第七十話 小谷兵舎・海北試し鋒
永禄八年(西暦一五六五年)早春。小谷城下を吹き抜ける風には、まだ雪の気配が混じっていた。
城外から吹き下ろす山風は残り雪を巻き込み、城下の兵舎の中だけが、別の意味でむっとする熱気に満ちている。汗の臭い、薬草の匂い、古びた甲冑に染みついた錆と油の匂いが混じり合い、その中に男たちが声を潜めて交わす悪態と笑いが溶け込んでいた。
柳澈涵は兵舎の一番奥、低い寝台に腰掛け、袖を少し捲り上げて、一人の兵の手首に指先を軽く添えていた。
弥助は薬箱を抱えたままそばにしゃがみ込み、先生の指先の動きを目で追っている。
「脈は浮いて散っている。夜中、咳がひどいな?」と柳澈涵。
兵はどこか気まずそうに身じろぎした。
「は、……澄原殿。この冬は夜番が多くて、衣服を余計に着込むのも惜しんでおりまして。咳も長く続いて……」
「衣は惜しんでも、酒は惜しまぬと見えるな。」柳澈涵は涼しい声で言った。「舌苔は赤く、咳の音より酒の匂いのほうが濃い。」
周囲の兵たちがどっと押し殺した笑いを漏らし、その兵の顔は火鉢から今しがた引き上げたばかりのもののように真っ赤になった。
柳澈涵は手を離し、顎で弥助に合図して針を取らせる。
「まず大椎と肺兪に鍼を打つ。それから中府と列缺を通してやる。」そう言いながら、兵の背と胸の前を軽く押し測る。「人間、飯は何度か抜かしても、夜冷えを多少我慢してもまだ持つ。だがこの二つの場所を寒さに晒し続ければ、そのうち刀を持ち上げることすらできなくなる。」
銀の鍼が次々と刺さっていくと、兵舎の中は思わず静まり返った。
ここ数日、自らを「澄原龍立」と名乗るこの流れ者は、毎日のようにここに座っている。最初に現れたとき、皆はまたどこからか流れてきた行脚の医者だろうと高を括っていた。ところが彼が何本か鍼を打っただけで、半冬の間咳に悩まされていた連中が、その晩久しぶりにぐっすり眠れたと言い出す。凍えて痺れていた脛も、何度か灸を据えるうちに、見張り番がまるで刃の上に立つようだと言わなくなった。
「次。」
柳澈涵が顔を上げる。
そのとき、外から足音が近づき、毛の幕が一気に捲られた。今度は本物の雪気を含んだ冷気がどっと室内に流れ込む。
一人の大柄な武士が兵舎に歩み入り、甲冑はまだ解いておらず、肩には溶けきらぬ雪水が残っている。眉の端には戦いの余韻にも似た、どこか満足げな光が残っていた。
「この小屋から聞こえるのは咳ばかりかと思っていたが。」男は高らかに笑った。「銀の鍼が飛び交っているとはな。」
弥助の目がぱっと輝き、小声でつぶやく。
「海北殿だ。」
海北綱親。
浅井家きっての猛将の一人であり、たいていは城外で隊を率いての演習や巡山を常とする。小谷城下の兵たちにとって海北といえば、真っ先に思い浮かぶのは、あの前しか見えていないような猪突猛進の勢いだ。
「海北殿。」関所の小隊長が慌てて立ち上がり、出迎える。
海北はそれを手で制し、その視線はすでに並んだ銀の鍼に向けられていた。
「このところ連中が揃って言っておる。」海北は柳澈涵をじっと見据え、笑みの中にわずかな値踏みの色を混ぜる。「『刀の使い手の先生』が兵舎で鍼を打っているとな。今日はわざわざ戻ってきた。」
「経絡の理を少々かじっているだけの身。」柳澈涵は静かに立ち上がり、軽く身をかがめた。「海北殿のお名に引かれ、この身には過分の誉れでござる。」
「過分ということはないさ。」海北はどかりと火鉢のそばに腰を下ろした。「ただ、一つ澄原殿の手を借りたいことがあってな。」
