っている。


 ——知らなかったな、こんな顔。


 二人は駅の方向に歩いていった。俺は少し離れてついていった。尾行だ。自分がやっていることの滑稽さは分かっている。ワンピースを着た男が、カップルを尾行している。通報されないのが不思議だ。


 駅の手前で、シュウが立ち止まった。


「じゃあ、ここで。気をつけて帰れよ」


「うん。ありがとう、今日」


 セナが手を振って、改札に向かった。シュウはその背中を見送っている。セナが改札を通って、階段を上って、見えなくなるまで。


 セナが消えた後も、シュウはしばらくそこに立っていた。


 セナは一人で帰っていく。シュウはそれを見送った。普通のことだ。


 でもセナが歩き始めてから、俺は気づいた。


 もう一つの影。


 セナの後ろ、二十メートルほどの距離に、人影がある。フードを被った人間。セナと同じ方向に歩いている。同じ速度で。


 つけている。


 俺の背筋が冷たくなった。ストーカーだ。


 声を出そうとした。でもここは十ヶ月前の世界だ。俺が介入していいのか分からない。


 そのとき、シュウが動いた。


 走った。改札の方向に。駆け足で。人混みを縫って。


 数分後、セナのスマートフォンが鳴ったのだろう。改札の向こうで立ち止まって、耳に当てた。


 そしてシュウが現れた。改札を通って、セナの横に。


「大丈夫!?」


 息を切らしている。心配そうな顔。セナの肩を掴んで。


「え、なに急に——」


「いや、なんか心配になって。送るよ、家まで」


「大丈夫だよ、一人で帰れるって」


「いいから。最近物騒だし」


 セナは少し困った顔をして、でも嬉しそうに笑った。「ありがとう」


 俺は改札の手前から見ていた。


 ——早すぎないか。


 シュウが「心配になって」戻ってきた。それはいい。でもシュウはさっき、セナが見えなくなるまで見送っていた。セナが改札を通ってから走り出すまで、三十秒もなかった。


 フードの人影に気づいたのか? でもシュウの立っていた位置からは、あの角度では見えないはずだ。


 まるで——最初から知っていたかのように。


 違和感。まだ形になっていない。霧のような、掴めない不安。


 ワンピースを脱いだ。現在に戻った。


 部屋のベッドに座って、天井を見ていた。


 シュウには彼女がいる。彼女にはストーカーがいる。シュウはストーカーの存在を知っているようだ。——知っていて、「守る」ために駆けつけた。


 ヒーローじゃないか。


 でも引っかかる。あの早さ。あの自然さ。


 まるで台本があるみたいだった。



第四章 ストーカー



 三回目のリープ。


 ワンピースを着る。もう慣れてきた。白い光。引っ張られる感覚。着地。


 マンションの前だった。古い、五階建ての賃貸マンション。エントランスにオートロックはない。ポストが並んでいる。日付を確認する。去年の三月。約八ヶ月前。


 夜だった。午後九時過ぎ。街灯の下に立って、マンションを見上げた。三階の角部屋に明かりがついている。カーテンが引かれている。


 誰の家かはわからない。でもワンピースがここに連れてきたということは、ここに意味がある。


 ポストを確認した。三階角部屋。名前のプレートは外されている。でも郵便受けに封筒が見えた。宛名——『セナ』。


 彼女の家だ。


 ポストの横に、何かが貼ってあった。小さな紙。メモ用紙のような。マスキングテープで留めてある。


 手書きの文字。


『11/15 ECHO 19:30

12/3 ECHO 19:00

1/8 studio K 20:00

2/14 ECHO 19:30』


 ライブのスケジュールだった。日付、会場、時間。彼女のライブの情報が、彼女の家のポストに貼りつけてある。


 ファンがやったのか? いや、これはストーカーだ。「お前のスケジュールは全部知っている」という脅迫。この情報は公開されているものだが、わざわざ家のポストに貼りに来ている。「お前の家を知っている」というメッセージだ。


 背筋が冷えた。


 紙の下にもう一枚。こちらは手書きではない。プリントアウト。セナのSNSのスクリーンショット。彼女が「今日のごはん」として投稿した写真。その下に、手書きで一行。


『一人で食べてるの? 寂しいね』


 吐き気がした。


 俺はマンションの前の電柱の影に移動した。見られてはまずい。ワンピースの男が女性の家のポストを覗いていたら、俺がストーカーだ。


 携帯を見た。この時代——八ヶ月前の時代で、何かできることがあるか。ない。俺はここでは幽霊のようなものだ。見ることはできるが、変えることはできない。——いや、変えていいのか分からない。


