第七十九話 山腰の夜風・風を聴き、影を踏む
夜が更け、雲が月をすっかり覆い隠した。
庵の中では、島田と足軽二人が粗末な布団にもぐり込んで横になっている。阿閉貞征は壁にもたれて目を閉じているが、刀はすぐ手の届く位置に置かれていた。
柳澄原はすぐには眠らなかった。
庵の出入口の内側に胡坐をかき、背を柱に預けて目を閉じている。休んでいるように見えるが、足の裏は静かに床に貼りついている。
弥助はその隣に膝を抱えて座り、眠気と緊張がまぶたの上で綱引きをしていた。
「先生。」
彼は声を絞る。
「さっきの『足跡』って……。」
「先に自分で怯えない。」
柳澄原はささやくように言う。
「まずは、聞け。」
「……何を?」
「風を。」
庵の外では、風が老槐の枝を揺らし、ざわざわとした音を立てている。その揺れが一つの呼吸のような、一定のリズムを刻んでいる。
その呼吸に、ふと、木ではないものの気配が混じった。
弥助には聞き分けられない。だが柳澄原は、わずかに目を開けてから、またゆっくりと閉じた。
足裏を通じて、ごく微かな振動が伝わってくる――風でも、枝の落ちる音でもない。土と石を踏みしめる力が、地面ごしにじんと響いていた。
「鎧の音がする。上から登ってくる。」
柳澄原は低く言った。
「え?」
弥助はぽかんとする。
「鉄板と鉄板が触れ合う音。」
柳澄原は続ける。
「枝より硬く、風より重い。」
庵の外、山道の上方から、ごくかすかな金属の触れ合う音がしたか思うと、すぐに風の音に紛れた。
「もう一組。足音の軽い者が、裏手を回っている。」
柳澄原は目を閉じたまま眉間だけをわずかに寄せる。
「踏んでいるのは、土と草。音が散っている。」
弥助は耳をそばだて、庵の裏手の草むらで、かすかな擦れを聞き取る。
「それから――。」
柳澄原の眉がぴくりと動いた。
「弓の弦が、掛けられる音。」
庵の脇の斜面から、ほとんど聞こえないほどの「ぶん」「ぶん」という音が続けて立つ。弓弦が静かに引き絞られ、そこで止まった音だ。
「阿閉殿。」
柳澄原は囁く。
阿閉はぱちりと目を開け、同時に刀の柄に手をかけた。
「庵の前の道に、甲を着けたのがいる。」
柳澄原は言う。
「裏手の草むらには、足音の軽い者が数人。斜面の上には弓持ち。こちらが戸を開けるのを待っている。」
阿閉は、どうして分かるかなどとは問わない。
「位置は。」
「庵の入口から三丈ほど先に、少し窪んだ石がある。」
柳澄原は言う。
「甲を着けた者は、そこを踏む。裏の槐の根元に空いた一角がある。足はそこに止まる。」
阿閉は一つ頷いた。
「承知。」
彼は声を落として島田と足軽を起こす。
「音を立てるな。灯も点けるな。」
庵の中の火はほとんど消えかけるほどまで絞られ、かすかな赤だけが残った。
やがて、庵の外の山道から、低い口笛が聞こえてくる。
それに合わせるかのように――
闇の中から矢の雨が、庵の入口めがけて一斉に降り注いだ。
木の扉に次々と矢が突き立ち、「ドン、ドン」と鈍い音を立てるが、扉はまだ破られていない。
「今、戸を開けるのは駄目だ。」
柳澄原の声は静かだ。
「出た瞬間に、的になる。」
外の足音が、庵の前で止まる。甲冑の重い足音が、石を踏みしめる。
「阿閉殿。」
柳澄原は低く告げた。
「あなたは戸の二歩後ろで、この細い線を守る。やつらが戸に体当たりしてきたら、刀を戸の継ぎ目から差し出せば足りる。」
阿閉は深く息を吸い、そっと立ち位置を変えた。
庵の裏手では、草の中の気配が壁際へにじり寄っている。誰かが壁を指で押して、強度を確かめているようだ。
「弥助。」
柳澄原は囁いた。
「いつも私に言われて、関節を叩いているのを覚えているね。」
弥助は唾を飲み込む。
「覚えてる。」
「裏にいる、一番足の軽い奴だ。」
柳澄原は言う。
「そいつが腰を据えた瞬間を狙って、叩け。」
「どこを?」
「膝の裏。」
弥助は汗で滑りそうな手で、太い木の棒を握り直した。
外の足音は、庵の戸の前でとうとう止まった。
「中の者、よく聞け――。」
戸の向こうから、押し殺した声が響く。近江訛りが混じる。
「文箱を置いて出てこい。そうすれば命だけは助けてやる。」
島田の体が、びくりと震える。
「本当に六角の兵なら、そんな言い方はしない。」
柳澄原は淡々と言った。
「どうして……?」
島田は小声で問う。
「やつらが欲しいのは『面子』だ。」
柳澄原は言う。
「こいつらが欲しがっているのは『銭』。」
戸板が、外から一撃で揺さぶられる。
阿閉は息を殺し、刀の柄を握りしめて壁に背をつけた。
二度目の打撃で、戸板にひびが入る。三度目には、鉄手甲をはめた手が割れ目から差し込まれた。
「今だ。」
柳澄原が告げる。
