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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第七話 初入清洲(上)・人の牙を見る

美濃での劇的な一夜から一転、舞台は信長の本拠地・清洲城へ。

しかし、そこに待っていたのは、英雄への喝采でも、温かい歓迎でもありませんでした。

あるじ不在の城で、異分子に向けられる冷ややかな視線と、底知れぬ悪意。

柳澈涵リュウ・テツカンの、本当の戦いがここから始まります。

出迎えはない。取次ぎもない。余分の馬一頭さえ、用意されてはいなかった。


 柳澈涵リュウ・テツカンが佐吉を連れ、尾張と美濃の国境を越えた頃、清洲と呼ばれる巨大な城塞は、ようやく風雪の帳の向こうに輪郭をあらわにした。


 彼らを迎えたのは、ただ一面に舞う白雪と、城門の守兵たちが向けてくる、警戒と猜疑に満ちた幾双もの眼差しだけであった。


 柳澈涵は、信長から託された木札の信物を差し出した。守備隊長はそれを何度も何度も見比べ、ようやく自分を納得させるように半歩だけ身を引くと、氷のような声で言った。


「殿下はまだ美濃におられる。ご自身の手形がない限り、誰も本丸へは通せぬ。お前たちも……よく心得ておけ」


 そう告げると、彼は視線をそらした。余計に見つめて厄介ごとに巻き込まれることを、心の底から恐れている者の振る舞いだった。


 佐吉は柳澈涵の背中にぴたりと貼りつき、首をすくめた小禽のように、息さえ潜めていた。山道であの「人ならざる対峙」を目の当たりにして以来、この干物屋の中年男の魂は半ば抜け落ちてしまったかのようで、少しの物音にも飛び上がる始末である。


「澈涵さま……」佐吉の声は震えていた。「信長様は……城に、おられないんで?」


「うん」


 柳澈涵は淡々と応じた。


 彼は歩を止め、風雪の中に冷然とそびえ立つ清洲城天守を見上げる。


 信長がまだ稲葉山にいるのは当然だった。美濃の情勢は糸が千筋万筋に絡み合っている。斎藤家の動向、国人衆の去就、三人衆それぞれの腹の内――いずれも自ら座して探り、手ずから試さねばならぬ。今この時、後方の城へ戻る余裕などあるはずもない。


 すなわち今の清洲城は、「主のいない城」なのだ。


「で、では……これからどうなさるんで?」


 佐吉はますます狼狽した。周囲で二人を指さし、ひそひそと噂する町人たちの視線が、彼には群れの中に迷い込んだ一匹の羊を取り囲む狼の眼差しにしか見えない。


 柳澈涵は視線を戻し、佐吉を振り返った。


 彼はその眼の奥に、恐怖と途方に暮れた色を見た。

 それは、己の理解をはるかに超える権力の気配を前に、普通の人間が本能的に抱く怯えだった。


 ひと呼吸のあいだ沈黙し、柳澈涵はそっと腕を伸ばし、古びた綿入れの肩に積もった雪を払ってやった。


「怖がるな」


 声色はいつもと変わらぬ静けさを保っていたが、その底には、ごく薄いぬくもりが差していた。


「何を見ても、何を聞いても、それは結局『人』のやったことだ。人である以上、必ずどこかに痕が残る。痕があるものは、恐れるに足らぬ」


 佐吉はぽかんと口を開け、半ば分かったような、分からぬような表情を浮かべた。だが、その確信だけは言葉を通して伝わったらしく、荒ぶっていた心臓が少し落ち着きを取り戻す。


「は、はい。澈涵さまがそう仰るなら……わ、わしは、その……ついて行くだけです」


 柳澈涵はそれ以上何も言わず、城下へ向けて歩き出した。


 稲葉一鉄は、彼の手並みを見た。柳生宗厳は、その境地を認めた。

 だがそれは、あくまで美濃と山中の話に過ぎない。


 ここは尾張。しかも主不在の清洲城――重臣たちが留守居を務める場所である。

 来歴も知れず、「妖刀」の噂だけがひとり歩きする異邦の青年は、ここでは間違いなく、あらゆる視線の中で最も異物として浮き上がる存在となる。


 この城を吹き抜ける冷風は、美濃のそれよりなお骨身に染みた。


 


 清洲城――尾張国の心臓。


 稲葉山よりも賑やかで、そして騒がしい。

 城下町の通りには、商人、武士、浪人、日雇いの苦力がひしめき合い、足音と呼び声と怒鳴り声が渾然一体となって渦巻いている。


 馬糞と汗と煮魚と安物の濁酒の匂いが入り混じり、その濃密な生臭い気配が、柳澈涵の身にまだ残っていた山林の静寂を一気に洗い流した。


 信長不在のため、彼らを出迎えたのは、留守居役の下級武士一人であった。


 武士は頭の先から足先までねめつけるように柳澈涵を見下ろし、その視線は白く際立つ髪と、腰の素朴な太刀の柄でいったん止まった。露骨な嫌悪と排斥の色が、その眼に宿る。


 彼は二人を武家屋敷へ案内することも、多少なりとも体裁の整った宿へ通すこともしなかった。


 代わりに、城下町の外れにある、荒れ果てた長屋群へと連れて行った。


 そこは下級足軽や雑役、流れ者の浪人や日雇いの苦力がひしめき合って暮らす場所である。地面には泥水が溜まり、壁の隙間からは風が吹き込み、ざわめきと罵声と泣き声が入り交じる。湿気と汚臭が重なり合い、空気そのものが濁っていた。