 三十分ほど待った。


 セナが帰ってきた。コンビニの袋を下げている。一人だ。今日はシュウは一緒ではないらしい。


 セナがポストを開けた。封筒を取り出す。そして——紙に気づいた。


 手が止まった。


 スケジュールの紙を見ている。裏返す。もう一枚のプリントアウトを見る。「一人で食べてるの? 寂しいね」。


 セナの顔が強張った。手が震えている。紙を二枚とも剥がして、ポストの蓋を閉めて、走るように階段を上っていった。


 三階の角部屋のドアが閉まる音が聞こえた。鍵が回る音。チェーンをかける音。


 それから——電話している声が微かに聞こえた。窓が少し開いているのだろう。


「——また、あった。ポストに……」


 泣いている。


「怖い。最近ずっと誰かに見られてる気がする」


 相手の声は聞こえない。でも誰に電話しているかは分かった。


 十五分後、シュウが来た。


 走ってきた。息を切らして。マンションの前で立ち止まって、三階を見上げて、階段を駆け上がった。


 ドアをノックする音。「俺だよ、開けて」。鍵が開く音。ドアが閉まる音。


 俺は電柱の影から出た。


 今度も、早い。


 セナが電話してから十五分。シュウの自宅からここまでは電車で三十分かかる。セナが電話した時点で、シュウはすでにこのマンションの近くにいたことになる。


 偶然か。


 偶然が、二回続くか。


 俺はワンピースを脱いだ。



◇◇◇



 現在に戻った。


 夜中の部屋。暗い天井。


 ストーカーの手口を整理した。


 セナのライブスケジュールを把握している。SNSの投稿を監視している。自宅の住所を知っている。ポストに物を入れられる距離にいる。


 これらの情報を持っている人間は限られる。熱心なファン。運営関係者。——そして、彼氏。


 まだ確信はない。


 でも霧は、少しずつ晴れ始めていた。晴れてほしくない方向に。



第五章 共犯者



 四回目のリープ。


 去年の四月。約七ヶ月前。


 深夜だった。午前一時を過ぎている。同じマンション。セナの自宅前。


 俺は今度こそ確かめるつもりだった。ストーカーの正体を。自分の目で見て、確認する。それがシュウであってほしくないと思いながら。


 マンションの向かいにある駐車場のフェンスの影に隠れた。ワンピースの上に自分のパーカーを着ている。二回目のリープで学んだ。上着を着ておけば目立たない。ワンピースの裾が少しはみ出ているが、暗ければ分からない。


