第九十話 忍衆密約・影市の夜
谷のいちばん奥まったところに、一見なんの変哲もない杉林がある。
夜、月はない。
枝に低く結わえつけられた紙灯籠がいくつか。
灯籠の内側には煤が厚く塗られ、光は内へと吸い込まれ、外へはほとんど漏れない。
遠目には、灯りがあるとは気づかぬ。
「ここが影市だ。」
土橋半蔵が声を潜める。
「外から見ればただの林。でも一歩入れば、見えないものを売り買いする連中がいくらでもいる。」
弥助は、肩の木箱をぎゅっと抱え直した。
「売り買いって……何を?」
「誰かの穀価さ。」早見新十郎が答えた。「どの国が今年、米を欠き、どの村が徴発されるか。」
「誰かの名だ。」霧口弥一が続ける。「どの大名が倒れそうで、どの旗が差し替わるか。」
他にも、「どの山道が伏兵に向いているか」、「どこの城の米蔵の裏口がどうなっているか」――
武家の手に渡れば命のやりとり。
商人の手に渡れば、利の計算。
灯の下で、人影は揺れている。
だが、誰も、誰の顔も見ようとしない。
誰もが少しだけ光から背を向け、自分の顔を半分だけ、明暗の境に隠していた。
多羅尾光俊は忍び装束ではなく、ごく普通の薄色の着物をまとい、手に一本の竹杖を持っている。
「甲賀は忠義を売らぬ。」
彼は柳澈涵に言う。
「売るのは情報、そして人の目には見えぬ道だけだ。」
「じゃあ、誰に売るんです?」弥助は我慢できずに聞く。
「山を丸ごと焼き払わない者にだ。」多羅尾光俊が答えた。「山を焼かれれば、影の居場所もなくなる。」
彼は一つの灯籠の下で足を止め、ゆっくりと言った。
「甲賀には、影の掟が三つある。」
「一つ、純粋な快楽殺しの依頼は受けぬ。」
「二つ、村を丸ごと焼くような者には売らぬ。」
「三つ、引き受ける前に、その情報が外に出た三年後、誰がまだ生きているかを考えること。」
「もっともらしいですね。」柳澈涵は笑う。「だが、三年後に誰が生きているかなんて、わかるのか?」
「わからん。」多羅尾光俊はきっぱりと言う。「だからこそ、『局を見る者』に相談したくなる。」
灯の向こうから、半ば冗談めかした笑い声がした。
「澄原殿か。」
くぐもった声が言う。「噂の軍師殿も、今日は何か売りに来たのかな?」
柳澈涵が目を向ける。
話しているのは、竹製の半面をつけた武士だった。
鎧は軽いが、磨き上げられてぴかぴかと光る。
腰の刀の鞘には六角家の紋が刻まれているが、わざと目立たぬように削り落としてある。
「六角の客だ。」
多羅尾光俊が淡々と言う。
「ちょっと聞いてみたくてね。」
武士は口元に笑みを浮かべる。
「澄原殿のような人は、刀を売るのか、それとも心を売るのか。」
「私は、見誤りと見抜きの差を売る。」柳澈涵は答えた。
「そちらは見えない刀を売るのだろう。私は、その刀が振り下ろされる前の一瞬で、本当に見えているかどうかを売る。」
「頭が痛くなる。」
武士は笑う。「結局、あんた達の売り物は良心ってわけか。」
「良心なんて、金にならん。」柳澈涵は首を振った。
「私が売るのは、一つの問いだけだ。」
「問い?」
「注文を出す前に、三年後に後悔しないかどうか、見てみる度胸があるか――という問いだ。」
武士は目を見開き、それから大声で笑った。
ただ、それ以上は言葉を続けなかった。
灯火の下で、一人が地図を広げる。
琵琶湖と近江の諸城を結ぶ水路が描かれている。
別の灯の下では、小さな木箱が置かれ、中には香粉を混ぜて固めた泥がいくつか、印章の形に捏ねられている。
「あれは?」弥助が身を乗り出す。
「印泥の型。」霧口弥一が答える。「ある公家の印を偽造できる。こんなものを売る者は、売る覚悟も、死ぬ覚悟もしている。」
少し離れたところで、半面の六角武士が声を潜め、忍びと値段をやり取りしていた。
「浅井・小谷の城下の図だ。」
「兵舎はどこ、米蔵はどこ、どの路地が一番燃えやすいか。」
忍者の目に、露骨な迷いが浮かんだ。
儲けは大きく、情報は新しい。
「多羅尾殿?」
忍者は目で問いかける。
多羅尾光俊は竹杖に手を置き、しばし黙ってそれを見ていた。
「その図は、不完全だ。」と静かに言う。「そのまま出せば、甲賀の面目が潰れる。」
六角の武士は鼻で笑う。
「不完全なら、補えばいい。」
「補うのは誰だ?」多羅尾光俊が問い返す。「六角か、お主か。」
「忘れるな。」
柳澈涵が口を挟んだ。
「山寺の香は、もう一度、こちらで嗅いでいる。」
六角武士の笑みが、灯の下で一瞬だけ固まった。
「影市は影を売る場だ。顔は売らぬ。」
多羅尾光俊が言い切る。
「この取引、甲賀は受けぬ。」
「なぜだ?」忍者が思わず聞いた。
「浅井の方は、すでに一度、我らのために山を見てくれた。」と多羅尾光俊は静かに言う。
「この風向きであいつらの壺口を売れば、一時の銀は得られても、山は得られん。」
彼は柳澈涵に視線を向ける。
「どう見る?」
「六角の仏龕には、すでに文字が彫り詰められている。」柳澈涵は答える。
「そこへさらに『小谷』と彫り足せば、木が割れる。
甲賀が山に生きようとするなら、そんな割れた木の上に立つ必要はない。」
灯火が揺らいだ。
六角武士は、最後には袖を翻し、冷笑を残して立ち去った。
「甲賀は、山に腰を下ろして虎が争うのを眺めているだけだ。」
「虎の薪になるよりは、よほどましだ。」
霧口弥一が小声で毒づく。
柳澈涵は、ただ薄く笑った。
「影は誰のものでもない。」と彼は言う。
「道を一つ残してくれる者がいれば、その者のために、一度だけ深さを覗いてやるだけだ。」
弥助には、話の半分もわからなかった。
ただ、この目に見えぬ「影市」が、どの城よりもよほど危険だということだけは、骨身に染みて感じられた。
「澄心の道には、三つの観がある。」
柳澈涵は、弥助にも、自分にも聞かせるように、ぽつりと言った。
「観己――自分が何を欲しているかを問う。銀に怯えず、腹の虫にも泣かされない。」
「観人――誰が山を焼き、誰が道を残すかを見る。」
「観世――この山、この局、この風が、誰をどこへ押しやろうとしているかを見る。」
「忍が隠れ身の術だけを覚え、この三観を持たぬなら、最後には刀になるか、薪になるか、その二つしかない。」




