第九十二話 影と刀の約・伊賀への道
数日後、雨がやみ、霧もやや薄らいだ。
多羅尾家の庭。
松の枝から、水滴がぽとり、ぽとりと落ちる。
簡素な几帳に、粗い陶器の酒盃が二つ。
多羅尾光俊は、自ら柳澈涵に酒を注いだ。
「甲賀は、めったに酒を供さぬ。」
彼は言う。
「だが今日の一杯は、『道を見る刀』への礼だ。」
柳澈涵は盃を持ち上げ、軽く盃口を合わせた。
「多羅尾殿には、もったいない評だ。」
「お主は忍ではない。」多羅尾光俊は、まっすぐ彼を見る。
「だが、多くの忍より夜道を知っている。」
「甲賀の者ではないが、この山に、ほんの少し長く息を続かせてくれた。」
彼は袖から、小さく折り畳まれた紙を取り出した。
そこには、短い文がいくつか。
誓紙ではない。
どちらかと言えば備忘録に近い。
「甲賀は、誓いは立てぬ。」多羅尾光俊は言う。
「立てるのは約束だけだ。これは、我と澄原殿とのあいだの『影の約』だ。」
「一つ。甲賀は、お主の尾張での本名を、外に漏らさない。」
「二つ。今後いかなる戦に巻き込まれようと、甲賀は『昨日の友、今日の敵、明日の客』である自由を保つ。」
「三つ。いつの日かお主がどこかの旗の下に立つことがあれば、甲賀は、その旗が山に道を残すかどうかだけを見る。旗に記された名は見ない。」
「それは、俺を友として扱う、ということだな。」柳澈涵は笑う。
「家臣なら、一紙で召し、一紙で捨てる。」多羅尾光俊は首を振った。
「だが友は、去るとき、少なくとも一度は振り返る。」
弥助がそっと覗き込む。
「先生、何て書くんです?」
柳澈涵は筆を取り、四文字だけ記した。
「澄原龍立」
「これで……ばれたりしない?」弥助は思わず聞く。
「影というものは、もともと本名ではない。」柳澈涵は静かに言う。
「甲賀が見るのは、この行の文字ではなく、この刀だ。」
筆を置き、多羅尾光俊の方を向く。
「一つ、俺からも聞きたい。」
「聞こう。」
「甲賀は道を見る。」
彼は言う。
「では、伊賀は何を見る?」
多羅尾光俊は、一瞬目を見開き、それからおかしそうに笑った。
「やはり清洲の風は、甲賀だけを撫でて通り過ぎたわけではないようだ。」
霧口弥一が横から口を挟む。
「伊賀は人を見る。」
「甲賀は、山の道だけを見る。誰に売れば長く生き延びられるか。」
「伊賀は、人の心を見る。誰が最後まで生き残りそうか。」
「清洲の夜、見ていたのは我ら三家だけではない。」早見新十郎が一言添える。
「伊賀の連中も、あの夜の風を、どこかで聞いていた。」
多羅尾光俊はうなずいた。
「お主が清洲で我ら三人を手痛く打ち負かし、小谷、六角、甲賀のあいだを一巡りした。」
「その名は、忍びの間で、いずれ広まる。」
「伊賀の古い知己たちが、すでにお主に『興味津々』だ。」
弥助は、思わず息を呑んだ。
「じゃあ俺たち、どこに行っても、誰かが刀を持って待ってるってことじゃ……。」
「その刀が、全部お前を斬りに来るとは限らない。」柳澈涵は笑う。
「自分の術が、『澄心の道』の前でどこまで通用するか、確かめに来る刀もある。」
多羅尾光俊は盃を置き、真顔になった。
「引き留めはせぬ。」と彼は言う。
「お主がここに長居すればするほど、我らはお主の局に巻き込まれる。」
「甲賀が生きるには、いかなる旗にも命のすべてを賭けぬことだ。」
「行け。」
「どこへ?」弥助は口を挟む。
多羅尾光俊は、さらに深い山並みに目をやった。
「もっと西へ、もっと南へ。」
「そこに、伊賀という名の山がある。」
「あそこの影は、我らの比ではない。」
「あそこの者たちは、人の心を見ることにかけては、我らよりも毒だ。」
彼は一拍置き、めずらしく微笑を浮かべた。
「だが、お前のことは、きっと気に入るだろう。」
夜、山を下りる。
甲賀は、白昼の見送りをしない。
柳澈涵と弥助が谷の口に差しかかったとき、振り返ると、山の中に三つの灯籠の灯りがぼんやりと見えた。
灯はまず同時に消え、次に、三つの違う場所で同時にまた灯る。
「なんだ、あれ……。」
「甲賀の送客の礼だ。」
暗がりから霧口弥一の声がした。
「我らが認めた者だけに贈る。」
「意味は――甲賀の影が、お主の背後三歩分、ついていく、ということだ。」
「多羅尾殿の言伝だ。」
「いつか本当にどこかの軍師となったとき、この三歩の影が矢を一、二本受けてくれるかもしれぬ。」
「それから先は、我らの知ったことではない。」
声は、夜風に溶けるように消えた。
柳澈涵は、明滅する三つの灯を見つめ、心の中に一つの言葉を刻んだ。
甲賀は、山の中の影。
六角は、その影に書かれた文字。
山が変われば、影も変わる。
だが文字は、自分が何を書いているか、必ずしもわかってはいない。
弥助が袖を引く。
「先生、このあとはどこへ?」
「ここと比べものにならぬほど影の濃い場所だ。」柳澈涵は言う。
「澄心の三観は、山だけでなく、人がどこまで黒くなれるかを見るためのものでもある。」
彼は、さらに深い山へ向けて歩き出した。
背中から山風が吹き、黒髪をひるがえす。
その下から、完全には消えきっていない一本の銀白が、ちらりとのぞいた。
その一条の白は、霧の向こうで一瞬だけ閃く刀の光のようだった。
忍術の影は、その光の前では、あくまで影にすぎない。
煙の中でも、血の中でも、山の闇の中でも、濁ることを拒む一つの心――
それこそが、あらゆる術を断ち切る、本当の刃だった。




