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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第八十七話 山間の再会・三影の誓い

 雨上がりの山道は、黒くしっとりと濡れていた。


 雲と霧が低く垂れこめ、山腹にまとわりついている。少し離れた杉の木々は、まるで霧の中から生えてきたように見えた。


 柳澈涵は行李を提げ、尾根伝いの道をゆっくりと進んでいた。後ろでは弥助が古い木箱を背に小走りでついてくる。足を滑らせるたびに、泥が点々と跳ね上がった。


「先生、六角から抜けて……もう小谷には戻らないんですか?」


 息がまだ整わないくせに、弥助は我慢できずに口を開いた。


「戻ってどうする?」柳澈涵は笑う。「浅井という壺の水は、今のところ十分に満ちている。これ以上居座れば、自家人扱いされる。」


 斜面から吹き上げる風が、黒く染めた髪をふわりと持ち上げた。


 白髪はその下に隠れ、こめかみの奥にわずかな灰色がかすかに残るだけだ。拭いきれずに残った雪の痕のように。


 霧に紛れてよくは見えない。だが風に追いつけない、しかし完全には掻き消されようとしない、微かな気配がそこにあった。


 山道の右側の斜面から、小石が一つ、こっそりと転げ落ちる。三歩ほど転がって、道端で止まった。


 しばらくして、ほとんど同じ場所から、二つ目の小石が滑り落ちてくる。


 弥助は足元ばかり見ていて気づかない。


 柳澈涵だけが、その何でもない草むらの一角をしばし見つめた。


 彼は静かにため息をつく。


「もうやめろ。」


 足を止め、行李を脇に置く。


「清洲で別れてから、山風の温度も何度か変わったぞ。いつまで草の中で覗き見を続けるつもりだ?」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、山風の中に、澄んだ「パッ」という音が二つ混じった。


