第九十三話 無人の村・影の初試し
伊賀山を渡る風は、甲賀よりも細い。
顔に叩きつけてくる刃のような風ではなく、葉の裏側から少しずつ襟元へ忍び込んでくる冷たさだった。
午後、山霧はまだ山腹にかかっていた。遠くの稜線は、雲を刃物で一筋削ったようにくっきりと浮かび、その向こうに濃墨色の線を覗かせている。
柳澈涵は竹杖を提げ、ほとんど道とも分からぬ山道を奥へと進んでいた。弥助は木箱を背負ってその後ろに続き、草鞋の裏にはいつの間にか湿った泥が厚くこびりついている。
「先生、本当にこの先に村があるんですか」
「ある」柳澈涵は断言した。
「どうして分かるんです」
「さっきの分かれ道の石だよ」柳澈涵は淡々と言う。「何度も動かされていた。車を押す者、薪を担ぐ者だけが、あそこまで手間をかけて石をどける。忍びの足だけじゃ、ああいう跡はつかない」
弥助は振り返ってみたが、もう分かれ道など影も形もない。ただ諦めて前へ進むしかなかった。
ひとつ山のくぼみを回り込むと、前方がふいに開けた。
小さな村がひっそりと谷の底にうずくまっている。
屋根には分厚い茅が載せられ、低いがしっかりした垣、庭には物干し綱、薪の山、豚小屋、鶏小屋。
ただ──人影がひとつも見えない。
「もしかして……皆、死んじゃったとか」弥助は声をひそめた。
柳澈涵はすぐには答えず、村の入口で立ち止まると、鼻先をかすかに動かした。
「煙が残っている」
土塀の内側には、まだ消えきらない鍋煙の匂いがいくつも漂っている。かまどの灰は温かく、井戸の口には雫が並んでいた。つい今しがた誰かが水を汲んだようだ。
物干しの青い布は半乾きで、裾だけが風に揺れている。だが布の端には埃がついていない。
「本当に皆死んだ場所は、匂いが違う」柳澈涵は言った。「ここは、ただ隠れているだけだ」
「隠れてる……? 俺たちからですか」
弥助は身震いし、思わず木箱をぎゅっと握りしめた。目は勝手にあちこちを泳ぐ。
軒下、薪の山の陰、井戸端──どの影にも何かが潜んでいそうだった。
柳澈涵が一歩、前へ踏み出す。
足元で細い紐を踏んだ。
ほとんど聞き取れないほどの小さな音がして、どこかの戸口の蝶番がそっと鳴ったように思えた。
「先生──」弥助が言い終わらぬうちに、前の家の戸板が勢いよく内側へ引かれ、室内で黒い影が揺れ、一串の物が「ガラガラッ」と落ちてきた。
石でも刃でもない。
藁で編んだ人形がいくつも。
手足は異様に長く伸び、目は炭で黒々と塗りつぶされている。半空でひと回り揺れたあと、戸枠にぶつかって、まとめて庭に落ちた。
弥助は驚いて飛び退いた。
人形は地面に叩きつけられ、灰をふっと散らして、静かになった。
「こんなので人を脅かすなんて」弥助は少し腹を立てて言った。「悪趣味ですよ」
だが柳澈涵は笑わなかった。
彼は戸口の梁の高さを見上げ、吊り紐の結び目を一瞥した。
「驚かすのは、ついでだ」
「本当の狙いは、俺たちがどっちへ避けるかを見ること」
足元を指さした。藁人形が落ちた位置が、ちょうど庭を二つに割っている。
片方は戸口側、もう片方は垣根側。
「初めて山へ入ってきた旅人なら、たいてい開けた方へ逃げる」柳澈涵は続ける。「あっちは地面がいちばん踏み固められている」
弥助はそこでようやく気づいた。垣根側の地面は、泥がわずかに光っている。多くの足が踏みしめた跡だ。反対に、戸口の側の小さな空き地は、土の色がまだ新しい。
「奴らは足跡を数えてる」柳澈涵は淡々と言った。「人が多い方へ身を寄せるか、戸板の影へすくむかを見るんだ」
そう言いながら、彼は何でもないように、その「いちばん安全そうな」空き地を大きく迂回して、まっすぐ戸口の前へと歩いた。
