旨い焼き肉
丸山は、稲本と共にある焼き肉店の取材に訪れていた。
ランチ営業はやっておらず、十七時から開店するということで、その前に店へと訪れ、他に客の居ない店内で、自慢のメニューを待つ。
ちらと店内を見回した丸山は、何処か納得のいかない気持ちで稲本に視線を向けた。
「……予約を取るのも難しい人気店、ですよね」
「そうだよ。こうして取材を取り付けるのも苦労したんだから」
稲本はふぅと息を吐きながら、おしぼりで顔を拭いた。
予約を取るのが難しい人気店──その割には、何処か店内が浮ついているようなそんな気がしていた。
勿論、店内が不潔だとかそういうことはない。それどころか、何処か整い過ぎているような気さえする。何処もかしこもピカピカで、程よい調度品が並べられ、開店前だというのに取材の為に店内には気の利いた音楽まで流れていた。
「何が気になるんだよ」
稲本は、おしぼりを机の上に戻すと、丸山の視線を辿るようにして店内を見回した。
「なんというか、出来すぎ……というか」
「出来すぎ? そりゃ店主の拘りってものだろう。この後の取材でそういうのを根掘り葉掘り聞くのが俺達の仕事だ」
そう言い終えると、稲本は机の上の調味料などを見回し、弄り始めた。
「まぁ、そうなんですけど」
丸山はそう返し、机の真ん中に設置された焼き網に目を落とした。
丸山と稲本が案内されたのは半個室となった一角だった。同じような半個室が店内を囲うように設えてあり、中央にはカウンター席が並んでいる。
見た目はそう問題がある訳でもないが、丸山は何処かしっくり来ていない心地がしていた。
──胸騒ぎというか、なんというか。
しかし、そうは思っても、どうしようもない。素よりこれは仕事なのだ。嫌だと思ってもこなさなければならない。
「お待たせしました。まずはスープとキムチをお持ちしました」
その時、小柄な丸っこい女の店員が盆に小皿を乗せてやってくると、恭しく机に置いた。「ささ、どうぞ」とにこやかに二人に促す。
丸山と稲本は促されるままにそれを口に運び、同時に「美味い」と声を上げていた。
店員は「そうでしょう」と嬉しそうに言うと、再び奥に引っ込んでいった。
「このスープ……なんですか、これ。牛……牛ですよね、これ?」
「わ、わからん。なんだこれ、初めて食べたぞ。まだ本命にも辿り着いてないのに、スープの時点でこれか? キムチは──」
興奮に震える手で持った箸でキムチを掴んだ稲本は、それを口に含んだ瞬間に目を見開いた。
まるで漫画のような反応に思わず笑いそうになったが、続いてキムチを口に入れた丸山も似たような反応をしていた。
「……キムチも美味い……。なんですかこれ、妙に深いコクがあって、これだけでいくらでもいけそうです」
あっという間にスープとキムチを平らげると、次の皿が運ばれてきた。
「お待ちかねのお肉です。まずはロースをご賞味あれ」
「ロース!」
適度なサシの入った肉が机の上に置かれ、二人はそれに目を釘づけた。
「お焼きしますね」
「は、はい……」
にこやかに笑う店員は、手際よく肉を網に乗せ、様子を見る。
取材をするのに出された条件はただひとつ。まずは自慢のコースをひと通り食すこと。
デザートまで全て食べてから、味に納得してそこで初めて取材を受ける。というのである。
「さぁ、どうぞ」
絶妙な焼き加減で皿に乗せられたそれは、実に美味そうな肉汁を浮かび上がらせていた。
思わず口内に湧いた涎をゴクリと飲むと「塩で」と店員が付け加えた。
それに小さく頷いてから、丸山は期待に胸を膨らませて、恐る恐るともいえる手つきで肉を口に運んだ。
瞬間、思わず稲本と目を合わせ、互いに肉のうま味を味わいながら、何度も頷き合う。
「美味しいでしょう。そうでしょう、そうでしょう」
店員は、目を細めて嬉しそうに言う。
