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「エルゼ殿、今回の鉄材の価格だが、前回の三倍は出してもらわんとな。嫌なら他所へ——」
その時、執務室の影から、シルクの衣擦れの音と共にカシアンが歩み出しました。
彼はエルゼの肩に優しく手を置き、ギルド長へ向けて、慈愛に満ちた、しかしどこか「底知れぬ断崖」を思わせる微笑みを浮かべました。
「おや、ギルド長。お言葉ですが……三倍の価格という提示は、僕の妻に対する『求愛』としては、あまりにも無作法ではありませんか?」
カシアンの声は、上質なチェロのように深く響きます。ギルド長は、その美貌と圧力に思わず言葉を呑みました。
「き、求愛だと? 私はビジネスの話を……」
「ええ、ビジネス。それは命のやり取りだ。……ギルド長、あなたは鉄を売る。鉄は武器になり、農具になり、文明を作る。しかし、僕の妻エルゼがこの契約書にサインをする際、彼女の指先にかかる微かな『重圧』が、彼女の寿命をコンマ一秒削ることを、あなたは見落としている」
カシアンは机に身を乗り出し、ギルド長の瞳をじっと覗き込みました。その瞳は、獲物を憐れむ捕食者の輝きを帯びています。
「想像してください。彼女が三倍の金を稼ぐために、本来僕と見つめ合うはずだった時間を『労働』に捧げる。その失われた時間は、宇宙の損失だ。……あなたが鉄を売ることで得る利益は、彼女の『愛の純度』を汚す代償として支払われるべきだ。つまり、本来ならあなたが彼女に『時間を奪ったお詫び』として金を払うべきだとは思いませんか?」
「な……何を言っているんだ。論理がめちゃくちゃだ!」
「いいえ、極めて論理的です。鉄はまた掘ればいい。だが、今この瞬間のエルゼの美しさは二度と戻らない。……ギルド長、あなたは『三倍の金』と、『僕があなたの家を訪問し、あなたが死ぬその瞬間まで、愛とは何かを一晩中、毎晩語りかけ続ける特権』、どちらを選びますか?」
カシアンは、ギルド長の耳元で、甘く、死神のように囁きました。
「……僕の語りは、長いですよ? あなたが『鉄』という冷たい無機物に逃げ込んだことを後悔するほどに、濃密に、残酷に、愛の義務を説きましょう」
ギルド長の顔から血の気が引きました。カシアンの瞳には「本気でやる」という、狂人の純粋さが宿っていたからです。この男は、本当に、一文の得にもならないのに相手の人生を「愛」で埋め尽くして破壊する。
「……わ、分かった。三倍はやめる。据え置き……いや、原価でいい! むしろ、配送費もこちらで持つ! だから、その『愛の説法』だけは勘弁してくれ!!」
「賢明な判断だ。……ああ、契約書へのサインは、エルゼの指が汚れないよう、僕があなたの指の血で代筆しましょうか?」
「結構だ!! 自分で書く!!」
ギルド長が逃げ出した後、執務室には沈黙が流れました。
「カシアン……あなた、今、完全に相手を脅迫してたわよね?」
「心外だな、エルゼ。僕はただ、彼に『真の価値』を気づかせてあげただけだよ。……さあ、節約に成功したご褒美に、僕の喉を潤してくれないか? 君の淹れた、あの雑草のお茶で」
カシアンは、先ほどまでの魔王のような気配を霧散させ、再び「エルゼ専用の愛妻家」へと戻りました。
エルゼは帳簿に並ぶ、あり得ないほど有利な数字を見つめ、戦慄します。
「(この男……ただの浪費家じゃない。人の精神の隙間に、甘い毒を流し込む天才だわ……)」義姉の弟だって事を忘れるのよね。
エルゼは、もはや恐怖さえも通り越し、目の前の「美しき毒薬」をどう利用して帝国を食いつぶそうかと、さらに黒い商魂を燃やすのでした。
こうしてエルゼとカシアン。そして2人を取り巻く愉快な人達の物語は、これからも予想外の騒動を巻き起こしつつも、平和に続いていくのでした。
めでたし、めでたし。
完結は、別の物語の始まり。




