第七十二話 城下騒擾・鎖界の街鎮め
永禄八年、春も末になり、小谷の雪はようやくほとんど溶け、街路には凍てついて割れた石畳が顔をのぞかせていた。
その日、城下の市はいつもより一段と騒がしい。
米の値は目に見えて上がり、店先では喧嘩腰の口論が絶えない。そのうえ、ところどころに古びた浅井家の甲冑を身につけた連中がうろつき、「税が重い」「米が軽い」とぶつぶつ言いながら、わざと人の群れに波風を立てている。
柳澈涵は本来、弥助を連れて薬草を買いに山を下りただけだった。
「先生、こっちに甘草があります。」弥助が目ざとく言う。「あっちには黄耆みたいなのも。」
「見るのはよいが、勝手に手は伸ばすな。」柳澈涵は弥助のうなじを軽くつまみ上げ、麻袋を担いだ人々の流れを避けて歩く。
そのときだった。通りの入口が、突然ごった返した。
「税を滞納した」と言い立てられた一人の百姓が、屈強な家人二人に地面に押しつけられ、高く振り上げられた棒が今にも振り下ろされようとしている。
「浅井家が取るのは米じゃない、貴様らの命だぞ!」
人ごみの中から、一つの声が飛ぶ。
声そのものは大きくはないが、露骨な煽りの響きを帯びていた。
人垣の後ろで、いくつかの小さな旗が揺れる。描かれているのは浅井の三つ巴ではなく、雑な線で描かれた六角の紋だった。
弥助は反射的に先生の背中の陰に身を滑り込ませる。
「どうして六角の旗が?」
「本物の六角の旗が、あんなに薄汚れているものか。」柳澈涵の目がすっと細くなる。
通りは広くない。両側には木の家が並び、荷車も行儀悪く止められている。ひとたび本格的な乱闘になれば、この通りはたちまち「壺口」と化すだろう。
数人の浪人が、わざと人波の中で押し合いへし合いし、百姓を真ん中に押し出し、中央に混乱した「場」を作り出そうとしていた。
柳澈涵はゆっくりと息を吸う。
「お前はこの板の後ろに。」傍らに立てかけられていた古い戸板に弥助を押し込みながら言う。「誰かが突っ込んできたら――膝を打て。」
「また膝ですか……。」弥助は小さく不満を漏らす。
「膝は歩くための関節だ。」柳澈涵は静かに言う。「今日は奴らの脚だが、明日はお前の脚かもしれん。」
通りの入口の叫び声は、次第に罵声へと変わり始めていた。
「浅井の飼い犬め!」
「六角はこんな重税は取らなかったぞ!」
罵声の渦の中で、ふいに刀身が陽光を反射した。誰かが混乱に紛れて刀を抜き、地面に押しつけられた百姓めがけて振り下ろそうとする。
刃が落ちかけた、その瞬間。
横合いから一筋の刀光が斜めに飛び込み、その刃を叩き上げた。
刀身はわきの荷車の板に叩きつけられ、木屑が飛び散る。
「浅井の小さな城で、好き勝手に刀を振り回せば――割れるのはお前たち自身の飯椀だぞ。」
その声は大きくはなかったが、喧噪の中を鋭く貫いた。
澄原龍立が、通りの真ん中に立っていた。刀はまだ本格的に振り上げられていないが、足元にはすでに幾筋ものうっすらとした線が刻まれている。
先ほど彼が刀を抜いた際、刃先はさりげなく石畳をなぞり、その跡は何気ない引っ掻き傷のように残されていた。
澄心一刀流・鎖界。
浪人たちは勢いに乗じて一気に踏み込もうとするが、自分たちの足がどこを踏んでいるのかに、まだ気づいていない。
一人の足は、ちょうど石と石の継ぎ目が交わる場所――柳澈涵が意図して刃を通した「界点」の上に落ちた。靴底が滑り、その男は前のめりに倒れかける。
もう一人がそれを避けようとして動いた瞬間、背後から仲間に押され、二人して細かく刻まれた「界線」の中へ転がり込んだ。
柳澈涵の刃は、頭を狙うことはしない。ただ、肘の内側、膝の前、踝の後ろといった場所に、無駄のない角度で次々と落とされていく。
狭い通りの中で、刀勢は連続して繰り出されているのに、そこには余計な動きがほとんどない。
荷車の後ろから、一人が身をかがめたまま飛び出し、背後から突き刺すように刀を繰り出してくる。
刃先が光を帯びて覗いた、その瞬間。
戸板が勢いよく飛んできて、その男の膝をしたたかに打ちつけた。
「痛っ!」弥助が歯を食いしばる。「先生が“膝を叩け”って言ったから!」