 待った。三十分。一時間。


 午前二時を過ぎた頃、人影が現れた。


 マンションの角を曲がって、ゆっくり歩いてくる。フードを被っている。黒いパーカー。黒いジーンズ。手に何か持っている。封筒のようなもの。


 人影がマンションのエントランスに入った。ポストの前で立ち止まった。


 封筒をポストに入れた。セナのポストに。


 それからポケットから紙を取り出した。マスキングテープでポストの脇に貼りつけた。前回と同じやり方。


 人影が振り向いた。


 街灯の光が、フードの下の顔を照らした。


 ——シュウ。


 見間違いではない。あの顔。あの体格。あの歩き方。四年間見てきた親友の顔が、フードの影にあった。


 シュウは周囲を確認した。俺がいる方向も見た。でも暗闘の中のフェンスの影は見えなかったらしい。そのままマンションを離れていった。角を曲がって消えた。


 俺は動けなかった。


 フェンスに背をつけて、座り込んでいた。膝が震えていた。冷たい地面の感触が、これが現実だと告げている。


 全部、シュウだった。


 ストーカーは、シュウだった。


 スケジュールの紙。SNSのスクリーンショット。「一人で食べてるの? 寂しいね」。——あれを書いたのは、シュウだ。


 彼女を脅かして、怖がらせて、電話をかけさせて、駆けつけて——「俺がいるから大丈夫」。


 自作自演。


 全部、自作自演だった。


 ストーカーを演じて、守護者も演じていた。怖がらせる役と、守る役を一人で。


 なぜ。


 ——分かっている。分かりたくないが、分かる。


 必要とされたかったのだ。


 セナに「あなたがいないと怖い」と言わせたかった。「あなたがいてくれないと」と頼らせたかった。シュウがいなければ生きていけないと——思い込ませたかった。


 ワンピースを脱いだ。


 現在に戻った。


 部屋の床に座り込んだまま、動けなかった。


 吐き気がした。実際に洗面所に行って、水を流しながら口を濯いだ。吐きはしなかった。でも胃の底が重かった。


 シュウだ。あのシュウだ。


 学食でカツカレーを食いながら笑ってるシュウ。「ポテチとコーラ、差し入れ」と言って俺の家に来るシュウ。「お前、女装の趣味あったん?」とふざけるシュウ。


 そのシュウが、深夜に彼女の家のポストに脅迫めいたメモを貼りに行っている。


 同じ人間だ。同じ顔で、同じ声で、同じ手で。


 俺は洗面台の鏡を見た。自分の顔が映っている。疲れた顔。目の下が暗い。


 ——お前は、これをどうするんだ。


 鏡の中の自分に聞いた。答えは出なかった。



第六章 必要とされたい



 五回目のリープ。


 二人の出会いの頃まで遡った。去年の十月。約一年前。ライブハウスで初めてセナを見た、あの時期。


 小さなライブハウス。前に来たのと同じ場所。LIVE BAR ECHO。


 でも今回は、ライブの前だった。昼間。開店前のライブバーの前に、セナが一人で立っていた。


 フライヤーを配っている。通行人に声をかけて、チラシを渡そうとしている。


「今夜ライブがあります。よかったら——」


 通行人が素通りする。


「あの、フライヤー——」


 次の人も素通り。


 セナの手にはフライヤーの束が残っている。減っていない。三十分立っているのに、受け取ってくれた人はほんの数人。


 表情が曇っていく。でもやめない。次の人に声をかける。また素通りされる。


 俺は路地の影から見ていた。


 このときのセナは——まだ売れていない。客は数人。SNSのフォロワーも少ない。地下アイドルの中でも底辺に近い。でも歌い続けている。チラシを配り続けている。


 やめたいだろうな、と思った。何度もやめようと思っただろう。でもやめていない。


 一時間後、シュウが来た。


 大学の帰りらしい。リュックを背負っている。セナの前で立ち止まった。


「あの、フライヤー——」


「ください」


 セナが驚いた顔をした。差し出すより先に、シュウが手を伸ばしていた。


「今夜のライブですか?」


「はい。十九時半からで——」


「行きます」


 即答だった。セナが目を丸くしている。シュウは笑った。いつもの、あの人懐っこい笑顔で。


「前から気になってたんです。SNSで見て」


「え、SNS見てくれてるんですか?」


「はい。歌、好きです」


 セナが——笑った。久しぶりに笑った顔に見えた。緊張が解けて、ほっとしたような笑顔。


「ありがとうございます。——嬉しい」


 これが、二人の始まりだった。



◇◇◇



 その夜のライブを、俺も見た。


 客は六人。シュウは最前列にいた。セナが歌っている。前に見たときと同じだ。華があるかと言われれば微妙。でも真剣で、全力で、目をそらせない何かがあった。


 シュウが食い入るように見ていた。


 ライブが終わって、物販。シュウが並んだ。チェキを撮った。


「また来ます」


「ほんとですか?」


「来ます。毎回」


「毎回!?」


 セナが笑った。嬉しそうに。本当に嬉しそうに。


 俺は——これを見て、胸が痛かった。シュウの気持ちがわかるからだ。この子の笑顔のためなら何でもする、とシュウは思っただろう。実際にシュウは毎回来た。約束を守った。


 ここまでは、ただの美しい話だ。


 問題は、ここからだった。



◇◇◇



 リープを続けた。時間を少しずつ進めて、二人の関係を追った。


 十一月。シュウが物販で毎回話しかけるようになる。セナも打ち解けていく。


 十二月。二人で食事に行くようになる。シュウは「客」から「友人」に、そして「恋人」になっていく。セナにとって、シュウは最初のファンだった。一番苦しいときに来てくれた人。


 付き合い始めたのは一月。セナのほうから告白したらしい。「一番辛いとき、来てくれたのはシュウさんだけだった。ずっと一緒にいてほしい」


 シュウは泣いたそうだ。——後日セナが友人に話しているのを、俺は偶然聞いた。「彼、泣いたんだよ。嬉しいって」


 必要とされた。


 シュウにとって、それはどれほどの意味だったか。


 俺はシュウを四年間見てきた。明るくて、軽くて、誰とでも仲良くなれるやつ。でもその裏に——「自分は本当に必要とされているのか」という不安が、常にあった気がする。今にして思えば。


 友人は多い。でも「いなくても困らない」友人だ。俺だって、シュウがいなくなっても生活は回る。悲しいが、回る。シュウもそれを知っていただろう。


 セナは違った。セナにとって、シュウは「いないと困る」存在だった。唯一のファン。心の支え。「あなたがいなかったらやめていた」——その言葉が、シュウの全てを満たした。


 だからシュウは、それを手放せなくなった。



◇◇◇



 リープ中に、俺はシュウの部屋に忍び込んだ。


 シュウが大学に行っている昼間。合鍵は——ない。でもシュウの部屋の窓が甘いことを俺は知っている。一階だから、外から開けられる。四年間の付き合いで覚えた、くだらない知識が役に立った。


 シュウの部屋は相変わらず散らかっていた。漫画が積み重なり、ゲームのコントローラーが床に転がっている。


 机の引き出し。奥に、ノートがあった。


 黒い表紙のノート。開いた。


 最初のページ。日記のようなものだった。日付は去年の二月。付き合い始めて一ヶ月後。


『セナが俺を必要としてくれている。これが幸せなんだと思う』


 次のページ。


『でも不安がある。俺がいなくてもセナは歌える。俺じゃなくても、別の誰かがファンになれば、セナは続けられる。俺じゃなきゃいけない理由がない』


 さらに先のページ。


『俺じゃなきゃいけない理由を作ればいい』


 そこから先は、計画が書いてあった。


 箇条書きで。几帳面に。シュウらしくない丁寧さで。


『ストーカーを演出する。

 →セナのスケジュールを把握していることを示す

 →自宅を知っていることを示す

 →SNSを監視していることを示す

 →段階的に恐怖を与える

 →セナが怯えたタイミングで駆けつける

 →「俺がいるから大丈夫」

 →セナは俺なしでは外も歩けなくなる

 →俺がいなければ生きていけなくなる』


 ノートを閉じた。


 手が震えていた。ページを繰る指が湿っていた。


 歪んでいる。完全に歪んでいる。


 でも——俺にはシュウの叫びが聞こえた。行間から。几帳面な文字の隙間から。


『必要とされない自分には、価値がない』


 それは、シュウの人生そのものだった。


 ワンピースを脱いだ。現在に戻った。


 机の上にメッセージカードがある。


『助けて』


 ——助けてと書いたのは、誰だ。


 セナか。シュウか。それとも——。



第七章 殺す未来



 六回目のリープ。


 今年の八月。約三ヶ月前。


 セナのライブが変わっていた。


 LIVE BAR ECHOではなく、もっと大きな会場。キャパシティ二百人ほどのライブハウス。フロアはほぼ埋まっている。ペンライトの光が波のように揺れている。


 ステージのセナは別人のようだった。衣装が華やかになった。照明が豪華になった。何より——客の熱量が違う。声援が飛んでいる。名前を叫んでいる。


 売れ始めていた。


 地下アイドルから、地上に出ようとしている。SNSのフォロワーが急増し、メディアに取り上げられ、事務所がついた。七人しかいなかったあのライブハウスから、ここまで来た。


 客席の後ろに、シュウがいた。


 最前列ではなかった。後ろの壁際。腕を組んで、ステージを見ている。表情が——暗かった。


 セナが客席を煽る。「みんなー!」歓声が上がる。ペンライトが振られる。セナが笑う。大勢の人間に囲まれて、必要とされて、輝いている。


 シュウの顔が、さらに暗くなった。


 俺は離れた場所から見ていた。シュウの横顔を。


 ——嫉妬だ。


 セナが「みんな」に必要とされている。シュウだけの特別な存在ではなくなりつつある。「俺がいなければやめていた」——その物語が崩れていく。セナはもう、シュウがいなくても歌える。大勢のファンがいる。大勢に支えられている。


 シュウが必要とされる理由が、消えていく。


 ライブが終わった後、シュウは物販に並ばなかった。出口に向かった。途中で振り返って、ステージを見た。片付けをしているスタッフ。笑い合っている出演者たち。セナが誰かと話して笑っている。


