第八十五話 観音寺の火影・火封じの守城
夜が更けた。
観音寺城の裏手では、山の背から吹きおろす風が、仏塔と倉廩のあいだをぐるりと回るように流れていた。
遠くでは低い読経の声が途切れがちに続き、近くは、抑え込まれたような静寂。
倉廩の外では、見回りの松明がふだんの倍は灯されていた。
蒲生定秀は肩に外套を羽織り、時々角を曲がっては姿を見せ、またいつの間にか姿を消す。そのたびに、見張りの兵たちは背筋を伸ばす。
「先生。」
弥助は影の中で身を縮め、声を潜めた。
「本当に、誰か火をつけに来るんですか。」
「来る。」柳澈涵は、柱にもたれたまま目を閉じていた。
「聞いてみろ。」
弥助は息を止めて耳を澄ました。
風の音。
旗が布を鳴らす音。
松明がときおり爆ぜる音。
……それから。
「二つ、足音が違う。」柳澈涵は低く言った。
「一つは軽すぎる。もう一つは、迷いすぎている。」
「どこに。」
「左の路地。瓦礫を踏んでいて、音を出したくない足だ。」柳澈涵はささやいた。
「右の薪山の後ろ。三歩ごとに止まる足だ。」
弥助は必死で音を探す。
やがて、風や旗の音の中から、ほんのかすかな不揃いを聞き取れるようになった。
「……聞こえる、かもしれません。」
「その感覚を覚えておけ。」柳澈涵は目を開けた。
「これから一人で夜道を歩くとき、月の明るさをあてにしなくて済む。」
そのとき、倉廩の反対側から押し殺した悲鳴が上がった。
「火だ!」
瞬く間に火が走る。最初は小さな火点だったものが、すぐに帯のように伸びた。
倉の周りに積んであった古い板が油をかけられており、その縁をなぞるように火が燃え広がっていく。
「水を!」
「風を遮れ!」
見張りは、事前の蒲生の指示どおり動いた。
一手は水を汲みに、一手は布を引きはがして風の向きを遮るために、一手は倉の扉の前に陣を敷き、火が近づくのを防ぐために。
蒲生は、すぐに火の中へ飛び込むことはしなかった。
燃え方を一目見て、静かに判断する。
「古い板だけだ。」
「倉の扉を守れ。」
彼は低く命じた。
「絶対に離れるな。」
柳澈涵は、火の方には向かわず、反対側の暗がりへと足を向けた。
弥助はぴたりとついていく。
「先生。」
「火をつけた奴は、火のそばにはいない。」柳澈涵はささやいた。
「本当に怖いのは、『火事のあいだに動く奴』だ。」
倉廩と武庫の間には、細い路地が一本ある。ふだんは薪や古い桶が積まれている。
今夜のそこは、静かすぎた。
柳澈涵は、石畳の目に沿って静かに歩いた。自分の足音が、火の方のどよめきに紛れるように。
風と火と叫びの音。そのほかに――衣擦れのかすかな音。
「先生。」
弥助は壁に体をつけたまま、小声で言った。
「今、聞こえました。」
「声を上げるな。」
路地の先に、しゃがみこんでいる影が一つ。手探りで何かをいじっている。
そばには小さな桶がいくつか転がり、月明かりに油の鈍い光がちらりと見えた。
ここに火が回れば、ただの“古板の火事”では済まない。
柳澈涵は一度目を閉じ、深く息を吸った。
反対側で燃え盛る炎を、あえて意識から遠ざける。
――一人はしゃがんでいる。
――一人は、屋根の上、庇の端を伝っている。
――もう一人は、別の路地から武庫の門に近づいている。
「弥助。」
「はい。」
「右の路地の口を見てろ。門に飛びかかる奴がいたら、その手を叩き折れ。」
「わかりました。」
柳澈涵は足を少しひねり、一歩前へ出た。
つま先で、小さな石をそっと蹴る。その石は、黒い影の足元まで転がっていった。
影は反射的に身をすくめ、顔をわずかに上げる。
その瞬間を逃さず、柳澈涵は片手で柄を押さえ、もう一方の手で鞘尻を握る。刀そのものを抜くことなく、短い棒のようにして男の胸元へ横から打ち込んだ。
「ぐっ――」
鈍い呻き声とともに、男は後ろへ転がり、手にしていた火折りが飛び散る。
柳澈涵はすぐさまその火折りを靴底で踏み潰した。
小さな火花が、じゅ、という音を立てて消える。
刀はまだ鞘の中だ。鞘の先端だけを男の喉に押しつける。
「もう一度動けば、今夜の火は、二度と見えなくなるぞ。」
