第八十九話 山寺潜影・紙戸のささやき
夜の雨が、山頂から斜めに降り注ぐ。
雨脚は細かく密だが、音は半分ほどは森に吸われ、残りが時折り「ぽた、ぽた」と途切れがちに響くだけだった。
山寺へと続く石段は、急で狭い。
苔は雨に浸されて、ねっとりと光っている。
「廊を通らず、軒を行け。」
霧口弥一が低く言い、すっと身を翻す。
次の瞬間には、寺門の軒下に貼りつき、一つの影となっていた。
土橋半蔵は背中の細い縄を解き、一端を軒の角に引っかけ、もう一端を自分の腰に結ぶ。
門の上を、一歩ずつ確かめるように進む。
足裏に巻いた布が、踏み下ろすたびに音をすべて飲み込んでいく。
早見新十郎は、一番普通の人間らしく歩いた。
寺門の前で、きちんと手を合わせて拝みさえした。
ただ、そのあと一歩退いた位置が、風がいちばん灯火を吹き消しにくい影の場所であるというだけだ。
弥助は柳澈涵の背にぴたりとつき、濡れた石段を一段ずつ慎重に登っていく。
「先生、あの人たち、歩くのも大騒ぎなんだな……。」
「大騒ぎじゃない。」柳澈涵は言う。「一歩一歩を、一つの仕事として見ているだけだ。」
山寺の山門は、わずかに開いていた。
土橋半蔵が鍵穴の前にしゃがみ込み、耳を木に押しつけるように当てた。
髪の毛ほど細い鉄線が、指先から滑り出る。
鍵の内部を、そっと探っていく。
「鍵の音を聞け。」
彼は小声で弥助に言う。
「鍵は人を騙せるが、バネは嘘をつかない。」
「中には簧が三枚。」
彼は指でそっと弾きながら呟く。
「一枚目は怠け者、二枚目はやたら固い。三枚目が、ちょうどいい。」
「怠け者って?」弥助がひそひそと聞く。
「怠け者は、寺の番人さ。」土橋半蔵は口角を上げる。「扉を滅多に閉めないから、簧が錆びる。」
鍵が微かに鳴り、山門は、風に押されるように、ゆっくりと隙間を広げた。
寺の中は、真っ暗だった。
霧口弥一は自分の呼吸を押さえ、真っ先に廊の軒へと飛び移る。
足先は梁と梁のあいだ――大工が削り落とした余分な材木の痕にだけ降ろす。そこなら、家は鳴かない。
早見新十郎は廊の板を指先で軽く叩き、音の違いを聞いた。
音が詰まっているのは地面が詰まっているところ、響きが空なのは下に空洞があるところ。
「覚えておけ。」
柳澈涵は最後に続いた。
急いで動くことはせず、柱にそっと触れる。
この寺の木は、温かいものと冷たいものがある。
人が頻繁に触れる柱は、わずかに温もりを帯び、長く手が触れていない柱は冷たい。
観世。
この寺は、六角の情報宿場であって、真の寺ではない。
障子紙は分厚く、遮っているのは風だけではなく、目だ。
脇堂の灯りは一つも点っていないのに、本堂の裏手の廊だけが、かすかな油煙を漂わせている。
「あちらだ。」
彼は霧口弥一に顎で合図した。
脇堂の脇にある小部屋。
紙戸の向こうから、低い話し声がしている。
経を読む声ではない。
笑い声に、軽い金属の音が混じっている――印章が鉄の函に当たる音だ。
「京の言葉だな。」早見新十郎が眉をひそめる。「六角の者ではない。」
「六角が雇った手かもしれん。」霧口弥一は声を落とす。
「入る?」弥助は固くなった声で問う。
「入る前に、まず中の連中に、少し眠ってもらおう。」柳澈涵が答える。
袖から小さな紙包みを取り出し、早見新十郎に渡した。
「眠り香だ。」
弥助は目を丸くした。
「先生が調合したの?」