 シュウはそのまま出ていった。


 俺は追わなかった。追えなかった。



◇◇◇



 リープを重ねた。八月から九月へ。九月から十月へ。


 シュウの行動がエスカレートしていた。


 ストーカー行為の頻度が上がっている。ポストへのメモだけではない。セナの行動を逐一追跡している。SNSの投稿に即座に反応する。セナの友人関係を調べている。セナと親しくなった男性スタッフの情報を集めている。


 シュウのノートに新しいページが増えていた。——リープ中にもう一度部屋に入った。


『セナが俺以外の人間に笑顔を見せている。

 俺がいなくても大丈夫になっている。

 それが怖い。

 それだけは、嫌だ』


 最後のページに、一行だけ。


『セナが俺だけのものじゃなくなるなら——』


 その先は書かれていなかった。でも白い余白が、言葉以上に雄弁だった。



◇◇◇



 七回目のリープ。


 ワンピースを着た瞬間、今までと感覚が違った。引っ張られる方向が違う。過去ではない。——前に進んでいる。


 目を開けると、夜だった。公園。知らない場所ではない。大学の近くの、小さな公園。ベンチと遊具と、街灯が二つ。夜は人がいない。


 スマートフォンの日付を見た。


 来月——十二月の日付だった。


 未来。


 ワンピースが、未来を見せている。


 公園の奥にベンチがある。街灯の光が届かない暗い場所。そこに二人の人影がいた。


 シュウとセナ。


 声が聞こえる。押し殺した声。


「もうやめて」


 セナの声だった。泣いている。


「やめてって何を」シュウの声は低かった。聞いたことのない声だった。「俺が何をした」


「わかってるでしょ。ポストのメモ。あれ、全部あなたでしょ」


 沈黙。


「最初から——最初から全部、あなただったんでしょ。ストーカーなんていなかった。全部、あなたが——」


「違う」


「違わないよ! シュウさんのスマホ見たの。写真のフォルダに——私を尾行したときの写真が——」


「それは——」


「もう無理。怖い。あなたが怖い」


 セナが立ち上がった。逃げようとした。


 シュウが腕を掴んだ。


「離して!」


「待ってくれ。俺は——俺はお前のためにやったんだ。お前を守るために——」


「守る? 怖がらせておいて守る? おかしいよ!」


「お前が俺を必要としなくなったら——俺は——」


 シュウのもう片方の手が、ポケットに入った。


 何かを取り出した。


 金属の光。


 刃物。


 俺の体が凍った。


「——ずっと一緒にいたかっただけだ」


 シュウの声が震えていた。涙声だった。刃物を持つ手も震えていた。


「シュウ、やめて——」


 セナが後ずさる。シュウが一歩近づく。


 俺は走ろうとした。止めなければ。体が動かなかった。足が地面に縫い付けられたように。これは「起こりうる未来」だ。まだ起きていない。まだ現実ではない。


 でもこのままなら——起きる。


 シュウの手が振り上がった——


 そのとき、ワンピースが脱げた。


 風が吹いて、肩紐がずれて、布が体から滑り落ちた。


 白い光。引き戻される感覚。


 現在に戻った。


 自分の部屋。床に座り込んでいる。ワンピースが足元に落ちている。


 呼吸ができなかった。息を吸おうとして、喉が塞がっている。過呼吸だ。手が震えている。膝が震えている。


 見た。見てしまった。


 シュウが——あのシュウが——刃物を持って、セナに——


 時計を見た。現在の日付。十一月。あの未来は十二月。


 一ヶ月後。


 一ヶ月後に、シュウは彼女を殺す。


 このままでは。



第八章 選択



 三日間、何もできなかった。


 大学に行った。講義を受けた。学食で飯を食った。シュウと顔を合わせた。いつものように。何も知らないふりをして。


 シュウは笑っていた。いつものように。軽口を叩いて、ふざけて、コーラを飲んで。


 俺はその顔を見ながら、一ヶ月後の光景を思い出していた。暗い公園。刃物。震える手。「ずっと一緒にいたかっただけだ」。


 同じ顔だ。この笑っている顔と、あの壊れた顔が、同じ人間のものだ。


 選択肢を整理した。何度も。夜中にベッドの中で。


 一、警察に通報する。——何と言う? 「友人が一ヶ月後に人を殺します。証拠はタイムリープで見ました」。精神科を紹介される。


 二、シュウに直接言う。「お前、ストーカーの自作自演やってるだろ」。——根拠は? 「ワンピース着て過去に行ったら見た」。精神科を紹介される。


 三、セナに逃げろと言う。シュウから離れろと。——セナは逃げるかもしれない。でもシュウは壊れる。逃げた先まで追うかもしれない。結果は変わらない。もっと悪くなるかもしれない。