そうして、興奮に最早喋れなくなった二人に、次々に新しい皿を運んでくると、焼いていった。美味いのは勿論焼いた肉だけではなかった。肉刺しや、一品料理すら気が利いていてどれも美味く、二人はいちいち興奮に頷き合った。
「どうです、楽しんで頂けてますか」
口直しが運ばれて来て、それを神妙な気持ちで食していた二人の前に、店主が現れた。
稲本が、満面の笑みを浮かべ店主を見上げた。
「それは勿論。いやぁ、流石人気店……いや、それ以上ですね。本当なら取材なんかせずに、こっそり僕だけが通いたいくらいです」
稲本が言うと、店主は声を立てて笑った。
「そう言って頂けて嬉しいです。なんてたって、拘りに拘っていますからね」
店主はちらと丸山に視線を移し、小首を傾げた。
「そちらの……えーと、丸山さん、は如何ですか?」
その問いに、丸山は唇をペロリと舐めてから頷いた。口の周りに美味い油がこびりついていて、いくら舐めても肉の余韻を味わうことが出来る。
「もう、まるで夢のようです。こんなに美味い肉が味わえる焼き肉店がこの世に存在しているとは。近くにあったら、毎日でも通いたかった。いえ、この山の中でも十分に通う価値があるお店です。何故、このような場所に店を構えることにしたんですか?」
その問いに、店主は困ったように眉を下げ、それから不敵に笑った。
「取材は、デザートまで全て食べ終えてから。そういう約束でしょう?」
「すみません、つい……」
丸山が頭を下げると、稲本の鋭い視線が突き刺さる。店主はにっこりと微笑んでから「それじゃあ、お待ちかねのメインをお持ちしますね」と店の奥に姿を消した。
「お前、どうすんだ、店主の機嫌を損ねたら。取材中止どころか、出禁になったらどうする」
稲本は、すっかり心奪われ、殆ど仕事だということを忘れているようだった。
──まぁ、確かに、判らないでもない。それ程に美味いんだから。
そこでふと、丸山は店の入り口に目を向けた。
ぼんやりと硝子越しに伝わってくる陽の光は、此処が山の中だということを再認識させる。
──なんだって、こんな所に。隠れ家的といっても限度が……。
肉の余韻で痺れた頭に、ふと疑問が沸き起こる。
山の中──何故、そんな所に居るのだろう。どうやって、此処まで訪れたのか。
「お待たせしました」
その時、店主が大皿を手に戻ってくると、それを机の上に置いて、満面の笑みを浮かべて二人の顔を交互に見た。
そこには、すだれ敷きで色とりどりの花が飾られた中央に、綺麗に肉が並べられていた。
「わぁ……」
声を上げた稲本は、口の端から垂れた涎を慌てて拭う。
「さぁ、最高の状態でお出ししますよ。ご覧あれ」
店主は、ニコニコと微笑みながら、肉を取り上げ恭しく網へと乗せる。その横に控えた女の店員が嬉しそうに笑みを浮かべながら小さく手拍子をしている。
──何だ、なんなんだ。
丸山は、漂ってくる旨そうな匂いに、音に、意識を引かれながら、それでもそれに抗うようにして考えた。
──何かが、変だ。
ジュウジュウ……。
──何かが、旨そう……いや、変だ。この店は。
ジュウジュウ……。
──この肉は、こんなに美味い肉は、食べたことがない。
ジュウジュウ……。
──この世の物とは思えない程、旨い肉。
「さぁ、焼けましたよ」
その声に、ハッと顔を上げる。
店主がニィと笑みを浮かべる。
皿に乗せられた肉は、美味そうな匂いを漂わせている。
ゴクリ、と喉が鳴る。
「当店自慢のタレでご賞味下さい」
その声に誘われるままに、箸で挟んだ肉をタレに浸ける。
そのタレも、今までに食べたことのないとそう思う程に、甘みと酸味と旨味とあらゆる衝撃が舌に伝わり、全身を痺れさせるものだった。
──これを食べたら、本当に、死んでしまうかもしれない。
そう思う程に、魅力的で、旨い肉。
丸山は、そこで自分の口から涎が溢れているのに気が付いた。慌ててそれを拭ったが、見れば目の前に座る稲本の口からも、おびただしい涎が垂れていた。
稲本はそれを気にも留めず、肉を口の中に入れると、最早焦点の定まらぬ目であらぬ所を見つめながら、荒い鼻息を漏らした。