「前に、悪夢にうなされる兵たちに使った。」柳澈涵は言う。「今度は、この部屋の連中に、いい夢を見てもらおう。」
早見新十郎は口元をわずかに緩めただけで、何も聞かなかった。
紙戸の下に、針の先ほどの小さな穴を開ける。
紙包みを指で揉み、粉にして、慎重にその隙間から吹き入れた。
時が、一息ずつ過ぎていく。
最初のうちは、紙戸の向こうの声に変化はない。
やがて、話し声の一人が時折、語尾をだらりと伸ばすようになった。
舌が少し回りにくくなっている。
もう少しすると、茶碗が机にぶつかる音が、さっきよりわずかながら重く響き始める。
「あと三十呼吸。」
柳澈涵は目を閉じ、静かに数を数えた。
安眠香は毒ではない。眠気を誘うが、即座に昏倒させることはない。
どこから先に眠気が上るかで、誰が敏く、誰が鈍いかがわかる。
三十を数え終えたところで、彼はうなずいた。
機巧を得意とする忍が、窓下の暗格から滑り込み、柱に身を沿わせて、少しずつ机の方へとにじり寄る。
指先が鉄函に触れ、まず温度を確かめる――つい先ほど、誰かが蓋を閉めたばかりの、ぬくもり。
静かに蓋を持ち上げる。
中には、すでに順番を整えた文書が数通、重ねられていた。
六角と、京のある公家とのあいだを往来する書状。
文中には「朝家の動向」「越前朝倉」「尾張織田」の文字が見え、そして、最も目を引く一文があった。
「小谷浅井、壺口未定、守るも捨てるも可。」
霧口弥一の目が、暗く沈んだ。
「浅井を、取引の札にしてやがる。」
彼は歯ぎしりする。「六角は、上の勢いを借りようとしている。」
「勢いを借りようとする者は、」柳澈涵は静かに言う。「まず橋の上に、何人立っているかを勘定する。」
「橋の上に山一つが立っていれば、その札は軽々しく投げ捨てられん。」
「今は、まだ壊すな。」
忍に目で合図し、文を元通りに戻させる。
ただ角のところに、甲賀だけがわかる小さな印を刻んだ。
その印は、「この文は甲賀が目を通した」という印にすぎない。
去り際、柳澈涵は紙戸の桟を、つま先でそっと踏んだ。
その音は小さい。
だが、夢の淵でいちばん警戒心の強い者が、寝返りを打つには充分な響きだ。
「今夜、誰かが来たことだけは、覚えさせておく。」
「バレない?」弥助は首をかしげる。
「すぐにはわからん。」柳澈涵は言う。「ただ、これで彼らは、まず身近な人間から疑い始める。」
ときに、最も鋭い刀は、肉を断つものではなく、人の心を断ち切る刀だ――彼はそう思う。
世界への信頼を支える糸を、静かに裂いてしまう刃。
山を下るころには、雨はかなり小降りになっていた。
霧口弥一は、刻まれた印を頭に刻み込むように心に写し取った。
「山寺の香は、六角のためでもあり、京のためでもある。」
報告を聞き終えて、多羅尾光俊はゆっくりと言った。
「だが奴らは、甲賀もまたその香りを嗅いでいるとは思っていない。」
「では浅井は?」早見新十郎が問う。「この幾通かの文では、せいぜい『守るも捨てるも可』の四文字にすぎぬ。」
「守るも捨てるも可、ということは、まだ小谷という壺を飲み込みきれていないということだ。」柳澈涵は言う。
「飲み込めないものは、簡単には吐き出せない。」
彼は、甲賀の外に連なるさらに遠い山々を見やった。
「風がもう少し強くなれば、仏龕の脇にある影は形を変え、壺の水も変わる。」
「だが、甲賀が香だけを見て道を見ない山で終わるなら、結局は、どこかの家の机の上に書かれる一行にすぎなくなる。」




