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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第九話 信長帰城(上)・風、清洲に還る

美濃の戦雲を切り裂き、魔王・織田信長が清洲へ帰還します。

その圧倒的なカリスマ性は、城内の空気を一変させ、家臣たちを畏怖させます。

そしてついに、柳澈涵リュウ・テツカンが表舞台へと呼び出されます。

待ち受けるのは、柴田勝家をはじめとする歴戦の猛者たち。

夜がまだ明けきらぬうちに、清洲城はすでに目を覚ましていた。


 空の色にはまだ深い藍の冷たさが残っているというのに、本丸の奥では、ところどころに孤独な灯がともっている。重々しい木戸は固く閉ざされ、外側に控える足軽たちは遠巻きに守るだけで、足音さえかすかにしか立てようとしなかった。


 城の本当の「風向き」は、この時、町でも長屋でもなく、この風雪から切り離された一間の密室の中にあった。


 柴田勝家は上座に胡座をかき、その眉間にはいつも通り深い皺が刻まれている。何度も火花を浴びて鍛えられた鉄片のような顔つきだった。


 その右手には林秀貞(または林通勝)が座り、指先で髭をなでている。表情は穏やかそうだが、目尻の奥には世の流れを量り続けてきた冷たい色が潜んでいる。


 左手には佐久間信盛が、まるでそこに嵌め込まれた岩のように一言も発さず座っていた。その更に端には丹羽長秀が控え、神情は淡々としているが、目は鼻を、鼻は心を見つめる僧のように、余計な言葉を一切拒んでいるかのようだった。


 少し下がった位置には、森可成や河尻秀隆らが左右に並ぶ。信長の弟・信勝も列に加わっていたが、強く引き結ばれた唇は今にも何かを言い出しそうで、しかしそれを噛み殺すように押しとどめている。


 案の上には、粗く削られた一枚の木札が置かれている。柳澈涵が持ち込み、城門で示した、あの札である。


「美濃から戻ってきた者の話では、稲葉山城の方で、少しばかり騒ぎがあったそうですな。」


 沈黙を破ったのは林秀貞だった。だがその声も、押し殺すように低い。


「異様な白髪、素性の知れぬ刀。稲葉一鉄の目の前で、相手にろくな反撃も許さず押し切った男だとか。その男を、殿自ら尾張へ連れ帰り、信物まで与えた。」


 そう言って、彼は木札に一瞥を投げ、続けて柴田へと目をやる。


「美濃の決着もまだついておらぬうちに、殿は清洲へ戻られる前に、先にその男を長屋へ放り込まれた。……殿ご自身も、完全には信じ切っておられぬ、ということでしょう。」


 柴田勝家は短く鼻を鳴らした。


「信に足るか否かは、殿のみぞ知る。」


 彼は膝の上の指先で、こつ、こつ、と軽くリズムを刻んだ。


「だがひとつだけ言える。――主君が不在の城に、ああいう男がのうのうと居座ってよい道理などない。」


 信勝が顔を上げる。


「つまり柴田殿は、殿がお戻りになる前に、先に……」


 先は続けなかった。だが、この場にいる者にとっては、それだけで十分だった。


「まず底を見極める。」柴田はあけすけに言った。「口先ばかり達者で、刀をちらつかせて脅すだけのペテン師なら、護城の堀に捨ててしまえばいい。もし本当に、何か企む者だったとしたら……」


 その眼差しが鋭く沈む。


「殿に後から問われようとも、『試みに失敗した』だけの話。夜長くして夢を見るより、よほどましだ。」


「夜長くして夢多し、か。」誰かが低く繰り返す。


 佐久間信盛がわずかに身じろぎしたが、結局口を挟むことなく、ただ鞘に添えた手を静かに握り直しただけだった。


 林秀貞は髭を撫で、首を横に振る。


「何も、自分の刀を汚すこともありますまい。」


 彼はゆっくりと語る。


「長屋に放り込んだ、それだけでもう十分な試し場。あの辺りの浪人、苦力、ならず者を全部合わせれば、城内のどこよりも剥き出しで凶暴です。数日も持たぬようなら、それまでの男。もし生き延びてきたなら……」


