第八十八話 多羅尾の庭・煙幕、心を試す
甲賀の谷は、六角の山よりもさらに深い。
霧は空中に漂っているのではなく、地面に沈み、薄い水の層のように広がっている。
一歩踏み出すたび、目には見えない波紋が、足元から静かに広がった。
多羅尾家の屋敷は、そんな境界の定まらない霧の層の奥に隠れている。
屋敷は大きくはなく、軒は異様なほど低い。石灯籠さえも、腰の高さほどしかない。
弥助が初めてその中へ足を踏み入れたとき、いつ何に頭をぶつけるかと、ひやひやし通しだった。
「灯籠の中は空だ。」
柳澈涵は、一つの石灯籠の横に立ち止まり、指先で灯身を軽く叩いた。
「中には文を隠せる。」
廊の板は一枚一枚、微妙に重さが違う。
踏めば、軽い板はわずかに「きしり」と鳴り、重い板は、下に何か支えがあるかのように、足を受け止める感触が違う。
「軒下の柱には空洞がある。」と彼は続ける。「人も刀も、隠すことができる。」
弥助は歩くたびに唾を飲み込んだ。
「この家……家そのものが忍者みたいだ……。」
廊の突き当たりに、一人の男が手を後ろに組んで立っていた。
多羅尾光俊。
歳はそれほどではないが、こめかみに白いものが幾筋か混じる。
着物はごく普通だが、指先には厚い茧が刻まれている――長年、弓を引き、筆を執り、縄を捻ってきた者の手だ。
彼は柳澈涵を一目見ると、口を開いた。
「白髪、よく染めたな。」
弥助は思わず自分の髪を触った。
「澄原龍立。」
柳澈涵は廊に膝をつき、丁重に礼をする。
「多羅尾殿、無礼いたします。」
「その名を本気で信じているというなら、こちらこそ失礼だ。」
多羅尾光俊は淡々と言った。「だが甲賀は、姓は買わぬ。本事だけを買う。」
彼は身を横にずらし、廊を開けて二人を招き入れた。
室内の障子はすべて下ろされ、光は柔らかい。
几帳の上には、まだ乾ききらぬ墨跡の巻物が一本。
その脇に竹尺と、燃え残った線香が一本、置かれている。
「聞けば、澄原殿は小谷の兵舎で針を打ち、街角で刀を振るい、山道では足元を教えたとか。」
多羅尾光俊が言う。
「甲賀の影としては、まず、その足が今どこに立っているのか、確かめたくなる。」
柳澈涵は笑った。
「影が生きるには、まず足場が要る。その理屈はわかる。」
「ならば、」多羅尾光俊は線香の火を指で摘み取り、静かに消した。「まずはひとつ、煙の中を歩いてもらおう。」
彼が手を叩く。
部屋の障子が一斉に閉まり、四隅の窓の隙間も外から塞がれた。
隅の陰から忍者が一人、音もなく現れ、部屋の中央に小さな煙壺を置く。
淡い煙が壺から立ち上る。
最初は糸のようにかすかで、やがてじわじわと部屋一杯に広がっていった。
「毒ではない。」多羅尾光俊は言う。「目を少し刺すだけだ。物が見えにくくなる。」
弥助は思わず鼻と口を覆った。
「世の中というものも似たようなものだ。」
煙の中で、多羅尾光俊の声が響く。
「言葉が増えれば、煙も濃くなる。旗が増えれば、影も乱れる。」
「甲賀がここで長く生きてこられたのは、煙の中で道を見ることに慣れているからだ。」
彼は柳澈涵を見る。
「澄原殿が、甲賀の影を借りて一時世を渡るというなら、まず確かめねばならん。」
「煙の中で迷わぬかどうかを。」
「どう試す?」柳澈涵が問う。
「簡単なことだ。」多羅尾光俊は指先で軽く弾いた。
天井のどこかで、ごく小さな音がした。
「この部屋には、すでに何人か、うちの忍が潜んでいる。」と言う。
「煙が晴れるまでのあいだ、彼らはできる限り、お主に一歩でも近づこうとする。」
「もし本当に衣の裾に触れることができたら、それは我らの勝ちだ。」
弥助の胸がきゅっと縮む。
「じゃあ……先生は?」
「こちらの条件は一つだけ。」多羅尾光俊は答えた。
「煙が消えたとき、お主が元の場所に立ったまま、誰一人傷つけていなければ、それでお主の勝ちだ。」
柳澈涵は、口元に笑みを浮かべた。
「面白い。」
煙は、じわじわと濃くなっていく。
弥助は部屋の隅に寄り、目をしばしばさせながら、かろうじて一番近い柱が見える程度だった。
障子の外から、ときおり風が漏れ込む。が、すぐに煙に飲まれる。
柳澈涵は目を閉じた。
清洲城下では、木曾川と長良川の音を聞き分けて、どの道を行けば尾張の兵がより多く生き残れるかを量った。
小谷の山道では、矢の雨の中で目を閉じ、金属が風を裂く角度と雪面が砕ける音だけを聞いて、海北に「踏み外さない道」を探した。