そのころ、弥助の側でも動きがあった。
路地の出口から、武庫の門めがけて一つの影が飛び出してきた。手には、鈍い光を帯びた何か。
弥助は歯を食いしばり、影から飛び出して、両手で握った木鞘を相手の前腕に叩きつけた。
男は悲鳴を上げ、手から物を落とす。それは刀ではなく、小ぶりの鉄槌だった。錠前を壊すには十分なものだ。
「この……!」
男は怒号とともに足を上げ、弥助を蹴り飛ばそうとする。
弥助は下がらず、逆に体を寄せて肩で相手の腰を押し上げた。
それは決して綺麗な形ではなかったが、相手の重心を崩すには足りた。
男はよろめいて武庫の扉に背中からぶつかり、「ドン」と鈍い音を立てる。
弥助はその隙に相手の手首を掴み、ありったけの力でひねり上げた。
骨が「ごきっ」と鳴り、男はもんどり打って片膝をつく。
「動くな!」
叫んだ本人が一番驚いていたが、それでも声は出た。
柳澈涵の方では、押さえつけられた男の手が背後で縛り上げられていた。
庇の上の影は、騒ぎに紛れて逃げようと、瓦の上を走り出したところだった。
瓦に足がかかる、そのほんの瞬間。
「降りろ。」
柳澈涵は鞘の先で瓦の端を軽く持ち上げた。
支えを失った足が空を切り、男の体は屋根から落ちて地面に叩きつけられる。
そこへ蒲生が駆けつけてきた。
炎は古い板の一角だけを焼き、倉の扉からは離されていた。
「被害は。」六角義賢が倉の前で問う。
「死者なし。」蒲生が答えた。
「見張りの眉毛が少し焦げた程度です。」
「倉は。」
「無傷。」
縛り上げられた三人を灯りの下に引き出すと、布の頭巾の下から現れたのは、どこでも見かけそうな顔だった。半分は山賊、半分は流れ者。
「また『金で雇われた手』か。」三雲は鼻で笑った。
「誰に頼まれた。」
「し、知りません。ただ……。」一人がとぼけようとする。
「その布を見せてみろ。」
柳澈涵が指さしたのは、彼らの襟の内側に縫いつけられた布切れだ。
そこには粗い線で、どこかで見たような紋様が描かれていた。どこか、浅井の境で見かけた「偽の六角旗」に似ている。
「この印、どこかで見たことがある。」蒲生は低くつぶやいた。
「旗を誤魔化そうとして、かえって下手さが出たな。」柳澈涵は布を眺めながら言った。
「誰を装っているつもりかさえ、学びきれていない。」
三人は、黒幕の名だけはどうしても口にしようとはしなかった。
「斬るか。」三雲は、むずむずと腰の刀に手をかける。
「ひとまず繋いでおけ。」蒲生はその手を押さえた。
「斬るのはたやすいが、城外で火を点ける手を突き止める方が骨だ。」
六角義賢は、少し離れたところからその様子を見ていた。
炎は徐々に収まり、焼け焦げた板だけが黒い輪を描くように残った。
「今夜、我々は負けなかった。」彼は低く言った。
「負けなかった理由は、あの男だ。」
視線は、柳澈涵へと向かう。
「六角殿。」柳澈涵は手を合わせて礼をした。
「本当に負けなかったのは、あなた方自身です。もし先に取り乱していたら、私がどれだけ風を聞き、刀を振れたとしても、救えるのはせいぜい数袋の米だけだったでしょう。」
義賢は、笑うともため息ともつかぬ息を漏らした。反論はしなかった。
彼は背を向けて蒲生に言った。
「明日、仏堂で話そう。『道』と『人』について、もう少し。」
夜風が吹き抜け、炎の残り火が小さな赤い点になっていく。
弥助は、壁にもたれた途端、足から力が抜け、その場に座り込んで大きく息を吐いた。
「先生、さっき……俺、蹴り飛ばされそうでしたよね。」
「あと半歩でな。」柳澈涵は隣に腰を下ろした。
「だが今の一撃は、なかなかだった。」
弥助は、どこかぼんやりした笑みを浮かべた。
「じゃあ、俺……六角の倉を守るのを、ちょっとは手伝えましたか。」
「手伝ったさ」
柳澈涵は、彼の髪をくしゃりとかき回した。
「そのうち海北殿に吹いてやれ。『六角の倉の前で、ハンマー一つ止めてやった』って。」
観音寺の鐘がまた一度鳴った。
そこには、さっきまで燃えた木の匂いが、うっすらと混じっている。燃え残った運の匂いも、ほんの少し。




