鬼灯 7
鷹城は夢を見ていた。
水音がする、…。
水の流れる音が迫っている、とおもう。
「…水、…――――!」
目が醒めて暗闇に瞬く。まったく周囲の見えない闇にパニックになりかけて自制する。
…ここは、―――水?
どうして、さっきまで水音なんか、と思いながら流れの迫る音を聞きとろうとする。
麻酔に眠る鷹城の眉が、蒼白な中にわずかに寄せられる。
白い指先が、動かすことができずに僅かに小指が撥ねる。
滝岡が静かに手を進めていく。躊躇いはなく、その運びは滑らかに美しくさえみえる。無駄なく、必要な切除を。
「細胞シート」
光が要求し、切除の終わった創部を保護する為の細胞シートが滝岡の手許に用意される。
「カテーテル、…――」
滝岡が細胞シートを敷き保護処置を終えた創を閉じようとして手を留める。皮膚表面を凝視するようにして滝岡が手を留めてカテーテルを要求するのに、光が頷いて予防処置として用意していた薬液を注入する為のカテーテルを滝岡に渡す。
永瀬が眉を寄せる。
「おわるな」
「…―――」
永瀬の言葉に瀬川が無言で視線を向ける。点滴の準備を永瀬の指示で追加していた瀬川に、永瀬が軽く肩を竦めて隣になる手術室を振り仰いでいた。
手術の経過時間を報せる時計が、内部の様子を見ることができるモニタの上にデジタルで大きく時間を表示している。
二時間四十五分三十二秒。
手術時間を告げる時計はそこでいま止まっていた。
「さあてと、おれの出番かー」
軽く機器にぽん、と手を置いて。
永瀬が伸びをして、術後管理の為に処置室を離れる。
鷹城の術後管理をする為に、集中管理室専門医師である永瀬が、処置室を出る。
瀬川は永瀬指示で術後管理の処置を行う為に必要なバイタルの数値を確認して、セットした点滴から薬剤の落ちる速度を再度確認する。
病院の壁に背を凭れさせて長椅子に座り、目を閉じて関は動かずにいた。
その脇には、巻き手にハンカチを結びつけたままの鉄の棒が置かれている。
「何があったのか、聞かせてもらえますか?」
その前に立つ橿原に、関が目を閉じたままで答える。
「俺が、…声を掛けてれば」
「関さん」
「鷹城を見かけたといいましたよね?でも、声は掛けなかった、…。声を掛けてれば、もしかしたらこんな風に、」
「君がそう思うだけの根拠が何かあったのですか?関さん」
「…わかりません。…橿原さん、」
そうして、目を開けて関が橿原を見あげて、どこか泣きそうな頼りなく拠るべを失くしたような眸で見あげる。
「全然普通に見えたんですよ。…だから、けど、」
「それでも、君は何かがおかしいと思った。だから、警察に戻った後も、こちらに鷹城君がいないということに疑問を持ち、僕を探した。携帯にも掛けてみたのでしょう?」
「…何しろ山奥だから、電波が届かないのかもと思ったんですが」
言葉を切り眉を寄せて、俯く関に橿原がその前で、しずかに話しかける。
「君がそうして僕に声を掛けてくれたから、そうして、あの場所まで探しに行ったから、鷹城君を救出できたのです。そうでなければ、彼は溺れて死んでいたでしょう」
「…犯人は、殺すつもりだったんですか?鷹城を?」
衝撃を受けたように顔をあげていう関に、橿原が答える。
「いえ、それはまだわかりません。あの小屋に監禁し、それからどうするつもりだったのかは。ダムの放流まで計算していたかどうかはわかりません」
「…―――」
関が無言で目を閉じ、俯いて額を押さえる。
「関さん」
「それは、恐らく鷹城の血です。鍵を叩き壊すのに使っちまいましたが、」
「指紋がついていても、消えてしまったかもしれませんね」
脇に転がされた鉄の棒をみて橿原がいう。
「…――――」
頭を抱え、俯いてきつく目を閉じている関の傍らに、橿原が座る。
「鷹城君の容態が変われば、教えてくれるそうです」
「……―――」
