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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第九十四話 心鏡の間・影に己を見る

 伊賀の本拠は、山の頂ではなく、稜線が内側へ折れ曲がった窪地にあった。


 四方を木々に囲まれ、木々の下に道があり、道の中ほどには霧がたなびく。


 奥へ進むにつれ、弥助は東西南北の感覚を徐々に失っていった。


「先生、ここ、誰にも案内されなかったら、絶対出られませんよ」


「出られる場所が、必ずしも『人の通る道』とは限らない」柳澈涵は言った。「影のための道というのもある」


 森鋼蔵が前で足を止め、いかにも何の変哲もない土の斜面を指さした。


「着いた」


 土の斜面の向こうには、半ば土に埋もれた低い小屋が並んでいる。外から見れば、ただの蔵とほとんど変わらない。


 森鋼蔵は、その一つの戸を押し開けた。


 中は水のような暗さだった。


 灯りを消した暗さではない。空気そのものが湿り気を帯びているような闇だ。


「心鏡の間だ」森鋼蔵が言う。「伊賀が人の心を見極める場所」


「心鏡?」柳澈涵は眉をわずかに上げる。「外ではなく、中だけを映す鏡か」


「鏡が何を映すかは、覗く側が決めるものさ」


 戸の奥から、少しかすれた声がした。


 影から痩せた長身の男が現れた。薄い着物を肩に掛け、足には何も履かず、指先には埃がついている。


 眼窩はやや落ちくぼんでいるが、瞳は異様に鋭く光っていた。


「伊賀・木戸玄理」彼は軽く身をかがめた。「心鏡の術を預かっている」


「玄理殿」森鋼蔵が頷く。「連れて来た」


 玄理はしばし柳澈涵を眺め、その目の奥を一瞬だけ覗き込んだ。


「入ってくれ」


 そう言うと、闇の中へと身を引いた。


 弥助は唾を飲み込む。


「先生……」


「入るぞ」柳澈涵は彼の肩を軽く叩いた。「暗いのが怖かったら、ちゃんとついて来い」


 戸が閉まった瞬間、光は誰かに背中から引き抜かれたように消えた。


 眼前には、完全な闇が広がる。


 弥助には、自分の呼吸の音が聞こえた。乱れていて、速い。


 それから、足元で板がかすかに軋む細かな音。


「動くな」柳澈涵が低く囁いた。


 彼は暗闇の中で手を伸ばし、弥助の肩に掌を置いた。もう一方の手で、前方をゆっくり探る。


 指先が一本の綱に触れた。指でなぞるようにたどっていく。ところどころに不揃いな結び目があるが、確かに一本の「線」になっていた。


「綱で道を引いている」柳澈涵は心の中で一つ印を付ける。


 不意に、どこからともなく極細い光が差し込み、室内のどこかを貫いた。


 照らされているのは彼らではなく、反対側の壁の一角だ。


 そこに、影が揺れた。


 人の影だ。


 白い衣、大きさも背中の線も、見覚えのある形。


 弥助の体がびくりと強張る。


 清洲城の中で見慣れた、あの人の後ろ姿に酷似していた。


 次の瞬間、別の方向から足音が聞こえてくる。


 忍びのように軽い足取りではない。甲冑をまとった者特有の、重い歩み。


 カツ、カツ、カツ。


 一歩ごとに、胸の内を踏みつけられるようだ。


「清洲」


 暗闇の中で、誰かがくすりと笑った。「雪の夜、城の下、旗がいくつも、あふれるほどの人」


 弥助の喉はひどく渇いた。


 自分が、またあの雪原の中に立たされているように感じた。火に照らされてはためく大旗を見上げていた、あの夜と同じように。


「沢山集めたな」柳澈涵が口を開き、その絡みつく気配を断ち切る。「足音は本物だ。影も本物。ただ、雪の匂いが違う」


「雪の匂い?」玄理の声が、別の方向から響いた。「何が違うんだ」


「あの夜の風は、城壁の上から吹き下りていた」柳澈涵は淡々と続ける。「血の匂いと脂蝋の匂いが少し、そして何より、旗が燃える焦げた匂いだ。ここには、その匂いがない」


 弥助は一瞬呆然とし、さっきまで自分が風に騙されていたと気づいた。


「なるほど」玄理はくすりと笑ったようだった。「では──これはどうだ」


 別の方向から、突然犬の吠える声が響く。


 すぐ続いて、刃が肉にめり込む鈍い音、誰かが倒れる音。


 弥助の心臓はぎゅっと掴まれたようになった。


 あまりにも似ていた。


 あの二人の浪人が斬り伏せられたときの音。


 あの夜、先生の一刀が落ちたときの、あの一撃の音。


「ここで、あの二人のことを、もう一度悔やむとでも思ったか」柳澈涵が不意に言った。


 闇の中が、しんと静まる。


「お前たちがここでこねているのは、『真相』じゃない」彼の声は静かだ。「お前たちの思い描く『残念』だ。人が昔、考え切らなかったものを一握りかき集めて、目の前に広げて、そこでぐるぐる回るかどうかを見ている」