 そこで言葉を切り、その目に一瞬、読み取りづらい光が差した。


「その時に、改めて手立てを考えればよろしい。」


 柴田は横目で彼を見やる。


「……門を蹴りに行った連中は、おぬしの差し金か。」


「ただ、そこらの風を少し撫でたまで。」林秀貞は淡々と返す。「名も覚える気にならぬ程度の者ども、『わしの手の者』と呼ぶほどのものでもない。」


 室内に再び沈黙が落ちた。


 風なき部屋で、数本の蝋燭の火がわずかに震え、その蝋涙がゆっくりと垂れて机の木目に染み込んでいく。


「いずれにせよ――」


 柴田が重々しく口を開く。


「殿のご帰還を待つしかあるまい。」


「刀か、禍か、縁か、災いか。いずれであろうと、最終の沙汰は、殿自らが見極めてこそよ。」


 反対する者はいなかった。


 この城で本当に「最後の言葉」を持つのは、昔も今も、ただ一人だけだ。


 長屋の一帯は、ここ数日、一見したところ何も変わっていないように見えた。


 崩れかけた庇の下にはぼろ布の簾が垂れ、汚れた水が溝をゆっくりと流れ、冷たい風が路地の奥で渦を巻きながら、米糠や腐った野菜と安酒の匂いをかき混ぜている。


 だが、この場所を知り尽くした者たちは、すでに気づいていた。何かが変わっている、と。


 日が暮れれば、いつもなら喧しく歌や怒号が飛び交うはずの酒場は、ここのところ半ばだけ戸を開け、内部の声も妙に抑えられている。いつも角で賭場を開いていた浪人たちの姿は消え、残っているのは、半分ちぎれた賽子紐が数本ばかり。


 幸蔵は首を縮めて先頭を歩いていた。肩は石を二つ抱え上げたように固く張り詰めている。


 額にはまだ大きなこぶが残っていた――あの夜、蹴り飛ばされた戸板ごと頭を打ち付けた痕だ。幸蔵ほどの分厚い皮膚なら、本来とっくに腫れは引いているはずだが、ここ数日、城外をうろつき、風にさらされ日差しに焼かれたせいで、傷はいつまでも鈍く疼き続けていた。


 あの夜の騒ぎの後、彼はいつものように酒代を稼ぎに酒場へ顔を出すつもりだった。


 そこで、耳に入ってはならないはずの言葉を聞いたのだ。


「……あの阿呆ども、生きて戻ったとなると厄介だ。」


「上の風向きが変わったら、人目のない所でまとめて片づけるぞ。」


 そう言ったのは、彼らを「ついでに風を動かせ」と長屋へ送り込んだ、あの中層の武士本人だった。


 酒に半分酔っていたはずの幸蔵の耳は、その瞬間、妙にはっきりと冴えた。何も聞こえなかったふりをして、その翌日には仲間二人を連れ、清洲の城下から姿を消す。


 この数日は、城外の荒れ寺や川辺を転々とし、古い馴染みが分けてくれた冷や飯と残り物で、どうにか命をつないだ。追っ手がいないと確信できてから、ようやく人出の多い早朝を狙い、ひっそりと長屋への道を戻ってきたのである。


