愛は食卓にあるが、支払いは帳簿にある
翌朝、エルゼがまどろみの中で感じたのは、頬を撫でる柔らかな陽光と、枕元に置かれた一輪の青い薔薇の香り。そして、耳元で囁かれる甘いテノール。
「おはよう、僕の眠り姫。君が目覚めるのを、小鳥たちと一時間ほど待っていたよ。さあ、着替えようか。今日は君のために、シルクの海のようなドレスを用意したんだ。昨夜の雷鳥の羽と同じ色だよ」
カシアンは完璧な手際で、エルゼをベッドから抱き上げます。その抱擁は優しく、昨夜の毒のような甘美さがまだ胸に残っていました。
(……ああ、やっぱりこの人は特別。これほど私を慈しんでくれる人は、世界中に他にいない……)
エルゼがうっとりとその胸に顔を寄せた、その時。
寝室のドアを叩く、控えめだが切実な音が響く。
「……奥様。至急、ご確認いただきたい書類がございます」
執事のハンスの声は、明らかに震えている。
エルゼの脳内に「警戒アラート」が鳴り響きました。彼女はカシアンの腕を振り解き、ガウンを羽織ってドアを開けます。
「どうしたの、ハンス。朝から騒々しいわね」
ハンスが差し出したのは、一枚の請求書。そこには、エルゼが一生かかっても見たくなかった桁数の数字が並んでいました。
「おっと!?……おっと?……おっと……これは、何?」
「はい。カシアン様が昨夜、雷鳥を届けるためにチャーターされた『特急・駿馬便』の輸送費。及び、猟師の村を『買い取る』ための手付金。さらには、お庭の噴水をサファイアに改造するための工期短縮追加料金でございます」
パッ!
金魚のように開いた口が塞がらない。
エルゼの視界は真っ白になりました。
昨夜食べた「雷鳥のポタージュ」の味を思い出し、その一口が金貨何枚分だったかを脳内算盤が光の速さで計算します。
「カシアン……。あなた、昨日、村を『買い取る』って言ったわね?」
「ああ、言ったとも。これで君は、いつでも好きな時に雷鳥が食べられる。素晴らしい投資だろう?」
「投資……? 投資っていうのはね、カシアン。入れた金よりも増えて戻ってくることを言うのよ! これはただの『死に金』よ! というか、そもそもその手付金、どこから出したの!? 私の裏帳簿、暖炉で燃やしたはずよね!?」
「ああ、あれかい? 燃やす前に、素敵な模様の紙があったから、担保として銀行に預けてきたよ。代わりに、この銀のカードをくれたんだ。魔法のカードだね、これ一枚で村が買えるんだから」
エルゼの膝が崩れました。
彼が「素敵な模様の紙」と呼んだのは、彼女が命の次に守ってきた王室御用達の商売許可証でした。