今度は、甲賀の屋敷の中。
煙の中で、人を聞く。
観己。
煙が鼻を刺し、目を焼くとき、心はもっとも乱れやすい。
まずは自分の心をつまみ上げて眺める。
――怖くないわけではない。ただ、その「怖さ」が視界を覆い尽くさないようにする。
観人。
忍者は気配を消す。
だが、生きている以上、胸の中の呼吸だけは完全には消せない。
一人は火術を得意とする。
身につけている布は、火鉢に近づくとわずかに縮み、かすかな擦れる音を立てる。
一人は錠前と機巧に長ける。
足は自然と継ぎ目の位置で一瞬だけ止まり、木の組み合わせ具合を確かめる癖がある。
一人は変装に秀でている。
足取りは完璧に制御できても、紙障子の向こうで、心臓の鼓動だけは、ところどころで微かな震えを漏らす。
観世。
梁、柱、板。
この屋敷の木目一つ一つが、「どこに人が乗るか」を知っている。
天井の一角は、他の場所よりもわずかに黒ずんでいる。
そこは、長年人が歩いた足跡。
床板の一枚は、音が違う。
下が空洞になっている。人を隠すには、うってつけだ。
障子紙がいちばん薄いところは、もっとも声が通る。
だからこそ、潜むには向かない。
煙の中の微かな音は、見えない線となって空間を走る。
柳澈涵はゆっくりと手を上げた。
指先は、はっきりした方向を指すのではなく、空中にごく軽い弧をいくつか描くだけだ。
その一つ一つの弧が、ちょうど忍者が次に足を置こうとした場所を、かすめて通り過ぎていく。
梁の上の忍者が飛び降りようとした刹那、足先が空をとらえたとき、下から一条の風が上がった。
それは刀の背で引き起こされた風だ。
このまま落ちれば、腰のあたりを刀背にまともに打たれる。
忍者は空中で力を引き戻し、梁に這い戻るしかない。
柱の陰の者が半身を出した瞬間、袖口を一筋の風がすくい上げ、袖が柱に軽くぶつかる。
小さな音だが、部屋の者全員の耳が、その位置を捉えるには十分だった。
床下の暗格から顔を出しかけた忍者の鼻先には、ふと違う香りが漂った。
それは線香ではなく、ごく薄い薬の香――柳澈涵の袖から漂う「醒神香」だった。
「忍術は、人の心を隠し、他人の心を利用する術だ。」
煙の中で、柳澈涵の静かな声が響く。
「澄心の道は、自分の心をまず机の上に置いて、よく眺めることから始まる。そのうえで、他人を見る。」
煙が晴れたとき、部屋の中で倒れている者も、刀を抜いた者も、誰一人いなかった。
多羅尾光俊は、初めから動かず、手に握った消えた線香を指で弄びながら、じっと柳澈涵を見つめていた。
「なるほど。」
やがて彼は手を叩いた。
梁の上から二人が、柱の陰から一人が、床下から一人が、それぞれ姿を現した。
そのいずれも、いつの間にか刀を柄から離していた。
「お主は忍ではない。」多羅尾光俊が言う。
「だが、多くの忍よりも、煙の中の歩き方を知っている。」
「俺はただ、」柳澈涵は笑う。「観己、観人、観世を、お前たちの術に借りて見ただけだ。」
「観己――自分の恐れと欲を知り、それに振り回されないこと。」
彼は手を上げる。
「観人――息づかいを聞き、癖を見て、綻びを探ること。」
「観世――この場、この山、この局が、誰を生かそうとしているのか、風の向かう先を見ること。」
「忍が身を隠すばかりで、人を見ようとしなければ、いずれ自分の影に足を取られる。」
多羅尾光俊はしばし黙し、ふっと笑みを浮かべた。
「六角には古家の気がある。」と彼は言う。「千の旧い文字を彫りつけた仏龕のようだ。」
「浅井は、壺の口から溢れようとする新しい水。」
「では、澄原殿の目には、甲賀はどう映る?」
「甲賀は、山の中の影だ。」柳澈涵は静かに答えた。
「仏龕には香が要る。水には流れが要る。影は、山があってこそ存在できる。」
「山が変われば、影も変わる。」
多羅尾光俊は、乾ききらぬ墨跡の巻を見下ろした。
「これなら、煙の中で迷う心配は要らんな。」
そう言って線香を片づけ、ふいに話題を切り替える。
「近ごろ、とある山寺に、人の足音が何双か増えた。」彼は口にする。「どうも、純粋に仏を拝みに来る足音ではない。」
「六角はそこを、情報の宿場にしている。甲賀は、道を見る。仏は見ない。」
「澄原殿に興があれば――」
彼は言った。
「その寺が、いったい誰のための香を焚いているのか、見てきてはくれまいか。」