 彼らはもはや、以前のように大手を振って表通りを歩くことはしない。自分たちだけが知る裂け目――


 どの馬廻り衆の小者がどの酒場で一人酒を呑むか、どの路地が足軽の交代の通り道か、どの賭場の隅で、口の軽い連中が余計なことまで喋るか――


 そうした場所ばかりを選んで歩いていた。


 それは元々、彼らが生き延びるために身につけてきた勘であり、耳だった。


 今は、ただその耳を、いつも以上に研ぎ澄ましているだけのことだ。


「前だ……あの小屋だ。」


 幸蔵は唾をひとつ飲み込み、ぶらぶらとぶら下がる今にも落ちそうな戸板の前で足を止めた。


 以前のように乱暴に叩き込む真似はとても出来ず、代わりに深く息を吸い、上体を地面に伏せる。額が冷たい土に触れた瞬間、古傷がずきりと痛み、思わず顔をしかめた。


「白髪のお方……。」


 かさついた声で、しかしできるだけ低く絞り出す。


「お言いつけどおり、いくつか風の噂を拾ってまいりました。」


 小屋の中では、囲炉裏の火はほとんど熾きだけになっていた。


 柳澈涵はその傍らに座り、焦げかけの薪を一本、指先で回していた。薪が火元をかすめるたび、火の粉がふっと躍り上がり、やがて静かに落ちる。その動きが、この一隅のざわめきを、意図してなだめているかのようだった。


「話せ。」


 彼は顔も上げず、一言だけ吐き出す。


 幸蔵は一瞬も間を置かず、ここ数日、城下の酒場や賭場の隅、路地の曲がり角で拾い集めた噂を、まとめて吐き出した。


「……巡回の道筋が変わりました。城門じゃ、この二日で見張りが何度も入れ替わってます。中には、馬廻り上がりの腕利きも混じってる。誰かが、人の出入りを恐れてるみてえで。」


「林家の屋敷は、この二晩、灯りが消えたことがねえ。出入りの人間も多くて、中には家紋を隠してるのもいました。」


「それから、大人……あんたのことを探り回ってる連中がいます。」


 幸蔵は袖で顔の汗を拭い、さらに声を落とした。


「どこから来たのか、美濃から何人連れて戻ったのか、殿に何を言ったのか……そういう話を、下っ端に聞かせるような筋じゃねえ者らが、聞きたがってる。」


 そう言いながら、彼はつい、草席の横で静かに横たわる刀に目をやってしまう。


 刀はまだ、何もせずそこにあるだけのように見える。無地の鞘には飾り一つない。だが、それがあるだけで、この狭い空間の風はすべて、その奥の見えない深みに吸い込まれていくようだった。