そう口にした途端、兵舎の外から軍鼓の音が響いてきた。
「今日は雪がいくらか弱まったのでな。」海北は立ち上がり、外を指さす。「山腹まで登って、ひと通り突撃の稽古をしてきた。澄原殿さえ嫌でなければ、浅井の足がまだ走れるかどうか、見ていただこうと思ってな。」
弥助の目はますます明るくなる。
兵舎の外、小さな練兵場の雪は踏みしだかれて穴だらけになっている。半円状に打ち込まれた木杭が並び、その間を駆け抜けるのが稽古だ。数人の兵が今しがた走り終えたところで、肩で荒い息をついていた。
「もう一度だ。」海北が手を振る。「澄原殿への、初顔合わせの挨拶と思え。」
兵たちは互いに顔を見合わせ、観念したように歯を食いしばって応じる。
再び鼓が鳴り響き、一人の若い足軽が先頭に飛び出す。雪と氷を踏みしめる足音が鈍く響き、木杭の最前に差しかかったところで、片方の足がふっと抜けた。
兵はそのまま前に倒れ込み、雪の上を何度も転がった。
膝を押さえ、脂汗を浮かべている。
「またその古傷か。」海北が眉をひそめる。「前に山腹で滑ったときのものが、まだ治らんのか。」
「は、はい……海北殿。」兵は歯を噛みしめながら答えた。「もう少し、持つかと……。」
「持たせ過ぎれば、そのうち逃げたくても走れんぞ。」海北は鼻を鳴らす。
柳澈涵はすでに膝をつき、兵の膝の周りを指で押さえていた。
「古傷が癒えぬうちに、寒と湿に封じられておる。」顔を上げる。「このまま無理に走れば、そのうち歩いているだけで膝から崩れ、そのまま立てんようになる。」
そう言って、弥助に針を取らせる。
「委中、陽陵泉、足三里。」
委中は膝窩の中央、陽陵泉は腓骨小頭の前下縁、足三里は外膝眼から三寸下。
銀の鍼が肉に入ると、兵はびくりと身を震わせた。やがて膝に隠れていた鈍い痛みが少しずつ引き出されていくのを感じる。まるで一本の糸が膝の裏から脛へ、さらに足の甲へとゆっくりと引き抜かれていくかのようだ。
「しびれが下に降りてきたか?」柳澈涵が問う。
「はい……何か虫が中を這っているみたいで……。」兵は息を荒らしながら答える。
「虫ではない。」柳澈涵は淡々と言った。「それはお前があの頃の戦場に置いてきた力が、まだ残っているということだ。」
海北は傍らでじっと見つめ、目を細めた。
一炷香ののち、鍼を抜き灸を終えると、その兵は恐る恐る地面に足をつけた。膝にまだいくばくかの頼りなさは残るものの、その奥には、今までなかった確かな支えを感じる。
「今また走らせるのは、ただの無茶だ。」柳澈涵は立ち上がり、海北に向き直る。「ここ数日は上半身だけ鍛えさせてやってください。脚はしっかり養わねばなりません。」
海北は頭をがしがしと掻き、ふんと鼻を鳴らす。
「口うるさい医者だな。」
そう言うが早いか、腰の刀を抜いて雪の上に突き立てた。
「古傷の脚は救えるそうだが、生きている刀は救えるか?」
柳澈涵は静かに刀を見た。
「海北殿……」関所の小隊長が思わず声を上げる。
「心配するな、命までは取らん。」海北は笑った。「ただな。山道で一陣を食い止めたという澄原殿の腕前、その手にある刀を見ずにおると、どうにもむずむずしてな。」
兵舎の外、小さな練兵場は急に静まり返った。
弥助は胸はきゅっと縮みあがるが、不思議と期待も同じだけ膨らんでいく。
「刀が見たいだけなら、兵の脚をわざわざ試す必要はない。」柳澈涵は雪に突き立った刀をすっと抜き、刃に付いた雪を払って、刀背を指先で弾いた。澄んだ音が短く響く。