戸はわずかに開いていた。柳澈涵は拳で軽くノックする。
「よくできている」声を少し張る。「一度脅かせば度胸のほども分かるし、ついでに、道の選び方も見える。ただな、足跡を同じところに踏ませすぎた。後から来る者には、もうお前たちの癖が見えてしまう」
言い終わるや、庭のどこか、梁のあたりで小さな音がした。
「……道を見る目ってのは、本当に気に食わないな」
軒の端から影がひらりと翻り、庭の向こう側へと着地した。
現れた男は、どこにでもいる農夫と変わらぬ粗布の着物を着ている。だが腰には細い絹帯を締め、裾から覗く脛はきっちりと包帯で固めてある。足元は鹿革の足袋、指先で大地を掴み、着地の音はほとんどしない。
男は笠を取った。三十代半ばほど、鋭いがギラつきすぎない眼をした顔が現れる。
「伊賀・森鋼蔵」彼は名乗った。「甲賀から来た『道を見る者』を、ここで待てとの仰せだ」
「澄原龍立」柳澈涵も一礼する。「少し山の道を見に来ただけだ」
「道、ね」森鋼蔵は小さく笑った。「甲賀は道を見る。伊賀は心を見る。あんたがこの『無人の里』で、正しい場所に立てたなら、ついでにうちの『心の見方』も見ていくといい」
手をひと振りする。
さっきまで「誰もいなかった」村の影が、一斉に動いた。
垣根の陰から人が跳ね起き、井戸端の桶から少年が飛び出し、豚小屋では全身泥だらけの男が体を翻して、鼻に詰めていた藁を引き抜いた。
弥助は口をあんぐりと開けた。
先ほどまで何気なく見過ごしていた足跡や、乱雑に置かれた道具のあらゆる位置が、この瞬間「持ち場」に変わったのだ。
誰もが身を潜めていた場所は、さっき彼の視線がかすめながら、深くは留まらなかったところばかりだった。
「さっき俺たちは、いくつかの可能性に賭けてた」森鋼蔵は柳澈涵を観察しながら言う。「あんたがどっちへ逃げるか、刀を抜くか、走るかどうか。結果、あんたはどれもしなかった。庭の真ん中に立って、喋っていた」
「ここは、誰にも近すぎないからな」柳澈涵は淡々と言う。「遠くへ逃げれば逃げるほど、お前たちの視線に追い立てられる。真ん中に立てば、むしろ手が出しにくい」
森鋼蔵は細めた目をさらに細くした。
「心がどこで怯えるかで、足がどこへ逃げるかが決まる」柳澈涵は、庭の藁人形を見やった。「この仕掛けは、心を見るための陣だ。ただ、鏡代わりに足跡を使っている」
その言い方は、あたかも自分とは無関係なことを説明しているだけのように平板だった。
森鋼蔵は、ふっと笑った。
「多羅尾殿の言葉どおりだな」彼は振り返り、家の中に向かって声を上げる。「こいつは、道を試されるのは怖がらない。ただ、試し方が生ぬるいのは嫌うらしい」
屋の中から、数人が次々と出てきて、庭の空白を埋めた。
もはや誰も、わざと姿を隠そうとはしない。だが全員が「ちょうどいい」距離に立っている──近すぎず緊張させず、遠すぎず声が届かないこともない距離に。
「澄原殿」森鋼蔵は笑みを引っ込める。「さあ、山へどうぞ。この村は、伊賀に入るための敷居に過ぎません」
「敷居の先には、何があるんですか」弥助が堪えきれずに尋ねた。
「道を見る者が、いちばん嫌うものだ」森鋼蔵は言う。「――心を見る部屋だ」
そう言って、彼は踵を返して歩き出した。
柳澈涵は軽く頷き、杖を提げて後を追う。
敷居をまたぎ出たところで、ふと振り返り、さっきまで村人に化けて身を潜めていた忍びたちに、にこりと笑いかけた。
「次に本物の悪人が来たときはな」
「度胸を試す前に、まず腰の刀を見るんだ」
忍びたちは顔を見合わせた。
自分たちが張った陣に、他人からさらりと「書き込み」をされたのは、どうやら初めてらしい。