「やつらは、おまえを恐れている。」


 柳澈涵が、ようやく口を開いた。


「恐れている……?」


 幸蔵はぽかんと口を開け、すぐに苦笑いを浮かべた。


「大人、俺たちみたいな連中は、いつもあっち側の連中を怖がる側でさ。あっちが誰かを怖がるなんて、聞いたこともねえ。」


「恐れるものなど、いくらでもある。」


 柳澈涵の声は静かだ。


「ただ、口に出さないだけだ。」


「巡回の道を変える。門の番を替える。屋敷の灯を絶やさぬ。――全部、隙を空けぬための動きだ。」


「信長のいない間に、自分たちの掌からこぼれ落ちるものが出るのをあいつらは恐れている。」


「で……でも、大人は怖くねえんですか。」


 とうとう三人目が、蚊の鳴くような声を絞り出した。


「大人も、城の中じゃ、やっぱり隙間にいる身でしょう。上の連中が、大人のことを『余計なもの』だと思えば……」


「俺も隙間の中だ。」


 柳澈涵は淡々と言う。


「だが、あいつらより先に、自分がその隙間から何を引き抜くか、決めているだけだ。」


 彼は顔を上げ、幸蔵たちに視線を向ける。


「おまえたちの命は、あいつらにとっては、綻びを塞ぐためのボロ布だ。」


「俺にとっては、別の網を編むための糸になる。」


「違いは、その一点だ。」


 幸蔵には半分しか理解できなかった。だが、背筋を冷たいものが走る一方で、その冷たさのさらに奥に、ごくわずかなぬくもりのようなものがある気もしていた。


 彼は、数日前に耳にした「あの騒ぎが収まったらまとめて始末しろ」という言葉を思い出し、それから目の前の白髪の青年の言葉を反芻し、喉の奥がぎゅっと締め付けられた。


「そ、その……殿が戻ってきたら……」


 恐る恐る口を開く。


「俺たちみたいな木っ端は、もっと危なくなるんで? あの大人たちが一言つぶやくだけで……」


「おまえたちが、まだあいつらの口の端に上る『浪人』のままなら、そうだろうな。」


 柳澈涵は視線を外す。


「もう少し見張る場所を増やせ。」


「覚えておけ。普段目立たぬ連中が、急に忙しげに動き出す時、その者たちから上がってくる噂の方が、主のそれよりはるかに澄んでいる。」


「それを持って戻ってくる限り、おまえたちはまだ使い道がある。」


「使い道のあるものを、真っ先に捨てる者は少ない。」


 朝の風が、清洲城の石垣を舐めるように登っていく。


 前田利家は一隊を率いて城外を巡回していた。肩に担いだ槍が歩みに合わせてわずかに揺れ、灰藍の空の下、その穂先が薄い弧を描いている。


 城門の前には、いつもより少し多めの商人たちが入城を待って並んでいたが、やけに静かだった。


 普段なら、守備の足軽に食ってかかるような怒鳴り声や値切りの声が飛び交うのに、今は小声の囁きと、ときおり城の中を伺う視線ばかりが目立つ。


 利家はその様子を眺め、眉をさらにひそめた。


「昨日まで門前でがなり立てていた浪人どもはどうした。」


「は、前田殿。城下から追い払われたって話です。この数日は影も形もなくて、酒場の連中も行き先を知らねえとか。」と、一人の足軽が背を丸めて答える。


「ふん。」


 利家は鼻を鳴らした。


 清洲じゅうで名の知れた揉め事の種が、まるで誰かに指でつままれたように、跡形もなく消えている。残響すら残さぬのは、むしろ不自然だった。


 彼は隊を導いて堀沿いを歩きながら、何気ない風を装って長屋の方への視線を滑らせる。


 みすぼらしい長屋は相変わらずの姿で、干し縄には落ち切らない汚れの残る布切れがぶら下がり、子どもたちは泥にまみれて転げ回り、女たちは水桶を下げて忙しなく行き来している。


 一見、どこも変わらないように見える。


 ただ、いくつかの場所は、妙に静かすぎた。


 利家は、先日夜に足を踏み入れたあの小屋の前に、見覚えのある影を見つけた。


 佐吉が、水の入った桶をやっとの思いで持ち上げ、小屋の中へ運び込もうとしているところだった。足元はおっかなびっくりで、一滴でもこぼせば怒られると言わんばかりだ。


 その頭上から、白髪の青年が手を伸ばして桶の縁を支え、戸口にそっと置く。そこでふと顔を上げ、外からの視線とぴたりとぶつかった。


 白い髪は朝の光の中でさほど刺々しくは見えず、むしろ水気と寒さに霞んだ薄い靄をまとっているようだった。


「何を見ている。」


 利家の声は大きくはないが、いつも通り、上から押さえつけるような調子だ。


「風を。」


 柳澈涵は答えた。


「清洲の風を。」


「風なんぞ、見て楽しいものか。」利家は冷ややかに言う。「この尾張では、風に煽られた方が身を折る。吹く方ではなく、折れる方が決まるってことくらい、難しくもあるまい。」


