第九十一話 谷の血符・反逆の刃
翌朝、霧はいつもよりも濃かった。
多羅尾家の広間。
几帳の上には、白布が一枚広げられている。
その上には数行の文字。
血の色は、まだ完全には乾いていなかった。
これはただの血書ではない。
甲賀の内部でのみ使われる「血符」である。
各家がそれぞれの暗号と筆致を持ち、一目で誰の手になるものかがわかる。
霧口弥一の顔色は、鉄のように暗かった。
「……川久家の符だ。」
早見新十郎は眉根を寄せる。
「誰に膝をついた……。」
布に書かれた文字は多くはないが、部屋の空気を一気に重くするには十分だった。
「山寺のこと、すでに六角に売られている。」
「本日未の刻、谷で受け渡し。」
「人を三名、連れて来い。六角銀百枚。」
「一人は、甲賀の内通者。」
「一人は、六角の新任使者。」
「一人は、小谷の外客。」
最後の二文字は、血で何度もなぞり書きされていた。
「外客、か。」
多羅尾光俊は鼻で笑った。
「よくも選んだものだ。」
弥助は、その二文字が誰を指すか、瞬時に悟り、背中に冷たい汗がどっと噴き出した。
「せ、先生……。」
「構わん。」柳澈涵の声は落ち着いていた。
「布に書いたということは、もうその道に観客が集まっている、ということだ。」
「道を変えますか?」霧口弥一が問う。
「変える?」多羅尾光俊は首を振る。
「それでは、自分たちで自分たちの影を怖がったと認めるようなものだ。」
彼は顎を上げ、柳澈涵を見る。
「澄原殿はどう見る。」
「谷がいちばん怖れるのは、心が縮むことだ。」柳澈涵は言う。
「もっとも厄介なのは、自分の手に刀を持ちながら、ただの縄だと思い込んでいるやつだ。」
「一つ問いたい。」
彼は続けた。
「この谷は、六角のものか。甲賀のものか。」
多羅尾光俊は、几帳を指先でこん、と叩いた。
「行く。」
「もし今日からこの谷が甲賀のものではなくなるなら、」
彼は静かに言う。
「ここはただ六角の矢が通る場所になる。」
谷は大きくはないが、両側の崖は高かった。
底には、干上がった古い川筋が一本走り、石がごつごつと露出している。
風は谷の上から吹き下ろされ、両側の岩に挟まれて細い線となる。
「ここが一番の伏兵向きだ。」早見新十郎は低く言う。
「そして一番、死ぬには都合のいい場所でもある。」
谷に下りるのは、多くはなかった。
多羅尾光俊は山に残る。
谷へ降りるのは、柳澈涵、霧口弥一、土橋半蔵、早見新十郎、そして顔色の悪い甲賀忍者が一人――川久家の縁者だった。
男は道中ずっと俯き、手は汗ばみ、時折目だけが崖の上を盗み見る。
「裏切り者が、一緒にいるんだ……。」弥助は唾を飲み込む。「本当に連れてくのかよ、先生……。」
「まず、自分があいつに怯えるかどうかを見る。」柳澈涵は静かに言った。
「あいつのほうが、俺たちより怖がっている。」
「怖い者ほど、早く手を出す。」
風の音が、ぴたりと止んだ。
散発的だった鳥の声が、一瞬にして途絶える。
「来た。」
霧口弥一が声を押し殺した。
谷底の一番狭い一角。
前方には、いくつかの岩が、わざとらしいほど絶妙な位置に転がっている。
岩と岩との間は、人が身を潜めるにはちょうどいい。
弥助が先生の後ろに隠れようとしたそのとき、かすかな異臭に気づいた。
雨の匂いではない。
粉が湿って広がるときの匂いだ。
「息を止めろ。」
柳澈涵は、弥助の口と鼻を一気に塞いだ。
次の瞬間、内通者の袖から粉末が舞った。
小さな一片が、隊列の後方へとふわりと散る。
その粉は湿気を得て、さらに広がる。
誰かが本能的に大きく息を吸い込めば、その者は必ずむせて咳き込む。
咳が出れば、伏兵たちは、誰が一番無防備かを即座に知るだろう。
弥助は鼻と口を塞がれ、目の端が少しだけ痛くなったが、咳は堪え切れた。
前方の岩陰から、ごく小さなため息が聞こえた。
毒試しがうまくいったことへの満足のため息。
「お前自身も、だいぶ吸い込んだな。」
柳澈涵は手を離し、内通者に言った。
男の顔が真っ青になる。
手の中の鎖鎌の鎖は、いつの間にか掌に巻かれていた。