 それは鳥の羽音ではない。


 薄い瓦片を指で弾き飛ばし、遠くの岩にぶつけて跳ね返らせた音だ。


 続いて、右手の林の中で、一角の木の葉が不自然に揺れた。


 三つの黒い影が、それぞれ別の方向からほとんど同時に姿を現す。


彼らの装束は、夜忍びが着る真っ黒ではなく、青味を帯びた墨色の忍装束だった。


粗い布だが体にぴたりと沿い、袖口や裾はきっちりと締められている。


腰には長刀ではなく、短刀、鉄の小鏢、縄、そして小さな煙筒。


草鞋の内側には、細い鉄爪がきらりと光っていた。


先頭の男の顔には、頬骨から顎へと斜めに走る古傷が一本。だが盛り上がることなく押し潰すように平らで、凄みよりも抑えた静かな印象を与える。


「清洲の夜は、命をお救いいただき、かたじけない。」


男は右手を胸の前、高さ半寸ほどの位置に上げた。指先は刀の柄まで、指一本分もない。


眼には殺気はなく、ただ術中の礼をわきまえた者の敬意だけがあった。


「甲賀・多羅尾家中忍、霧口弥一。」


左の幹の上から、一人が逆さにぶら下がるように滑り降り、ひらりと地に足を着けた。土ほこり一つ立てない。


「土橋半蔵。」


最後の一人は、少し離れた曲がり角から歩いてくる。


見た目はごく普通の旅人の歩みだが、一歩ごとに石と石のすき間だけを正確に踏んでいる。


「早見新十郎。先生なら、もう覚えておられるでしょう。」


弥助は口をぽかんと開けた。


「佐吉のおじさんが話してた、あの三人……。」


柳澈涵は軽くうなずいた。


「清洲の夜、城下町の瓦を一晩で踏み砕いてくれた三人衆だな。」


霧口弥一の目尻がわずかにぴくりとしたが、すぐに笑みに変わった。


「多羅尾殿の言伝です。」


彼は低く言う。


「いずれあの白髪の軍師が甲賀の山に足を踏み入れる日が来れば、まずは上客として迎え、それから昔の借りを考えろ――と。」


「もう白髪は黒く染めた。」柳澈涵は鬢を軽く整え、「だが、上客という言葉は、どうにも座りが悪い。」


土橋半蔵が袖から小さく折りたたまれた紙片を取り出し、差し出した。


細い筆線で一筋の山道が描かれ、脇に三文字だけ書かれている。


「多羅尾庄」


「山は六角と甲賀のあいだにありますが、道は影の中です。」早見新十郎が言う。「先生さえ構わねば、本日から、甲賀の影をひとまずお貸ししたい。」


弥助は思わず、柳澈涵のそばに一歩寄った。


「この前のこと……。」小声でぶつぶつ。「あの人ら、真夜中に刀持って先生の家に押し入ってきたんだぞ。」


「真夜中に刀を振り回しに来て、腕が足りなかった。」


柳澈涵は淡々と言う。


「なら、少しばかり授業料を払ってもらうだけの話だ。」


三人に視線を向ける。


「今日は、その授業料を取り立てに来たわけじゃあるまい。」


霧口弥一はしばし見返し、ふっと笑みを浮かべた。


「その資格はありません。」


彼が左右に軽く合図すると、二枚の瓦が再び空をかすめ、遠くの岩に当たって澄んだ音を立てた。


森の鳥の声が一瞬途切れ、すぐに何事もなかったように続く。


それは甲賀の「清場の礼」だった。


「多羅尾殿が、先生にお目にかかりたいと。」霧口弥一が続ける。「ただ、その前に、我らが代わりに殿の言葉を一つ伝えよと。」


「どんな言葉だ?」


「甲賀は雇われる影であって、従属する刀ではない。」


柳澈涵は、すこし眉を上げた。


「耳あたりのいいことを言うな。」


「耳ざわりがよくとも悪くとも、」早見新十郎が言う。「影が生き延びるには、そうそう倒れなさそうな木を一本、選んで寄りかかるしかない。」


土橋半蔵はふいに手首の縄を撫で、目にわずかな悪戯っぽさを宿した。


「多羅尾殿は、もう一つ申し付かっております。」と言って微笑む。


「清洲の夜、先生はたった一度、ほんの少しだけ本気をお見せになった。それだけで、我ら三人に一生ものの記憶を刻んでくださった。」


「もし今回、甲賀の山門をくぐるおつもりなら、ぜひもう一度、その本気を見せていただきたいと。」


弥助は目をむいた。


「またやるの?!」


「やるというより、」霧口弥一は訂正する。「先生の御教示を賜りたい。」


「どういう『教え』方だ?」


「三人同時にかかります。」霧口弥一は指を三本立てた。


「人を傷つけず、真毒も使わず、一炷の香の間に先生が我ら三人のうち誰か一人でも首筋に触れれば、我らの負け。」


少し間を置いて続ける。


「逆に、我らが先生の弟子殿に一切傷を負わせぬことを前提にしつつ、先生を三歩後ろへと退かせることができれば、我らの勝ち。勝とうが負けようが、旧怨はそこで帳消し。」


柳澈涵は薄く笑った。


「甲賀の礼というのは、趣がある。」


弥助の方へ振り返る。