「風そのものには、誰を吹き折ろうというつもりもない。」


 柳澈涵の声は相変わらず平板だ。


「ただ、出会ったものの中で、立っていられぬものを倒していくだけだ。」


 利家は目を細める。


 こういう物言いは、耳障りで仕方がない。だが、どこが間違っているのか、うまく指摘できないのも癪だった。


「長屋で何を企んでいる。」


 問い方を変える。


「何もしていない。」


「ただ、数人に教えただけだ。」


「自分たちの命が、誰の目には何文で、誰の目には何言分か――それだけの話だ。」


 利家の指が、槍の柄の上でぴくりと止まった。


 小石を水面に投げ入れたときのような言葉だ。最初は何でもないが、いつの間にか底の見えぬ波紋が広がっていく。


 さらに何か言おうとした瞬間、遠くから角笛の音が響いた。


 城内からの合図だった。


 利家ははっとして顔を上げ、大手道の方へ目をやる。


 その瞬間、尾張の真の主が、帰ってきた。


 蹄の音は、石畳に刻まれる一連の太鼓のように、大手道を真っ直ぐに駆け上がって、清洲城の胸板を叩いた。


 冬の風は重い列の下に押さえつけられ、町人たちは自然と両側へと身を引く。誰も命じてはいないのに、誰からともなく腰を折り、頭を垂れた。


 一番前を進む馬上の男は、派手な具足をまとうでもなく、ただ織田家の紋を染め抜いた羽織を羽織り、その下には質素だが動きやすい直垂を着ている。


 体つきはやや細いが、肩の線は揺るぎなく、まるでこの城全体をその身に背負っても、背筋ひとつ曲がらぬと言わんばかりだ。


 風雪の中で細められたその双眸は、何かを見ているようで、同時に何も見ていないようにも思える。


 ――それが、織田信長であった。


 城門の内外で、すべての武士が一斉に膝をつき、鞘が石に当たって澄んだ音を一斉に響かせる。


「殿――!」


 叫びは、一枚の旗が一斉に翻るかのように広がった。


 信長は、ほんの少しだけ手を上げた。


 それだけで、ざわめきは刃物で断ち切られたように止み、規律ある静けさに変わる。


 彼が城門をくぐるとき、その視線はほんの一瞬だけ、長屋の方角をかすめた。


 特別長く留まったわけではない。だが、その一瞥だけで、多くの者の胸をぎゅっと締めつけるだけの重さはあった。


 風は彼の進む方向に従うように向きを変え、先回りして城内の濁りを払い落とそうとしているかのようだった。


 本丸の大広間には、すでに重臣たちが所定の位置に並んでいた。


 柴田勝家が列にあり、林秀貞が列にあり、佐久間信盛が列にあり、丹羽長秀、森可成、河尻秀隆らが両脇を固める。信勝や河内守らも、赤い敷板の端に沿ってひざまずいている。


 信長が座に着いても、すぐには美濃のことも、稲葉山城のことも口にしなかった。


「清洲。」


 口を開いて最初に出たのは、この城の名だった。


「留守の間、この城はどうであった。」


 誰も、真っ先に言葉を発しようとはしない。


 沈黙を破ったのは、柴田だった。


「外敵は至らず、内も乱れず。」


 林秀貞がそれに続ける。


「ただ、城下にはいくつか妙な噂が飛びました。美濃のこと、そして……あの白髪の若者について。」


 信長は「ふむ」とだけ言い、喜怒の色を見せない。


「……やつは、着いておるか。」


「すでに清洲にて数日を過ごしております。」林秀貞が答える。「当座は城下の長屋に置いております。」


「長屋か。」


 信長はその言葉を繰り返し、目の奥にかすかな笑みを浮かべた。


「よい。お前たちの屋敷に置くより、よほど奴の姿が見える。」


 柴田が頭を垂れる。


「殿、我らとしては、なおもあの男の来歴と意図には疑いが残っております。いっそ――」


 信長は、軽く手を上げてその言葉を遮った。


「疑いは残しておけ。」


 声は軽い。


「信を残しておくより、疑いを残しておいた方が、安全だ。」


「大広間の上では、お前たちがいくらでも疑えばよい。」


「だが、俺が実際に会うまでは、手を出すな。」


 最後の一言こそが、肝であった。


「呼べ。」


 信長は側に控える小姓に言う。


「彼奴をこの場へ通せ。」


 長屋の路地を、風が軒先に沿って流れていく。


 佐吉は、ようやくひと桶の水を庇の下に置いたところだった。手はまだ震えている。


 ここ数日、彼は幸蔵たちが忽然と消え、また何事もなかったかのように現れるのを、この目で見てきた。そのたびに心臓は落ち着く暇もなく跳ね続け、今や内側から擦り切れそうだった。


