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夜の帳が下りる頃、ルミエール伯爵邸の書斎には、羽根ペンが羊皮紙をひっかく神経質な音だけが響いていた。
エルゼはこめかみを押さえ、目の前の帳簿に並ぶ絶望的な数字を睨みつけていた。先月の絹織物貿易の利益——それは本来、冬を越すための小麦の買い付けに充てられるはずだった。それが、たった一行の「私的な出費」によって、跡形もなく消え失せている。
「……またなのね」
その時、重厚な扉が音もなく開き、甘い薔薇の香りが部屋に流れ込んできた。
「まだそんな無粋な紙切れと睨めっこしているのかい、エルゼ?」
そこに立っていたのは、月光を銀髪に変えたような、神の悪戯としか思えない美貌を持つ男、カシアンだった。彼は流れるような仕草でエルゼの背後に回り込み、冷え切った彼女の肩に、最高級のカシミアをふわりとかける。
「見ておくれ、僕の愛しい人。君の疲れを癒やすために、南方の島から『歌う小鳥』を百羽買い取ったよ。今、中庭の特製ケージで合唱させているんだ。君の耳に届く旋律は、僕の鼓動そのものだよ」
「カシアン……あの鳥たちは、一羽につき金貨三枚は下らない希少種だと聞いているわ」
エルゼは振り返らず、低く震える声で言った。
「それがどうしたんだい? 君の微笑みは、金貨一万枚よりも価値がある。ああ、そんなに険しい顔をしないで。せっかくの真珠のような肌に、皺が寄ってしまうじゃないか。でもそんな君も愛おしいよ。愛してる、エルゼ」
カシアンは長い指先でエルゼの頬をなぞる。その指は驚くほど滑らかで、一切の労働を知らない。エルゼが泥にまみれ、商人と怒鳴り合い、血の滲むような思いで積み上げた富を、彼はただ「愛」という美しい言葉でコーティングし、飲み込んでいく。
「あなたは……私がこの家を維持するために、どれだけの夜を徹しているか分かっているの?」
「分かっているとも。だから僕は、君に休息を与えたいんだ。そうだ、明日は領地の仕事をすべて休んで、僕と一緒に気球に乗ろう。空の上なら、誰にも君を邪魔させない。そのために、君の執務室の鍵はすべて、暖炉の中に投げ込んでおいたよ」
エルゼの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げると、夫は一点の曇りもない、聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「……鍵を、燃やしたの?」
「そうだよ。君を束縛する鉄の鎖から、僕が解放してあげたんだ。嬉しいだろう?」
カシアンは陶酔したようにエルゼを抱きしめる。彼の心臓の音は、穏やかで、満ち足りている。
エルゼの胃の奥で、どろりとした黒い感情が鎌首をもたげた。
これは愛ではない。
彼は、私の人生という果実を、最も美味しいところから順に、優雅に咀嚼しているだけなのだ。
(……ああ、そう。あなたが私を「空っぽ」にしたいのなら、まずはあなたのその美しい喉元から、何も通らなくしてあげましょうか)
エルゼの唇が、不自然なほど艶やかに弧を描いた。
「ええ、カシアン。本当に素敵だわ。……ねえ、明日の気球旅行のために、最高に贅沢な晩餐を用意させましょうか。私、とっておきの『仕掛け』を思いついたの」
愛に飢えた吸血鬼のような夫と、すべてを奪われかけている女性。
月光の下で交わされる抱擁は、どちらが先に相手を食い殺すかの合図に過ぎないようでもあった。
でも一つ異なるのは、そこにエルゼを心から愛するカシアンの純粋な愛、そのものがあるということ。