 四、何もしない。——一ヶ月後、シュウは彼女を刺す。


 どれも駄目だ。


 全部駄目だ。


 四日目の夜、俺はベッドの上で天井を見ていた。ワンピースが椅子の背にかかっている。白い布。暗い部屋の中で、ぼんやり浮き上がって見える。


 考えろ。


 シュウを止めなければならない。でも「止める」だけでは足りない。シュウの中にある「必要とされたい」という渇望は消えない。それが消えない限り、また同じことが起きる。


 必要なのは、シュウが「自分が何をしようとしていたか」に気づくこと。自分の手で。自分の目で。


 あの夜——十二月の夜——シュウは刃物を振り下ろす。その瞬間に、シュウは自分のやっていることの意味に気づいていない。怒りと嫉妬と恐怖に支配されている。


 もし、刃物を振り下ろした先にいるのがセナではなかったら。


 もし、そこに立っているのが——俺だったら。


 シュウは気づくだろう。自分が何をしようとしていたか。親友の体に刃を向けた瞬間に。


 計画が、頭の中で形を結んだ。



◇◇◇



 翌日、俺は動いた。


 まず、十二月のあの夜の正確な日付を確認する必要があった。七回目のリープで見た光景。日付は——スマートフォンの画面に映っていた。十二月二十三日。


 場所は大学近くの公園。時間は——夜。たぶん九時か十時。


 次に、刃物。シュウが持っていたのはナイフだった。折りたたみ式。刃渡りは十センチほど。あれを事前にすり替える必要がある。


 シュウの部屋にナイフがあるはずだ。リープで行って、場所を確認する。そして当日までに偽物と入れ替える。


 偽物——刃のない柄だけのナイフ。あるいは刃を潰したもの。見た目は本物と同じで、切れないもの。


 ネットで調べた。演劇用の小道具として、引っ込む刃のナイフが売られている。ステージ用。刺す動作をしても、刃が柄の中にスライドして引っ込む。血糊を仕込むこともできる。


 注文した。お急ぎ便。三日で届く。


 それから、セナ。あの夜、セナがあの公園にいなければいい。シュウが呼び出したのだろう。ということは、セナに「行くな」と伝えればいい。


 でもセナの連絡先を知らない。SNSはある。DMを送る。匿名で。


 文面を考えた。何度も書き直した。


『十二月二十三日の夜、大学近くの公園には行かないでください。あなたに危険が迫っています。信じてもらえなくても構いません。でもお願いです。あの日だけは、行かないでください』


 怪しすぎる。でもこれしか方法がない。


 送信した。


 既読はつかなかった。——当然だ。知らないアカウントからのDMなど、普通は開かない。


 もう一通送った。


『これを書いているのは、あなたを傷つけたい人間ではありません。あなたを守りたい人間です。二十三日だけ、家にいてください』


 既読がついた。返信はない。


 信じてくれただろうか。分からない。


 でも、セナが来なくても来ても、俺はあの場所に立つ。ワンピースを着て。セナの代わりに。



◇◇◇



 演劇用のナイフが届いた。


 手に取った。本物そっくりだった。刃を押すと、柄の中にスルッとスライドして引っ込む。刺す動作をすれば、刃が消えて、刺さったように見える。


 リープした。シュウの部屋に入った。


 ナイフを探した。机の引き出し。あった。折りたたみナイフ。刃渡り十センチ。新品に近い。——最近買ったのだろう。あの夜のために。


 入れ替えた。本物を抜いて、偽物を入れた。折りたたんだ状態では見分けがつかない。重さも似ている。


 本物のナイフはポケットに入れた。現在に持ち帰る。


 現在に戻って、本物のナイフを見つめた。シュウがこれで彼女を刺すはずだった刃物。冷たい金属。


 流しの下に隠した。


 準備は整った。


 十二月二十三日。あと三週間。


 俺はあの公園に立つ。ワンピースを着て。暗闇の中で。シュウが来るのを待つ。


 刺されるために。



第九章 あの日



 十二月二十三日。


 冬の夜だった。空気が乾いていて、息が白い。星は見えない。雲が低く垂れ込めている。


 午後八時。俺は自分の部屋でワンピースを着た。白い布を頭から被って、肩紐を通して。その上にコートは着ない。今夜は見られなければならない。ワンピースを着た人間として、シュウの目に映らなければならない。