阿閉の刀が、戸板の継ぎ目のすぐ横から横一文字に伸びる。刃は腕と肘の継ぎ目をかすめた。
鉄手甲が刃の勢いをいくぶん殺したが、関節に伝わる衝撃までは受け止めきれない。男は短くうめき、手首から力が抜け、その勢いで戸板を自分の方へ押し戻してしまった。
「あと二人、裏へ回った。」
柳澄原の耳が揺れる。
「弥助。」
庵の裏で、弥助は壁に背中を押し付けてしゃがみ込んでいた。心臓が喉元まで上ってきそうだ。
草むらから、黒い影が一つ、物音も立てずに顔を出す。庵の高さを一瞥し、足元を探りながら、槐の根元のあたりへと移動してくる。
ちょうど一歩踏み込もうとした瞬間――
膝裏に重い一撃が落ちた。
弥助は歯を食いしばり、全身の力を込めて木の棒を振り抜いていた。
「ぐっ……!」
男の短い悲鳴が漏れ、膝から崩れ落ちる。半身を壁にぶつけながら倒れ込んだその肩口に、庵の内側から待ちかまえていた足軽の槍先が、間髪入れず突き込まれる。
血の匂いが一気に立ちこめた。
弥助の手は震えていたが、握った棒を離そうとはしなかった。
庵の前では、戸板がついに半分ほど裂けた。
甲冑の男は、一気に刀で叩き切る決心をしたらしく、両手で柄を握り、振りかぶる。
ちょうどその時、足元の少し窪んだ石を踏み――
その石には、昼のうちに柳澄原が目を付けていた。意図的に周囲に小さな砂利を散らしておいたため、踏んだ途端に足を取られる。
男の体が前に傾き、刀勢は自然と下へ落ちた。
「澄心一刀流――風聴き。」
柳澄原は低く呟く。
彼はすぐには刀を振らず、まず足先で地面を軽く叩き、倒れ込む方向と重心の動きを読んだ。
その次の瞬間、彼の刀が戸板の割れ目からすっと伸びる。狙うのは首ではない。腰のやや上、数本の大筋が交わるあたり。
一太刀で、力の流れだけを断ち切る。
男は叫ぶ暇もなく、その場に崩れ落ちた。
庵の脇の斜面から、再び冷たい矢が飛んでくる。だが、阿閉があらかじめ構えていた盾がそれを弾いた。
「弓は左上。」
柳澄原は、つま先で床を素早く打つ。
「位置を変えて――足元に気をつけて。」
阿閉は、倒れた甲冑の男を跨ぎ、庵の入口と壁の角をうまく利用し、矢の集中する角度から外れた。
ちょうど立ち位置を整えたところで、柳澄原の声が耳に届く。
「右前に軽い足音。」
足音は、別の石から飛び降りた男のものだった。側面からの奇襲を狙っている。
柳澄原が立ち上がる。
澄心一刀流、影踏み。
最初の一歩で、敵が次に踏み込もうとしている足場を先に踏み、行き先を奪う。
次の一歩で、退こうとする足場の石を踏み、石ごと重心を傾ける。
三歩目には、すでに敵の背後に回り込み、地面に映る影と本体の輪郭が重なる線上に、刀をすっと差し入れた。
月のない夜だが、庵の中の小さな灯と、どこか遠くの火だけが、わずかな影を地面に落としていた。そのかすかな光があれば、影と実像の継ぎ目は、彼には十分見える。
刃が、影と脚の境目を一閃して抜ける。
男は背筋に冷たいものが走るのを感じ、次の瞬間には右脚から力が抜けて前に倒れ込んだ。
命までは取っていない。だが大腿の外側の筋が正確に断たれ、二度とまともに立ち上がることはできない。
「退け。」
少し離れたところから、低い声が飛ぶ。
斜面の弓持ちは最初に身を翻し、足音を散らしながら高みに消えた。庵の前に残っていた影も、互いに肩を貸し合いながら負傷者を引きずり、山道の両側へ退いていく。
去り際に、誰かが風に紛れるような声で吐き捨てた。
「小谷には、夜でも道を見失わない奴がいるとはな。」
その言葉は風に攫われ、闇に溶けた。
庵の中では、しばらく誰も口を開かなかった。
先に刀を収めたのは阿閉だった。彼は振り返り、柳澄原を見据える。
「今の数歩……大軍の中で使えば、敵陣の中に、脚の利かぬ者がずいぶん増えよう。」
「それは、皆が足元の声に耳を貸すなら、の話だ。」
柳澄原は答える。
弥助は壁に背を預け、大きく息を吐いていた。木の棒を握る手はまだ震えている。
「先生……。」
声はからからに乾いている。
「今の人たちって、忍者……なの?」
「忍び、というには大したものではない。」
柳澄原は言った。
「ただの、汚れ仕事を請け負った足だ。本当に『忍ぶ』なら、伊賀の山の連中の方がよほど。」
「伊賀?」
弥助は目をぱちぱちさせる。
「いずれ、見ることになる。」
柳澄原は言う。
「今夜はただ一つ覚えればいい。夜に風を聞くときは、まず誰の足が重く、誰の足が軽いかを分けること。」
彼は弥助の肩に手を置き、軽く押さえた。
「あの一撃は、よく当てた。」
弥助は鼻の奥が熱くなり、無理に笑ってみせる。
「先生に言われたところを、そのまま叩いただけだよ。」
やがて夜が白み始め、山霧は少しずつほどけていった。