「今ここでお前ら四人を殺して、」彼は歯をむき出しにする。
「その首を持っていけば、川久家も、もう少し広い田を貰える。」
言葉が終わると同時に、谷の崖にいくつかの光が瞬いた。
矢だ。
甲賀の矢ではない。
六角の軍勢の弓だ。羽根が風を割り、霧を裂き、谷底の小さな一行に向かって降り注ぐ。
霧口弥一が刀を抜こうとした、そのより早く、柳澈涵は前に出ていた。
「風を聞け。」
彼は目を閉じ、風の音だけで、その刹那の矢筋を聞き分ける。
矢の尾が空気を切る音。
重いのは左、軽いのは右。
崖に近い矢は、第二の反響を引く。
真っ直ぐ落ちてくる音は急で、岩をかすめる音はわずかに緩い。
「右に三歩、身を低く。」
弥助の襟首を掴み、その勢いで霧口弥一の肩を押し、道端へと押し出す。
矢はその肩と背中をかすめて飛び抜け、谷底の石に深く突き刺さる。
その一瞬を狙って、内通者が動いた。
鎖鎌の鎖が、細い音を立てて背後へ回り込み、鎌の刃は、柳澈涵の後頭部へと弧を描く。
鎖鎌の恐ろしさは、鎌ではなく鎖にある。
鎖が絡みつけば、身体を絡め、喉を締め上げ、人を動けなくする。
柳澈涵は振り返らない。
肩を少し前へ倒し、重心を、真ん中からずらしただけだった。
鎖は肩先をかすめた。
同時に、刀が抜かれる。
斬るのは鎖ではない。
鎌の柄だ。
鎖鎌は、その一瞬で重心を失い、鎖と鎌はばらばらに分かれた。
男の腕にはまだ力が残っている。
だが肝心の重みが消え、身体は前に突っ込む。
「澄心一刀流・奪息。」
柳澈涵の刀は、半ばで返され、刃は背に向けられず、刀背が男の鳩尾を正確に打った。
内臓に衝撃が走る。
上がるはずの息は途中で止まり、下りるはずの息も塞がれる。
男の顔は、一瞬で真っ赤に染まった。
「どんなに術が冴えていても、」柳澈涵は冷ややかに言う。
「息が切れたら、人はただの本能だけになる。」
男は下がろうとしたが、脚が言うことを聞かなかった。
その一瞬の隙に、刀光が一筋、手首をかすめる。
血管も骨も外し、ただ、握力を支配する一本の筋だけを、正確に断ち切った。
鎖は地に落ち、小さな音を立てる。
崖の上からの矢は、まだ降り注いでいる。
霧口弥一と早見新十郎は、先ほど柳澈涵が叫んだ「風の節」を頼りに、逆に射手の位置を割り出していた。
煙玉が崖に炸裂し、白い煙が上へと立ち上る。
石が投げられ、弓と肩に当たり、リズムを崩す。
六角の弓手たちは、形勢の不利を悟り、慌てて後退し始めた。
「行かせろ。」柳澈涵は言う。
「彼らに伝えさせるんだ。甲賀の谷は、安く買える市場ではないと。」
刀を鞘に収め、膝をついた男を見下ろす。
男の呼吸はまだある。
だが自分の胸の苦しさだけで、半分気を失いかけていた。
「甲賀の掟では、」霧口弥一の目は冷たい。「この場で喉を掻き切るところだ。」
土橋半蔵は、すでに短刀を抜いている。
「待て。」
柳澈涵は、その刃を制した。
「ここで殺すのは、甘すぎる。」
しゃがみ込み、男の目を覗き込む。
「お前は六角の暗号も、道も知っている。」
彼は静かに言う。
「甲賀の道も知っている。そのまま死なせれば、そのすべてが、ここで腐るだけだ。」
「生かす。」
顔を上げ、霧口弥一と早見新十郎を見た。
「腕も脚も潰せ。」と彼は告げる。「山に閉じ込めておけ。」
「知っている道、暗号、伏兵の石場――そのすべてを書かせる。」
「一度書かせては焼き、また書かせては焼く。
何も思い出せなくなるまで、延々とだ。」
弥助は、背筋がぞっとした。
「それ、殺すより酷い……。」
「人を殺すのは簡単だ。」
柳澈涵は淡々と言った。
「自分で作った影と、一生向き合い続けさせるほうが、よほど難しい。」
霧口弥一と早見新十郎は、一瞬だけ視線を交わし、やがてゆっくりと頷いた。
「多羅尾殿なら、すぐに察してくださる。」霧口弥一が言う。
谷の風が再び吹き抜け、さきほどまでの血の匂いを、少しずつさらっていった。
「澄心の道は……。」
早見新十郎は、低く呟いた。
「忍術よりも、時に、ずっとえげつない。」
柳澈涵は、ただ風を見ていた。
何も答えなかった。