浪人はたまらず片膝をつき、手から離れた刀は宙を舞い、その後ろから突進していた仲間の足をもつれさせて、二人まとめて地面に転がった。
柳澈涵はその隙を逃さず半歩踏み込み、うち一人の肩甲骨の付け根に刃先を軽く滑らせた。男は右腕から力がすうっと抜けてしまい、肩を抱いて呻くしかなくなる。
通りの人々は最初こそ野次馬として眺めていたが、次第に様子の違いに気づき始めた。
これは単なる「税争い」ではない。六角の名を騙り、城下を乱そうとする企みだ。
そのとき、通りの奥から短い鼓の音が聞こえてきた。
浅井城下の小隊が駆けつけてきたのだ。
「やめよ!」
鋭い叱声が人垣を割って飛び込んでくる。
先頭に立っていたのは、痩せた背の高い武士。腰の鞘は使い込まれて光り、鎧は新しくはないものの、隅々まで手入れが行き届いている。
遠藤直経。
彼は一目で通りの真ん中の刀光と、倒れている者たちとを見て取り、おおよその事情を瞬時に掴んだ。
「六角の旗を掲げている者を、まずそこへ押さえつけろ!」遠藤は怒鳴る。「さらに刀を抜けば、その場で斬る!」
浪人たちは形勢が悪いと見るや、さらに混乱を煽ろうとする。しかし、気づけば誰もが膝をついているか、手足に力が入らず、まともに立ち上がることさえできなくなっていた。
「遠藤殿。」柳澈涵は刀を収め、半歩下がる。「通りの端に重傷の者が何人かおります。もし差し支えなければ、先に手当てをさせていただきたい。」
遠藤は彼の刀と顔とを見比べ、一度だけ頷いてから、深々と一礼した。
「お手を煩わせてすみませぬ、澄原殿。」
通りの騒ぎは、半刻ほどで押さえ込まれた。
雑な六角の旗を振っていた連中は縄で縛られて屯所へ連行され、城下の百姓たちは被害の聞き取りと記録を受けたのち、少しずつ家路へと送り返されていく。
夕刻。雪上がりの空には、灰に淡い金を混ぜたような光がにじんでいた。
城下の小さな寺には、いくつかの紙灯籠が吊るされている。
「澄原殿が刀を振られたところは、どこも致命の急所を避けておられた。」
雨森弥兵衛は茶碗を手に、寺の廊下に腰を下ろしていた。目の前には、ちょうど灯が落とされた本堂の仏前がある。
「乱民と、旗を騙っている者が入り混じった通りで、もし首を落とすことだけを愉しんでいたら、今日の小谷の城下には、新しい恨みが一層積もっていたでしょう。」
「拙者はただ、刀を振り下ろす線の先に、まだ人が歩いていくべき道が残っているかどうかを確かめる癖があるだけ。」柳澈涵は向かいに座り、答える。「斬るべきときは、斬るべきものを斬る。ただし、役に立つ斬り方を選びたいだけでござる。」
雨森の眼差しは、海北のような鋭い切っ先とは違うが、別種の細やかな刃を宿している。
彼は目の前の若き「澄原殿」を、書きかけの巻物でも眺めるような眼で観察していた。
「清洲から来たと聞いております。」雨森は口を開く。「兵舎の者たちは、あなたが見ていたのはこの地の兵の脈だけではないとも言っていた。」
「旅を続ける者は、橋のどこが朽ちているかを知っていなければならぬ。」柳澈涵はふっと笑う。「今日の通りは、危うく壊されるところだった橋板だ。あなたも、修繕しなければなりますまい。」
雨森は袖の中の筆に目を落とす。
「そうですな。私も、修繕をせねば。」
その夜、小谷城の中では、いくつもの文書が驚くほどの速さで書き上げられた。
城下の百姓に宛てた慰撫の書状、いくつかの村々の年貢を調整する書状、そして六角のもとへ送る一通の「照会文」――あの浪人たちは六角家の者として扱ってよいのかどうかを、あえてただす書状である。
「六角が否定するなら、『旗印を偽って乱を起こした』という新たな勘定が一つ増えます。」雨森は長政に言う。「否定しないにせよ、なぜ浅井の領内にあんな連中を放っておいたのか、説明を求めることができます。」
「澄原のことはどう見る。」長政が問う。
雨森はしばし考え込む。
「今日から城下の多くの者が、あの名を覚えるようになるでしょう。」
そして静かに続けた。
「けれど、本当に彼を覚えていなければならないのは、我らのほうです。」




