第九十五話 懸け亭の夜話・百地の局
夜の気配が山を覆うころ、風向きが変わった。
谷底から吹き上げる風は湿り気を帯び、稜線の向こうから吹き下ろす風には、冷えた木の匂いが混じっている。
森鋼蔵は、細い山道をたどって彼らを上へと導いた。
ほどなくして、視界がぱっと開ける。
小さな亭がひとつ、まるで山腹に吊るされたように突き出ている。
亭の下は霧だ。霧の奥には、ぼんやりと樹々と岩の影が見えるだけ。亭の脇に、綱のように細い道が一本、かろうじて繋がっている。
亭の中には、男が一人座っていた。
衣はごく普通の木綿、腰にはこれまたごくありふれた短刀が一本。
ただ、あまりにも静かに座っている。静かすぎて、まるで山そのものが、その男の呼吸に合わせて膨らんだり縮んだりしているようだった。そんな静けさがなければ、茶屋の手練れの主くらいにしか見えなかったかもしれない。
「百地三太夫」森鋼蔵は歩みを止め、頭を垂れた。「お連れしました」
百地三太夫は、静かに目を上げた。
その眼は、甲賀の多羅尾のような「山の民の鋭さ」とも、武家の主君が地図を睨み続けて鍛えた「冷たさ」とも違う。
生き死にの場を見飽きた者の目だった。何度も何度も読み返した本を、また一度、めくっているような目。
「澄原龍立」彼は小さくこの名をなぞる。「尾張から来て、美濃を見て、近江も見た男」
柳澈涵は深く一礼した。「百地殿」
「座れ」百地は手を軽く動かした。
亭には低い卓が一つ。
卓上には湯気の抜けた茶壺と、茶碗が二つ。
余った一つは、客のための杯だ。
「玄理の心鏡の間を、きれいに壊してきたそうだな」百地は茶を注ぎながら口にした。「あいつ自身、自分が出口を作り忘れたんじゃないかと疑い出したくらいに」
「あの部屋は、よく出来ていた」柳澈涵は言った。「ただ、他人の心で作り込み過ぎていて、自分の分が足りなかった」
「ほう?」百地は興味を示したように目を細める。
「あいつは、人の恐れや、心残りを片っ端から掘り起こして、一つの部屋に積み上げていた」柳澈涵は淡々と続ける。「なのに、自分が何を恐れているかは、問おうとしない」
百地は、少し沈黙した。
「では、お前にはどう見える」
「役に立たなくなるのを怖がっている」柳澈涵は言った。
横にいる森鋼蔵は、僅かに眉を上げた。
百地はゆっくりと茶碗を置いた。
「人を見る目が、だいぶえぐいな」彼は言う。「俺たちでさえ、その先を考えたくなくて目を逸らすところまで、わざわざ突き刺してくる」
「見抜くことは、そう難しくない」柳澈涵は言った。「難しいのは、見抜いた後、その責任を引き受けるかどうかだ」
亭の外では、霧がゆっくりうねっている。
谷底から吹き上がる冷たい風は、亭の下で構造に遮られ、逆に、冷たすぎず温すぎない一つの輪のような気流を作っていた。
百地は、目の前の若者を見つめる。
「我ら伊賀が外でどう言われているか、知っているか」
「少しは」柳澈涵は答えた。「影だの、鬼だの、死なない連中だのと言われている。人の心を刀にする者たちだ、とも」
「その通りだ」百地は否定しない。「我々は、人の心の『越えられぬところ』を掬い上げ、使える形にこねる。それを俺たちは『残形』と呼んでいる」
彼は亭の縁の霧を指さした。
「ある者は高所を恐れ、ある者は闇を怖がる。ある者は忘れられることを恐れ、ある者は逆に、記憶されることを恐れる。我々は、その恐れを一つの影にまとめ、本人の見えるところ、あるいは見えぬところに置く。多くの者は、自分からそこへ突っ込んでいく」
弥助は、頭皮がぞわりとした。
「その残形を、忍びの業に使うのですか」柳澈涵が問う。
「陣を敷くときに使う」百地は答える。「一軍が戦場へ歩み出れば、一人一人の胸に、それぞれ違う残形がうずく。我々は、その一点を軽く撫でてやるだけでいい。軍心は自ずと乱れる」