「拙者の使うのは、せいぜい『鍼を打つための刀法』でござるが。」
「刀にも鍼用と薬無し用があるのか。」海北は大笑いすると、部下の腰から自分の佩刀を抜き取った。「よし、では一太刀交わしてみよう。」
二人は向かい合って立つ。
海北の体は大きく、両足は地面に深く根を下ろしたように安定している。ひとたび刀を振り上げれば、そのまま全身ごと前へと飛びかかってきそうだ。
柳澈涵はほんの少し身を斜めにし、つま先で雪の固いところを探り当てる。構えた刀はわずかに低い。
最初の一太刀は、海北が上から下へと叩きつけてきた。
猛将の刀には二つしかない。人を斬る一太刀と、刀を折る一太刀だ。
柳澈涵は刃を真正面から受けることはせず、わずかに一歩踏み出して、刀身を横から差し込むように動かし、海北の肘の内側をかすめるように切り払う。
その一撃は軽く、甲冑を裂くこともない。腕に浅い傷が残っただけだった。
だが海北の手首には痺れが走り、その一太刀の勢いはたちまち三割ほど削がれる。
「澄心一刀流・解節。」柳澈涵は淡々と言う。「まず断つのは、刀勢の関節でござる。」
海北の目の中で、かえって戦意の炎が勢いを増した。
次の一太刀はぐっと詰めて、角度を低く絞り、柳澈涵の脇腹を狙って斬り込んでくる。
柳澈涵はつま先で雪を軽く蹴り、魚のようになめらかに身を滑らせる。雪面に弧を描く刀光がひらりと走り、今度は海北の膝前に落ちた。その刃先は、ちょうど筋と骨が交わるあたりに触れただけだが、角度は容赦ない。海北にははっきりとわかる。もしこのまま一歩踏み込んでいれば、膝は確実に捻じ曲げられていたと。
「挫筋。」柳澈涵は手首を返し、刃先を軽く持ち上げた。「奪うのは脚から噴き上がる爆発力であって、脚そのものの命ではない。」
周囲の兵たちは目を丸くして見ている。
彼らがよく知っているのは、海北の突撃だ。一度走り出せば、味方の列ですら巻き込んでしまうほどの勢い。その海北が、いま目の前で、この数太刀だけで嫌でも悟らされている。
――もし敵陣の中で今のように突っ込めば、おそらく最初の一合で半ば身動きの取れない状態にされるだろう、と。
第三合目に入る前に、海北は刀を引き、二歩ほど大きく後ろへ下がると、豪快に笑い声を上げてから刀を鞘に収めた。
「十分だ。」彼は歯を見せて笑う。「これ以上続けたら、今日はもう脚が動かんな。」
そして柳澈涵に対して、きちんとした所作で一礼した。
「澄原殿、その腕前。もし敵陣の中におられたら、拙者は先に自分の脚の腱を断ち切ってからでないと、とても突っ込む気にはなれませぬ。」
柳澈涵も礼を返す。
「海北殿が冬酒を少し控え、ご自分の脚のことをもう少し労ってくだされば、来年の雪の中でも、もっと長く走れるでしょう。」
兵舎の中に笑いが広がった。その笑いの底には、言葉にしがたい畏怖が、うっすらと沈殿している。
この日を境に、小谷兵舎で語られるのはもはや「外から来た医者」ではない。
――あの澄原先生は、鍼も刀も同じだけの腕だ、と。
遠く、小谷城の主楼が霞の向こうにぼんやりと見える。
そこから、いくつもの視線が、寒々しいこの兵舎へと静かに落ち始めていた。
同じ夜。京畿方面から戻る途中の雨森弥兵衛は、街道に積もった埃と雪をまとったまま城門をくぐり、兵舎のほうから湧き上がる笑い声と噂話を耳にした。
足を止め、わずかに耳を傾ける。
「澄原龍立……」
その名が、寒風の中を、かすめるように一度流れていった。




