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カシアンが「執務室の鍵を焼いた」という暴挙に出てから数時間後。
エルゼは怒りと虚無感で思考を停止させながらも仕事を続けていたが、階下から漂ってきた香りに、抗いようもなく胃を掴まれた。
シェフは費用が嵩むから、昨日から日数を削ったはず。間違えて来たのかしら?
熟成された赤ワインのソース、香草とともに焼き上げられた野鳥の脂、そして、官能的なまでに甘いトリュフの香りが漂ってくる。
なんだかいつもと違うわね。
ダイニングへ向かうと、そこにはプロの料理人も裸足で逃げ出すような、完璧なテーブルセッティングが施されていた。カシアンは上着を脱ぎ、糊のきいた白いエプロンを身に纏っている。
「おかえり、エルゼ。……いや、お疲れ様、と言うべきかな。今日のメインは、君が以前『食べてみたい』と零していた、北方の幻のサンダーバードだよ」
カシアンは優雅に椅子を引き、エルゼをエスコートした。彼の所作には一ミリの無駄もなく、その眼差しは真実、愛する妻を労わる慈愛に満ちている。
「カシアン、あなた……。この鳥をどこで? 市場には出回らないはずよ」
「ああ、伝手を辿って、猟師の村を丸ごと一つ買い取っておいたんだ。これからは、君が食べたいと思った瞬間に、いつでも新鮮なものが届くよ」
エルゼの手が止まる。
(村を丸ごと? また、私の知らない口座からお金が……)
糾弾しようと唇を震わせた瞬間、カシアンがスプーンですくい上げたポタージュを、彼女の口元へ運んできた。カシアン、私は赤ん坊じゃ……。
口の中に広がったのは、天国のような味わいだった。
滑らかな舌触り、素材の滋味を最大限に引き出す絶妙な塩加減。彼はエルゼの体調、嗜好、そしてその瞬間の空腹具合までを完璧に把握し、一皿の芸術に昇華させている。
「……お、美味しいわ」
「そうだろう? 君の血となり肉となるものは、世界で一番美しくなければならない。エルゼ、僕は君のすべてを幸せにしたいんだ。君が何を飲み、何を食べ、何を考えるか。そのすべてを整える手助けをしてあげたい」
カシアンは跪き、エルゼの膝の上に頭を乗せた。
その姿は、忠実な騎士のようでもあり、飼い主に甘える獣のようでもある。
「君を苦しめる『数字』や『責任』は、僕がすべて溶かしてあげる。君はただ、僕が差し出す愛だけを食べていればいい。………ねえ、エルゼ。明日、あの煩わしい商館の権利書も、一緒に暖炉へくべないかい? そうすれば、君は本当に自由になれる」
彼は本気なのだ。
エルゼを破滅させようとしているのではない。彼女を愛するあまり、彼女を構成する「外の世界」を一つずつ剥ぎ取り、自分という繭の中に閉じ込めようとしている。
その瞳の、なんと純粋で、透き通っていることか。
(この男は、狂っている)
エルゼは戦慄しながらも、彼の手が頬に触れるたび、凍てついた心がわずかに溶けていくのを感じていた。
世俗の垢にまみれた強欲な商人たちとは違う、一切の打算がない、狂気じみた純愛。
「……バカな人」
エルゼは、彼の銀髪を指で梳いた。
彼の愛は、あまりにも重く、毒のように体に回る。けれど、その毒がこれほどまでに心地よいのはなぜだろう。
(私は、彼を壊さなきゃいけない。……でも、その前に。もう一口だけ、この甘い毒を味わっていたい)
エルゼはカシアンの差し出すフォークを、再び受け入れた。
それは、彼女自身の心が少しずつ「食いつぶされていく」音でもあった。