 だから、足軽が路地の入り口から長屋を抜け、一目散にこの戸口まで駆けてきた時、彼はその場で固まってしまった。


「柳殿!」


 足軽の声も、かすかに震えている。


「大広間よりお達し……すぐにご登城とのこと!」


 佐吉は思わず手を滑らせ、水桶を蹴飛ばしそうになった。


「澈涵さま、こ、これは、その……信長さまですか? もう、お戻りになってて、いきなりお目通りって……?」


 柳澈涵は「うん」とだけ答えた。


 彼は佐吉の肩を軽く叩き、その強張った手を押さえ込む。


「屋の見張りだけ、頼む。」


「俺は、これから会ってくる。」


「この城の、本物の風の眼とな。」


 清洲城大広間の扉が、足軽の手で外から押し開けられる。


 風は殿中へと吹き込み、すぐさま高い梁に遮られて、床の隅で幾つか小さく渦を巻いた。


 質素な衣に刀を帯びた青年が、一歩ずつ足を踏み入れる。


 白髪は灯の下で冷ややかには見えず、むしろ炎に縁取られたように、淡い光をまとっている。


 その瞬間、この場にいる者たちは誰からともなく背筋を伸ばした。


 上座から見下ろす信長と、下から見上げる柳澈涵。


 視線が交わる。


 それは初対面ではなかった。


 稲葉山城から清洲まで、山道から城門まで、二人はすでに、他の誰にも見えぬ道のりを共にしている。


 だが、清洲城にとっては、これが初めての「顔合わせ」だった。


「清洲。」


 信長が口を開いた。


「稲葉山城とは、どう違う。」


 柳澈涵は礼をとり、顔を上げる。


「稲葉山城の風は、山に半ば遮られております。」


 彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「清洲の風は、人の心に折られ、幾筋にも分かれております。」


 大広間の一角で、誰かの顔色がわずかに変わった。


 佐久間信盛の握る刀の柄が、ほんの一瞬、きしむほどに締め付けられた。


 信長は、しかし笑った。


 その笑みは優しいとは言い難い。だが、鋭く、心のどこかを正確にえぐってくる。


「お前は、この城で何をした。」


「何もしておりません。」


 柳澈涵は答える。


「ただ、数人に教えただけです。」


「自分たちの命が、誰の目には何文の価値で、誰の目には、何言分の価値しかないか、ということを。」


 柴田や林秀貞の側に控える者たちは、思わず背筋を固くした。


 城下で何が起きていたのか、彼らには細部までは見えていない。それでも、その一言だけで、充分に不穏だった。


 信長はしばし彼を眺めていたが、やがて、静かに頷いた。


「――よい。」


 その「よい」には、褒め言葉の色はほとんどなかった。


 ただ、「思った通りだ」という確認の響きだけがあった。


「今日この日から――」


 信長は上座にもたれながら、同じ調子で続ける。


「美濃の戦は、もはや俺一人のものではない。」


「お前は清洲に先回りしてきた。」


「ならば、影に隠れて縮こまる必要もあるまい。」


 彼は軽く手を持ち上げる。その仕草は何気なさげでありながら、この城の中で、この男の立つべき場所を指し示しているかのようでもあった。


「日の当たるところに立て。」


「俺の隣に。」


 大広間の外では、冬の風が清洲城の最も高い屋根を叩き、低く震えるような音を立てていた。


 その震えは梁を伝い、ひとりひとりの胸の内へと染み込んでいく。


 やがてこの震えは、ひとつの時代の胎動へと混ざり合っていくのだろう。

林秀貞ら、他の重臣たちはどう動くのか。

清洲軍議の後半戦、どうぞご期待ください!


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