 暗い公園。シュウの目には、ワンピースの女に見えるだろう。——見えてくれ。


 部屋を出た。大学近くの公園まで歩いた。十五分。冬の夜風がワンピースの薄い布を通り抜ける。寒い。でも体は熱かった。心臓がうるさいくらいに打っている。


 公園に着いた。街灯が二つ。一つは切れている。ベンチが三つ。遊具が少し。砂場。滑り台。人はいない。


 奥のベンチ。街灯の光が届かない場所。あの未来で、シュウとセナがいた場所。


 俺はそこに座った。


 待った。


 スマートフォンを見た。セナからの返信はまだない。来ないでくれ。頼むから来ないでくれ。俺がここにいるから。


 九時を過ぎた。風が強くなった。木の枝が揺れている。


 九時半。


 足音が聞こえた。


 公園の入口。人影。一人。男。


 シュウだった。


 黒いパーカー。フードを被っている。あの夜と同じ格好。手がポケットに入っている。


 シュウが歩いてくる。ゆっくりと。俺がいるベンチに向かって。


 暗い。俺の顔は見えないはずだ。ワンピースの白い布だけが、わずかに浮き上がって見える。


 シュウの顔が——


 壊れていた。


 四年間見てきた顔とは別人だった。目が据わっている。唇が引き結ばれている。額に汗が浮いている。寒いのに。


 この顔を知っている。リープで見た。あの未来の顔だ。


 シュウが近づいてくる。五メートル。三メートル。


 ポケットから手が出た。


 ナイフ。折りたたまれたナイフ。——俺が入れ替えた偽物。シュウはそれを知らない。本物だと思っている。


 カチ、と刃が開く音。


 偽物の刃が出た。本物そっくりに光っている。暗闇の中では区別がつかない。


 シュウが立ち止まった。ベンチの前。一メートルの距離。


 俺はシュウの目を見ていた。暗くて、俺からもシュウの表情が完全には見えない。でも呼吸は聞こえた。荒い呼吸。震えている。


 シュウの手が上がった。


 ナイフを握った手が。


 振り下ろされた。


 俺の腹に当たった。偽物の刃がスライドして柄に引っ込んだ。衝撃はあった。殴られたような。でも切れていない。刺さっていない。


 俺は倒れた。ベンチから地面に。意図的に。大げさに。芝居だ。背中から地面に落ちて、腹を押さえた。


 シュウが立っている。息が荒い。ナイフを握ったまま。手が震えている。


 やった。やってしまった。——そういう顔をしている。


 俺は地面に横たわったまま、口を開いた。


「——シュウ」


 シュウの体が、弾かれたように硬直した。


 この声を知っている。四年間、毎日聞いてきた声だ。


「お前、何やってんだよ」


 俺はゆっくり起き上がった。腹を押さえたまま。血は出ていない。刺さっていないのだから当然だ。でもシュウにはまだ分からない。暗いから。


「なん——」


 シュウの声が割れた。


「なんで——なんでお前が——」


 俺は立ち上がった。シュウの目の前に。ワンピースを着た、百七十五センチの男。親友。マブダチ。


「セナは来ないよ」


「——」


「俺が来るなって言ったから」


 シュウの手からナイフが落ちた。金属が地面にぶつかる音。乾いた音。小さな音。


 シュウの膝が折れた。崩れるように地面に座り込んだ。


「嘘だろ……なんで……お前が……」


「嘘じゃない。——全部、見たんだよ。シュウ」



第十章 お前が必要だった



 公園のベンチに、二人で座っていた。


 シュウは地面に座り込んだまま動けなかったので、俺が引っ張り上げた。ベンチに座らせた。隣に座った。ワンピースのまま。十二月の夜風が冷たい。


 シュウは黙っていた。両手で顔を覆って、小さく震えていた。


 俺は話した。全部。


「ワンピースが届いた。差出人が俺自身で。着たら過去に飛んだ。——お前が地下アイドルのライブに通ってたのを見た。セナと付き合ってるのを見た」


 シュウは顔を覆ったまま動かない。


「ストーカーの被害があったのも見た。お前が駆けつけるのが早すぎるのに気づいた。そして——お前がポストにメモを貼りに行くのを見た。深夜に。フードを被って」


 シュウの肩が跳ねた。


「ノートも見た。計画。全部書いてあった」


「……やめてくれ」


 シュウの声がくぐもっていた。手の隙間から漏れる、小さな声。


「やめない。最後まで聞け」


 俺はシュウの横顔を見ていた。覆った手の間から、涙が落ちている。地面に染みを作っている。


「お前がセナを"自分だけのもの"にしたかったのは、分かった。必要とされたかったのも、分かった。——でもお前、今日ここでナイフ持ってきただろ」


 シュウが激しく首を振った。


「殺すつもりは——」


「あった」


 俺は断言した。


「なかった——俺は——脅かすだけで——」


「嘘つくな。俺は見たんだ。お前が刃を振り下ろすところを。——ワンピースが見せた。起こりうる未来を」


 シュウの手が顔から離れた。泣き腫らした目が俺を見た。


「……見た?」


「見た。お前がセナを刺す未来を」


 シュウの顔が歪んだ。自分のやろうとしていたことの重さが、ようやく届いたのかもしれない。


「必要とされたかった。——それだけだった。俺がいなくなったら、セナは——」


「セナは大丈夫だよ」


「大丈夫じゃない! 俺がいなかったら、あいつはやめてた。歌うのを。俺が最初に行ったんだ。俺がフライヤーを受け取ったんだ。俺が——」


「そうだよ」


 俺はシュウの言葉を遮らなかった。全部言わせた。それから言った。


「お前が最初だった。お前がいなかったら、セナは歌をやめていた。それは本当だ」


 シュウが俺を見た。涙で赤くなった目で。


「俺は見たんだよ、シュウ。タイムリープで。お前が初めてフライヤーを受け取った日を。セナが一時間立ちっぱなしで配って、誰にも受け取ってもらえなくて——お前が最初に受け取った。あのときのセナの顔を、俺は見た」


 シュウが唇を噛んだ。


「嬉しそうだったよ。本当に嬉しそうだった。泣きそうな顔で笑ってた」


「……」


「お前がライブに来るようになって、セナは続けられた。物販で話して、食事に行って、付き合って。——セナにとって、お前は最初のファンだった。一番辛いときに来てくれた人だった。セナがお前に告白したのも見た。『ずっと一緒にいてほしい』って」


 シュウが泣いていた。声を出して。手で顔を覆うこともせずに。涙がそのまま頬を流れて、顎先から落ちていた。


「お前は最初から必要とされてたんだよ。自作自演なんかしなくても。ストーカーを演じなくても。お前がいたから、あいつは歌えたんだ。——お前がいるだけで、もう十分だったんだよ」


「じゃあなんで——なんで俺は——」


「怖かったんだろ。セナが売れて、他のファンが増えて、お前じゃなくても大丈夫になるのが。——でもな、シュウ」


 俺はシュウの肩を掴んだ。冷たい肩だった。震えている。


「セナにとっての"最初"は、一人しかいないんだよ。百万人のファンがついても、最初のファンはお前だけだ。それは誰にも替えられない。お前がストーカーを演じて"必要とされる理由"を作らなくても、最初からあった理由なんだ」


 シュウが声を上げて泣いた。公園に響いた。冬の空に吸い込まれていく声だった。


 俺はシュウの隣に座っていた。何も言わなかった。泣き終わるまで、ただ隣にいた。


 地面にナイフが落ちている。偽物の。刃が引っ込んだまま。


 風が吹いた。ワンピースの裾が揺れた。白い布が、暗闇の中でぼんやり光って見えた。



第十一章 伝票の筆跡



 年が明けた。


 あの夜から二週間が経っていた。年末年始を挟んで、俺とシュウは一度も会わなかった。LINEも送らなかった。


 一月四日。シュウからメッセージが来た。


『明けましておめでとう。今年もよろしく』


 普通のメッセージだった。スタンプもない。シュウにしては珍しく素っ気ない。


『おめでとう。よろしく』


 俺も素っ気なく返した。


 それだけだった。


 日常に戻っていく。大学。講義。学食。バイト。卒論。——シュウとも、少しずつ顔を合わせるようになった。


 前と同じではなかった。軽口は叩く。ポテチは食う。くだらない話もする。でも、あの夜のことは一度も話さなかった。話す必要がなかった。二人とも覚えている。二人とも忘れていない。