関がくちびるを咬み、髪を握る手に力を込める。
壁に背をつけ、綺麗な姿勢で目を閉じた橿原を隣に、関もまたそうして動くのを忘れたようにして、唯音のしない病院の廊下に無言でいた。
「西さん、何かでましたか?」
「橿原さん、昨夜の放水で随分流されてしまってますね。しかし、ここを見てください」
「…錠前のへこんだ部分ですか」
午前のまだ早い時間の日射しの中で鑑識が作業する中を、草に埋もれた坂を下って見えてくる河川沿いに建てられた小屋に下りて来た橿原が作業中の西に話し掛け、その示す部分に視線を凝らした。
「あなたと関刑事で相当強く叩いて壊されたんですね。それで歪んだ部分もありますが、これはもともと相当ゆるくなっていたようです。それにもともと、この鎖と錠前はこの小屋に付けられていたものではありませんね。本来の鍵はそれで、壊れてしまっているのを無用心だから誰かが追加でつけたという処でしょう。随分前の仕事のようですが、この扉に鎖と錠前をつけてるのは素人仕事ですね。子供とかが開けて中に入らないようにという程度のものでしょう」
作業する手を止めて、西が示す壊れた錠前と鎖を橿原が感情の伺えない眸でみる。
青空の下に、川原を流れる水音は、昨夜の轟々と響くさまとは似ても似つかない。何処かに、遠く響く鳥の声がして、橿原が空を仰いで、何を想うか読めない眸で続く青空と白い筋雲に、緑の連なる山々を眺める。
作業を続けながら、西が説明する。
「小屋自体は随分前に保管庫としては使われなくなっていたようですからね。確認してみましたが、堆積された砂などによって、河川の流量や方向が変化した結果、保管庫として適さなくなって随分前に保管庫としては廃止されています。尤も、地元の人達はここに元保管庫があることは知っていたようですが」
橿原が淡々とした視線を西に戻す。それに、採取した砂を袋に入れながら、西が続ける。
「いずれにしても放水があれば水底に沈むことも、こうした処の地元の方なら知ってるでしょう。特にこうした上流の急な箇所では河川の突然の増水は恐いですから。もっと下流で、放水の危険を知らずに遊びにきていた観光客なんかがダム放水で事故に遭うなんてことがあったようですが、地元の方なら無論危険は知ってたと思いますよ」
西が背を伸ばすのに、橿原がしずかに云う。
「――…そうですね。そして、地元の方ならば天候やダムの放水が何時頃行われるかについても、よく解っていたかもしれません」
採取した証拠品を仕舞い、周囲を確かめるように見廻して西が苦い顔でいう。
「何にしても証拠が殆ど流されてしまっているのは痛いですね。関刑事が持ち帰った例の鉄でできた棒以外は、犯人の足跡も何もかも流されてしまってますから」
西が周囲の鑑識に声を掛けるのを見ながら、橿原が淡々と問う。
「その鉄の棒についていた血痕は、鷹城君のものだったのですね?」
「はい、簡易検査で血液型が同じと出ましたので、ほぼ間違いないかと。勿論詳細な分析は後程出しますが、…指紋はやはり採れませんでした。ハンカチで保護してはいましたが、使ってしまってたのはおしいですね。まあ、こんなところでは他に適当な道具もすぐには見つからないでしょうから、仕方ないかとは思いますが」
いいながら小屋の扉に向き直り、別の鑑識部員から受取った道具で、痕跡を採取しようとしていた西が橿原を見あげていう。
「処で、関刑事はいまどうしてるんですか?」
「上司に報告しているはずです。彼は第一発見者にもなるわけですから」
「…そうですか、…鷹城さんはそれで」
「まだ意識は戻りません。ICUからは移りましたが」
「そうですか。…橿原さん、何か発見したらお知らせしますから」
「よろしくお願いします」
一礼し、草の生えた急な坂を登っていく橿原を見送って。その背に僅かに溜息を吐いて、西は作業に戻っていた。