 玄理は否定しなかった。


「その通りだ」彼は言う。「その者が歩いた道、嗅いだ匂い、耳に刻んだ足音……それらを繋ぎ直して、『心の中で歩き切らなかった道』を呼び起こす。そこで歩き回らせる」


「出られない奴は、隠していた部分を自分で露わにする」


 弥助は背筋が冷えるのを感じた。


「先生……」彼は低く呟いた。「この人たち、怖いです」


「怖いか」柳澈涵が問い返す。


「はい」弥助は正直に頷く。「人の心の、いちばん見たくないところを引っ張り出して見ている」


「それは、多くの人が普段、前ばかり見て走っていて、振り返って自分を見ようとしないからだ」柳澈涵は言う。「だから、他人にちょっと押されただけで、昔のところへ転げ落ちる」


 話しているあいだも、彼の歩調は崩れない。


 弥助には、先生が決して速く歩いてはいないのに、一歩一歩、何かの拍子にぴたりと合っているのが分かった。


「気づいたか」柳澈涵は言う。「ここで鳴らしている音は、全部、お前のいちばん怖いところを突いてくる。俺が死ぬのが怖い。置いて行かれるのが怖い。一人になるのが怖い」


 弥助ははっとした。


「それって……俺の心の中のことですよね」


「そうだ」柳澈涵は率直に認める。「だが、そういう怖さを持っているからといって、お前がそれだけの存在だという意味ではない」


 そこで足を止め、見えない壁を指の関節で軽く叩いた。


「この部屋は、お前のいちばん怖い隅を拡大し、残りを全部塗りつぶしている」


「だが、お前はここまでの道のりを、自分の足で歩いてきた。怖がってばかりじゃなかった。途中で面白いと思ったこともあった」


「お前は薬箱を背負って、疲れたと言い、腹が減ったと文句も言う。そういう人間だ。暗い部屋で震えている影だけじゃない」


 弥助の胸に固まっていた恐怖が、その言葉に少しずつ亀裂を入れられていく。


 闇はそのまま残っている。だが彼は、ふいに思い出した。


 先生が前に立っていて、手を自分の肩に置いていることを。


「先生……」彼は息を吸い込んだ。「俺、ここにいます」


「そうだ」


「先生も、ここにいます」


「いる」


 その瞬間、心の中の一本の紐が、そっと動いた。


 誰かに引かれている端から、自分の手の中へと。


 部屋の奥で、ごく小さな溜息の音がした。


「玄理殿」柳澈涵は、その溜息の方角に向かって声を投げる。「この『心鏡の間』の使い方は、少し偏っている。心の欠片を増幅することばかりで、人に出口を残すのを忘れている」


「出口を残せ、と?」玄理の声は、今度は近くから聞こえた。


「自分から振り返ろうとしたときに、鏡は役に立つ」柳澈涵は言う。「後ろからお囃子立てても、せいぜい何人か気が触れるだけだ」


 天井のどこかで板が軽く外され、本物の天光が一筋、差し込んだ。


 隙間から漏れる偽物の光ではない。外の白昼そのものの光だった。


 弥助は何度も瞬きをしてから、ようやく目の前の光景を見分けた。


 この「心鏡の間」は、思っていたよりずっと狭い。


 さっきまで四方から響いていた足音は、薄い板を使って反響させたものだった。犬の鳴き声も、刃が肉を貫く音も、位置を変えた太鼓や木を斬る音にすぎない。


 玄理は一枚の板の陰に立ち、手には細い竹の棒を持っていた。


 先端には一枚の紙が結びつけられ、そこにはいくつかの道と影が、簡単な線で描かれている。


「お前も、走っているんだな」柳澈涵は笑った。「ただ、走る場所が他人の心の中なだけで」


 玄理はしばし黙った。


「お前の言う通りだ」やがて、彼は言った。「出口を用意するのを忘れていた」


 彼は弥助の方を向く。


「さっき、何がいちばん怖かった」


「先生がいなくなることです」弥助は正直に答えた。


「さっき、自分で一歩踏み出したか」


 弥助は考えてから頷いた。


「はい。自分で、『俺はここにいる』って言いました」


 玄理の口元がわずかに動く。


「そうか」


 戸の外から光が一気に入り込み、心鏡の間の本当の姿が露わになった。


 森鋼蔵は戸口の柱にもたれ、どこか面白そうに眺めている。


「心を見る部屋が、心を見られる側に壊されたわけだ」彼は首を振った。「百地殿に、一度自分で来てもらわないとな」

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