 セナとシュウがどうなったのかは、俺には分からなかった。シュウは何も言わない。俺も聞かない。


 ただ、シュウのスマートフォンの通知を気にする癖は、いつの間にかなくなっていた。



◇◇◇



 一月の終わり。


 俺は部屋の片付けをしていた。卒論の資料を整理して、不要な書類をシュレッダーにかけて、ゴミ袋を出して。


 押し入れの奥に、段ボール箱があった。


 あの箱。十一月に届いた箱。ワンピースが入っていた箱。伝票がまだ貼りつけてある。


 伝票を見た。


 何度も見たはずだ。でも今日は、違う目で見ていた。


 差出人の筆跡。ボールペンの、少し急いで書いたような字。


 俺は机の上のペンを取った。メモ用紙に、自分の名前を書いた。同じボールペンで。急いで。


 見比べた。


 ——同じだ。


 名前の書き方。住所の数字の癖。「様」の最後の払い。全部同じだ。間違いなく、俺の字だ。


 分かっていた。分かっていたはずだ。差出人が自分だということは、最初から伝票に書いてあった。でも信じていなかった。誰かのいたずらだと思っていた。伝票を偽造したのだと。


 違う。


 これは俺が書いた。俺の手で。俺のペンで。


 でも俺は書いた覚えがない。まだ書いていないからだ。


 ——これから書くのだ。


 理解した。ワンピースは円環している。未来の俺が、過去の俺に送った。あの「助けて」は、俺自身の声だった。シュウを助けたいと願った、俺自身の。


 俺がこのワンピースを送らなければ、過去の俺は何も知らないまま十二月を迎える。シュウは刃物を持って公園に行く。セナは——


 送らなければならない。俺が。今の俺が。


 押し入れからワンピースを出した。白い布。何度も着た。何度も過去を見た。この布が全てを繋いでいた。


 畳んだ。丁寧に。箱に入れた。


 メッセージカードを取り出した。白いカード。裏に花の模様。


 ペンを取った。


 手が止まった。


 何を書く。何を書けばいい。全部説明する? 「ワンピースを着ろ。過去に行ける。シュウがストーカーの自作自演をしている。十二月に彼女を殺す。止めてくれ」——そんなメッセージを受け取っても、信じない。俺なら信じない。


 だから、三文字にした。


『助けて』


 書いた。ボールペンで。手が少し震えた。


 これだ。この震えた字を、過去の俺は受け取ったのだ。


 伝票を書いた。差出人は自分の名前と住所。宛先も自分の名前と住所。少し急いで書いた。——あの筆跡になるように。


 箱を閉じた。テープで留めた。


 翌日、コンビニから発送した。店員が伝票を見て、少し怪訝な顔をした。差出人と宛先が同じだから。でも何も言わなかった。


 箱が店員の手に渡った瞬間、俺の中で何かが閉じた。円環が。始まりと終わりが繋がった。


 外に出た。一月の空は灰色で、息が白くて、寒かった。


 助けて、と書いたのは——俺だった。


 シュウを助けたかった俺だった。



第十二章 すれ違い



 記憶が、蘇った。


 十月のある日。ワンピースが届く前の、普通の日。大学のキャンパスを、シュウと並んで歩いていた。昼休みだった。学食に向かう途中。


 すれ違った。


 男だった。一人で歩いている。少し俯き加減で、コートを着て、足早に。


 変なやつだった。コートの裾から白い布がはみ出ていた。スカートのような——いや、ワンピースだ。男がワンピースを着ている。コートで隠そうとしているが、裾が見えている。


 一瞬だけ目が合った。


 男の顔は——見覚えがあるような、ないような。すぐに視線を逸らされた。男は足早に通り過ぎていった。


「なんだ今の」シュウが振り返って言った。「ワンピース着てなかった? あの男」


「見えた。白いやつ」


「変なやつ。大学にもいるんだな、ああいうの」


「まあ、色んな人いるからな」


「ウケるw」


 シュウが笑った。俺も笑った。それだけだった。三秒で忘れた。そのまま学食に行って、カツカレーとうどんを食べて、午後の講義に出て、夕方にはもう覚えていなかった。


 ——あれは、俺だった。


 二回目のタイムリープで、大学の近くを歩いていたとき。ライブハウスを出た後、現在に戻る前に大学の周辺を歩いた。あのとき、過去の自分とシュウとすれ違ったのだ。


 気づかなかった。あのときは。すれ違った男の顔を覚えていなかった。でも今なら分かる。あのコートの下のワンピース。あの俯いた歩き方。あの目。——自分だ。


 あの日、シュウは笑っていた。


 ワンピースの男を見て、「変なやつ」と笑った。屈託なく。何も壊れていない頃のシュウだった。軽口を叩いて、くだらないことで笑って、カツカレーを食べて。


 あの頃に戻れたら、と思わないこともない。何も知らなかった頃に。シュウが普通のシュウで、俺が普通の俺で、ワンピースなんか関係なかった頃に。


 でも、戻れない。知ってしまったから。


 俺はワンピースを畳んだ。丁寧に。最後に。


 もう着ることはないだろう。用は済んだ。円環は閉じた。ワンピースは過去の俺に届けられ、過去の俺がシュウの秘密を知り、十二月の夜を止め、シュウは崩れ、俺は全てを見た。