「たとえば、大将がいちばん恐れているのが『裏切り』だとしよう。我々は、その目の前に『ありそうでなさそうな出来事』を一つ置く──半分だけ真実の書状、半分だけ本当の噂話。すると、やつは疑い始める。疑いが積もれば積もるほど、出す命令は一拍ずつ遅れていく」
「命令が一拍遅れれば、敵の刀は一拍速くなる」
亭の隅には小さな鈴が掛かっていた。風が吹いても鳴りはしない。ただ、かすかに震えるだけだ。
「では、お前はどうだ」百地がふいに聞いた。
「俺ですか」柳澈涵は笑みを浮かべた。「もちろん、俺にも残形はある」
「例えば」
「例えば、俺は、自分がまだ何かできるのに、面倒くささや臆病さに負けて見て見ぬふりをしてしまう──それが、何より嫌だ」
百地の目に、微妙な色が走る。
「なるほどな」
「だから、お前は道々、他人の鍋の中身まで、自分の心の中にすくってしまう」
柳澈涵は否定しなかった。
「だがな」百地は話題を変えるように言った。「さっき玄理の部屋でお前がやったことは、少しうちの術に似ている」
「どこがです」
「お前は、あの子の恐怖を完全には追い払わなかった」百地は、ちらりと弥助を見る。「ただ、あの子自身に立たせて、『自分はここにいる』『お前もここにいる』と、言わせただけだ」
「お前は、あの子の心の中の影を、お前自身から引きはがして、本人のところへ戻しただけだ」
「これから先、いつかあの子が道を見誤って足を踏み外したとしても、それはあの子自身の足だ。お前が負うのは、灯りを少し明るくしてやるところまで」
柳澈涵は、しばし黙った。
「分かりやすいですね」
百地はふっと笑う。
「だから、俺はお前に興味がある」
彼は袖の中から、小さな木札を一枚取り出し、卓の上に置いた。
札は小さく、そこには簡素な紋が彫られている──縮こまった人影のようでもあり、一つの眼のようでもある。
「伊賀の印だ」百地は言う。「これを持って、山中のいくつかの場所で火を上げろ。こちらに伝わる」
「何を貸せと」柳澈涵が問う。
「道だ」百地は答える。「我々は影を見る。お前は構造を見る。これから、この一帯の山河はさらに乱れる。お前が深く踏み込めば踏み込むほど、お前を殺したい奴も増える。我々としては、初日からお前と敵味方には分かれたくない」
「だから」彼は折り畳まれた紙を一枚、さらに差し出した。「これが、俺たちがここ数年で見てきた道だ――三好と伊賀の間、三好と比叡山の間、比叡山と京の間。表向きの道と、表に出ない道」
紙を広げると、線は決して密ではないが、要となる山越え、渡し、細い道が、くっきりと印されている。
「俺がこの図を持っていて、いつかそれを使って、お前を殺しに来るかもしれないとは思いませんか」柳澈涵が聞く。
「思う」百地はあっさり認める。「だがそれ以上に怖いのは、お前がいずれ俺たちの敵側に立つ時、この図を持っていないことだ」
弥助には、半分も理解できない。ただ、亭の中の風が少し重くなったような気がした。
「お前のような人間はな」百地はゆっくりと言う。「そのうち、天下中の山に覚えられる」
「覚えられるかどうかは知らない」柳澈涵は言った。「俺が気にするのは、自分が見るべきものを見落としていないかどうかだけだ」
百地は彼を見て、ふと笑った。
「他人の残形になるのが怖くはないか」
柳澈涵は少し考える。
「怖がっても仕方がない」彼は言った。「いずれ誰かが俺を使って他人を脅かすなら、その前に、俺自身が自分をちゃんと知っておいた方がいい」
その言葉に、さしもの百地も一瞬、言葉を失う。
亭の外から吹き込む風が卓上の灯を揺らした。だが火は消えなかった。
「明日だ」百地は立ち上がる。「森鋼蔵に、ある谷へ案内させる。そこは、最近三好の連中が探りに来た道筋だ。あそこで、お前の『構造を見る刀』がどれほどのものか、試してみるといい」
「ついでに」彼は付け足した。「本物の殺し場で、お前が今と同じように立っていられるかどうかもな」