「美味い……うまい……こんなの、初めてだ……うまいうまい」
店主は嬉しそうに笑い、次の肉を稲本の皿へと運ぶ。
その顔が、グググと歪み、全てのパーツがまるで三日月のような形に変容した。
丸山は、それに魅入られたように見つめ、涎を垂らしたまま肉を挟んだ箸を掲げ持っていた。
店主が、クッと首を曲げる。
「おや、どうされました」
その言葉に、ゆっくりと肉へと視線を落とした丸山は、思わず箸を取り落とした。
「ご、ごめんなさい」
丸山が言うと、手拍子していた店員が、床に落ちた肉を拾い上げた。ガタリ、と音を立てて稲本が机に乗り出す。
「くれ! それをくれ!」
「おやおや」
店主が可笑しそうにクックッと笑う。
──なんだ、なにかが、へんだ。
店員が笑いながら、拾い上げた肉を稲本の口へと運んでいく。
「そ、それは──」
丸山が言うと、店主が再びクッと首を曲げ、三日月のような目で丸山を見て、三日月のような口を更に歪める。
「これは、肉。とても、旨い肉。極上の肉、ですよ」
──ちがう。それは、それは……。
丸山は、痺れたような頭で必死に考えた。そうしないと、どうしても肉の誘惑に負けてしまう。
──駄目だ。これは、駄目だ。これは、これは……。
丸山は、確かに見た。
箸に挟んだ、極上の肉。それは、とてもそうとは思えない代物だった。
確かに、実に美味そうな匂いを漂わせていたその肉は、あの瞬間、泥で汚れた薄気味悪い物体に見えた。小さな白いものがその上で蠢き、遅れて酷い臭いが鼻をついた。
──そもそも、此処は何処だ。なんという店なんだ。思い出せない。確か、車で……。
「おや、もう気が付いている。デザートがまだだというのに」
冷たい声が言った。
丸山は、俯いていた顔を恐る恐る上げた。
すぐ、目の前に──店主の顔があった。
三日月のような目と、口。口の中には、鋭い牙が並んでいる。
「まぁ、いいか。十分に楽しんだ。──ほれ」
店主が言うと、女の店員はひときわ高く手を鳴らした。
──パンッ。
丸山は、ハッとして目を見開いた。
辺り一面樹々に囲まれている場所に寝転んでいた。
薄暗くなり始めた空を見上げ──突然襲われた不快感に、咳き込もうとしてえずくと、口の中から泥やら何やらが次々に溢れ出した。
「おえぇえ……なんじゃこりゃ」
隣に倒れ込んでいた稲本が、口の中のものを吐き、そうして更に胃の中のものを吐き出した。
それは、泥にまみれた木の実や、よく判らないひしゃげた物体だった。その中で、蠢く影がある。
稲本が声を上げた。
「おえっ、これ、これ……虫だ!」
見れば、吐瀉物の中に幾つもの虫が蠢いている。
丸山はその光景に釣られるようにして、胃の中のものを吐き出した。
酸っぱい味が広がり、それを覆い隠すように厭な酷い臭いが広がっていく。思わず体が震えた。
「これ、これ……この臭い……」
えずきながら言おうとすると、突然辺り一帯に嗤い声が響き渡った。
ゲラゲラゲラゲラ。
それは聞き覚えのある声だった。
そう、つい先程まで聞いていた店主の声だ。
ゲラゲラゲラゲラ。
その声は心底可笑しそうに嗤い続ける。
その時、唐突に丸山は思い出した。
この山を訪れた理由。それは、ただ出張の帰りに通りかかっただけ。ただ、それだけだ。
取材でも何でもない。
山を越えた先の取引先に挨拶回りに行っただけ。
「腹減ったなぁ。どっかに店でもないかな」
稲本の声が蘇る。
そもそも、丸山と稲本は、記者でもライターでもないのだ。
わぁああ! と叫んで、二人は道なき道を駆け出した。
ゲラゲラゲラゲラ。
一層大きな嗤い声が響き渡るその中に、嬉しそうな手拍子が混じっている。
その声は、いつまでも二人を追ってくるかと思ったが、必死に辿り着いた車に乗り込み、やっとの思いで町に着いた頃には、止んでいた。
二人は暫くの間寝込み、食事をするにも苦労したという。