 白い布を、箱に入れた。——いや、箱はもう送ってしまった。じゃあ押し入れに。布のまま。畳んで。


 手が止まった。


 ワンピースに顔を近づけた。匂いがした。——セナの匂いではない。俺自身の汗と、冬の空気と、あの公園の土の匂い。


 これが、俺のワンピースだった。誰かのものではない。最初から最後まで、俺が着て、俺が使って、俺が送って、俺が受け取った。


 他者の人生を引き受けるための装置。シュウの歪みを見るための窓。セナの時間を覗くためのパス。——そして最後は、自分自身に返ってくる白い円環。


 押し入れにしまった。奥の、見えない場所に。


 ドアを閉めた。



最終章 ワンピースを着た男



 三月。


 卒業した。シュウも卒業した。


 卒業式の後、二人で学食に行った。最後の学食。カツカレーとうどん。いつもの席。


「就職先、決まったんだっけ」


「うん。四月からIT企業。お前は?」


「俺は不動産。——営業」


「合ってんな。お前の口なら」


「うるせえ」


 笑った。前と同じように。でも前と同じではなかった。何かが——薄い膜のようなものが、二人の間にある。見えないが、感じる。


 セナとシュウが今どうなっているのかは、俺は聞いていない。シュウも言わない。でもシュウのスマートフォンの画面に、時々セナの名前が映ることがある。LINEの通知。シュウはそれを見ると、少しだけ表情が柔らかくなる。隠しはしない。もう隠さない。


 学食を出て、キャンパスを歩いた。桜が咲き始めていた。


「四年間、世話になったな」


「こっちのセリフだわ」


「じゃあな」


「おう」


 シュウが歩いていった。振り返らなかった。俺も振り返らなかった。


 それでいい。



◇◇◇



 五月。


 社会人になって一ヶ月が経っていた。研修が忙しくて、シュウとはほとんど連絡を取っていなかった。たまにLINEでスタンプを送り合うくらい。


 日曜日の夜。アパートのソファでテレビを見ていた。


 セナが映っていた。


 音楽番組だった。新人アイドル特集。セナがステージで歌っている。——あの小さなライブハウスとは別世界だった。大きなステージ。照明。大勢の観客。歓声。


 売れたんだな、と思った。


 あのとき七人しかいなかったライブハウスから、ここまで来た。フライヤーを一時間配って、数枚しか受け取ってもらえなかった少女が。


 シュウが最初のファンだった。あの日、フライヤーを受け取らなければ。「また来ます」と言わなければ。——このステージはなかったかもしれない。


 テレビを見ながら、そんなことを考えていた。


 そのとき、スマートフォンが鳴った。ニュースのプッシュ通知。


『速報:人気アイドルセナ、ライブ会場でファンの男に襲われる。命に別状なし』


 テレビの画面が切り替わった。ニュース速報のテロップ。


 俺は画面に釘付けになった。


「ライブ終了後、楽屋に侵入した男性ファンがセナさんに近づいたところ、現場に居合わせた男性が犯人を取り押さえました。セナさんに怪我はなく——」


 現場に居合わせた男性。


 テレビに映った防犯カメラの映像。粗い画質。楽屋の廊下。男が走ってくる。犯人に体当たりして取り押さえている。


 その男が着ているもの——


 白い。


 裾の長い、白い布。


 ——ワンピース。


 俺は立ち上がった。テレビの画面に顔を近づけた。粗い映像。男の顔は映っていない。後ろ姿だけ。でもあの体格。あの動き方。


 ソファの横を見た。


 シュウが座っていた場所。——さっきまで座っていた場所。


 シュウは来ていたのだ。三十分前に。「近くまで来たから」と。コーラとポテチを持って。テレビでセナの番組を一緒に見ていた。途中で「トイレ」と言って立った。


 戻ってこなかった。


 スマートフォンにメッセージが一件。シュウ。


『ワンピース、借りた。返すから』


 押し入れ。開けた。奥にしまったはずのワンピースがない。


 シュウが持っていった。


 ——いつから知っていたのだ。ワンピースのことを。押し入れにあることを。あるいは、ワンピースの「力」を。


 テレビではまだニュースが流れている。セナは無事。犯人は取り押さえられた。「居合わせた男性」の身元は明らかにされていない。


 ワンピースを着た男。


 あの夜、シュウは刃物を持ってセナの前に立った。


 今日、シュウはワンピースを着てセナを守った。


 刃物からワンピースへ。壊す側から守る側へ。


 変わったのか。本当に変わったのか。


 それとも——まだ、セナに「必要とされたい」のか。守ることで、必要とされようとしているのか。形を変えただけで、根は同じなのか。


 分からない。


 分からないが——一つだけ違うことがある。


 あの夜、シュウの手には刃物があった。


 今日、シュウはワンピースを着ていた。


 壊すためのものと、守るためのもの。


 それだけで十分かどうかは——まだ、わからない。



◇◇◇



 翌日、シュウからワンピースが返ってきた。紙袋に入って。


 広げた。白い布。少し皺になっている。匂いがする。——シュウの匂いだ。汗と、冬とは違う春の空気と。


 紙袋の底に、メモが入っていた。シュウの字。


『ありがとう。返す。もう使わない。——たぶん』


 「たぶん」。


 俺はメモを畳んで、ワンピースと一緒に押し入れにしまった。


 ドアを閉めた。


 白い布は暗闇の中に消えた。次に出てくるのがいつかは、誰にも分からない。


 俺のスマートフォンに、メッセージを打った。シュウに。


『次は自分で買え』


 三秒後、返信。


『サイズ合わなかったわw』


 俺は少し笑った。


 笑ったけど、スマートフォンをテーブルに置いた後、しばらく天井を見ていた。


 助けて、と書いたのは俺だった。


 ワンピースを着たのも俺だった。


 でも今日、ワンピースを着たのはシュウだった。


 それが何を意味するのか、俺にはまだ分からない。


 たぶん、ずっと分からない。



「助けて」——それは誰の声だったのか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