「お前はそこの石に座って見ていろ。」と言う。「一炷香のあいだ、絶対に動くな。」


弥助は口をぱくぱくさせたが、結局は力いっぱいうなずいて木箱を足元に置き、箱の取っ手をぎゅっと握りしめた。


山風が、わずかに冷たくなる。


霧口弥一は深く息を吸い、指先で腰の小さな煙筒を軽く叩いた。


土橋半蔵の足元には、いつの間にかわずかに動いた落ち葉が一片。


早見新十郎は半歩だけ後ろに退き、光と影の境目にそっと身を置いた。


「始める。」霧口弥一が低く告げた。


次の瞬間、山道には風の音しか残らない。


弥助の目は、その瞬間に四方へ弾け散った影を追いきれない。


彼に見えたのは――霧口弥一の影が揺れたかと思うと、次の瞬間には霧に飲み込まれたこと、


土橋半蔵の姿は消えたのに、斜面の枯葉に小さな沈みがひとつ増えたこと、


早見新十郎は人と影が重なり、一筋の岩の割れ目に溶け込んだように見えたことだけだった。


その直後、柳澈涵の目の前で、ほの白い煙がふっと弾ける。


目潰し粉。


煙の量はさほどではない。だが、目と鼻を刺激し、人の本能として瞼を閉じ、顔をそむけさせるには充分だった。


弥助は慌てて息を止める。


だが柳澈涵は、煙の中で一瞬じっと立ち尽くした。


目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。


観己。


まず見たのは自分自身の心だ――目ではなく、呼吸で。


煙にせき立てられて鼓動は乱れていないか。


本能的な恐怖に、呼吸が早まってはいないか。


煙の中でも、彼の呼吸は一筋の乱れもなかった。


観人。


あらゆる音と匂いを、「人の影」として見る。


霧口弥一の足は、斜面の縁の一番高いところを好む。


つま先でぴたりと押さえ、落ち葉の下の土が、ほんのわずかに上へ弾む。


土橋半蔵は土遁を使う。


枯葉の下から立ち上る湿り気が、周囲と微妙に違う。


早見新十郎は紙鳶で視線を誘うのが癖だ。


枝先で揺れる細い糸が、そこだけ風向きと無関係に葉を震わせる。


観世。


この山道の風は、東南から西北へと吹く。


煙が風に乗って流れていく方向こそ、誰かが「見えなくしたい側」だ。


真の刃は、濃い煙の中ではなく、「安全」だと錯覚させられる背後に潜む。


「澄心の道。」


 彼は心の中で静かに呟いた。


「まず己の心を見澄まし、次に他人の意を見抜き、最後にこの場全体の偏りを見る。」


 煙が晴れる刹那、彼はつま先で地を軽く蹴った。


 前ではなく、斜めに半歩。


 一見ただの青石の上に足を置く。


 その石の下から、かすかな呻きが伝わってきた。


 土橋半蔵。


土遁は消える術ではない。


あらかじめ掘った浅い穴に身を横たえ、竹筒で呼吸し、その上に枯葉を散らして隠れる術だ。


穴は深くない。


石が上から小さく震えれば、胸の空気が一瞬詰まる。


柳澈涵は踏み抜くことはせず、その石をわずかに震わせるだけにした。


枯葉がぱらりと落ち、竹筒の先が顔を覗かせる。


ほぼ同時に、彼の指先は、ある者の首筋にそっと触れていた。


それは、霧口弥一が斜面の上端に躍り出て、上から跳びかかろうとした、まさにその瞬間だった。


霧口弥一は首筋にひやりとした感触を覚え、全身の力が、一つの目に射抜かれたように抜けた。


「実戦なら、」柳澈涵は淡々と言う。「この一指が、そのまま刀だ。」


早見新十郎が木陰から姿を現し、苦笑を浮かべた。


「我ら三家、術を磨いてきたつもりでしたが、」とため息をつく。「先生の『澄心三観』の前では、まだ歩き方も覚えていない子供のようですね。」


「術が足りないわけじゃない。」柳澈涵は笑う。「術を信じすぎているだけだ。」


彼は霧の向こうの空を仰いだ。


「影だけを見て、自分の心も、他人の心も、この世の風向きも見ないでいると、いずれ自分の影に殺される。」


霧口弥一はゆっくりと腰を折り、深々と礼をした。


「多羅尾家忍衆、」彼は低く言う。「本日より、澄原殿を『影を見る師』と仰ぐ。」


弥助は石の上で、呆けたようにその一部始終を眺めていたが、ようやくそこで息を吸うのを思い出し、湿った山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「忍術って、こんなにすごいんだ……。」


彼は呟く。「でも、先生のほうが、もっとすごく『避ける』んだな。」


「避けるんじゃない。」柳澈涵は振り向き、「先に心を澄ませておけば、影なんて怖くないだけだ。」


「さあ行くぞ。」彼は行李を持ち上げる。「お前たちの多羅尾殿に会いに行こう。この山を、どこの誰に売るつもりか、見定めないとな。」

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