「留守の諸卿は、皆軍務で手一杯だ。お前たちの相手などしておる暇はない」


 武士は馬の鞭で、今にも崩れそうな一軒の長屋を顎で指した。口調には、あからさまな厄介払いの気配がにじむ。


「ひとまず、ここで待て。いいか、決して騒ぎを起こすな。特に城内をうろつくことは許されぬ。尾張の武士は気が短い。見慣れぬ顔を見ると、すぐ因縁をつけたがる。何かあっても……誰も庇ってはくれんぞ」


 言い終えると、彼は馬首を返して行ってしまった。一瞬でも長くここに立っているのが、まるで不運であるかのように。


 半ば外れかけた戸板、見るからに風雨の漏れそうな屋根――佐吉はその家を見上げ、顔色を失った。


「こ、これが……信長様の客人へのおもてなしで?」


 かろうじて声だけは出たが、その中身は限りなく悲鳴に近い。


「わしら、美濃ではあれだけお役に立ったのに……」


 柳澈涵は答えず、軋む戸板を押し開けて中へ入った。


 室内には、端の切れた破れ畳が二枚と、蜘蛛の巣だらけの冷えた炉が一つあるだけだった。湿った埃の匂いが鼻を刺す。


 彼は背負い袋を下ろし、腰の澄心村正を解いて、いつでも手の届く位置にそっと置いた。そして身をかがめ、炉の周りを掃き清め、火を熾して薪をくべる。


 その動きは早くもなく、遅くもない。ただ淡々としていて、まるでここが破れ長屋ではなく、たまたま選んだ一室の静庵であるかのようだった。


「澈涵さま、腹は立たんのですか?」


 佐吉は不器用に片づけを手伝いながら、なおも憤懣やるかたないといった顔をしている。


「あれは、どう見ても人を馬鹿にしてますぜ。さっきの案内の武士め、わしらがおとなしいと思って、わざわざこんなところへ放り込んでいきやがったに違いありません」


「彼には、そこまでの度胸はない」


 柳澈涵は炉に薪を一本くべた。ぱちん、と乾いた音とともに火の手が上がり、わずかながら寒気を押し返す。


「じゃ、じゃあ誰の差し金で? 信長様……では、ないですよね。そもそも城におられませんし……」


 火の光が彼の横顔を照らし出した。冷たく整った顔立ちに、薄い光の縁取りが加わり、その眼の奥に潜む暗い色をも浮かび上がらせる。


「信長様がいないからこそ、だ」


 柳澈涵は淡々と言った。


「だからこそ、誰かが俺を“干す”ことができる」


 彼は揺れる炎を見つめたまま、当たり前の理を口にするような調子で続けた。


「この城の本当の主たちにとって、俺は出所の知れぬ一本の刀でしかない。持ち主が戻り、その刀を使うか捨てるか決めるまでは――」


 そこで一度言葉を切る。


「――どこかの隅に投げ出しておき、錆びつくか、人手に渡るか、眺めているのが筋というものだ」


 自らがいま、どこに立たされているか――柳澈涵は十分に理解していた。


 清洲に留守するのは、柴田勝家や林通勝といった織田家譜代の重臣たちである。

 信長にとっては頼もしい柱石であり、彼ら自身にとっては、織田家と主君を脅かしうるものは一切排除すべき対象にほかならない。


 彼をこの、城下でもっとも混沌とした最底辺の長屋に放り込んだのは、一つの「試し」であり、同時に強烈な「下馬評」であった。


 ここで地回りの顔役や流れ浪人ごときに振り回されるようなら――その時は、ただの見かけ倒しの「異人」に過ぎないという証左となる。


 織田家の重臣たちは、清洲城という一国の中枢そのものを使って、この新参の刀を研ごうとしているのだ。


 


 夜が更けるにつれ、長屋はますます騒がしくなった。


 隣室からは、博打の声、罵り合う怒号、すすり泣きが、濁った水の流れのように混ざり合って押し寄せ、割れ目だらけの壁を通して室内へ染み込んでくる。


 佐吉は古畳の上で縮こまり、古い綿入れをこれでもかと身体に巻きつけながら、丸い目を見開いたまま眠れずにいた。


 暗闇の中で、無数の眼がこの長屋を見張っているような気がしてならない。

 草むらに伏した飢えた狼が、獲物の隙をじっと窺っているかのように。


「澈涵さま……その、かわりばんこに見張りでも立ちませんか?」


 佐吉は声を絞り出した。明らかな懇願が滲む。


 柳澈涵は炉のそばで胡座をかき、静かに目を閉じて気を整えていた。


 問いを聞き届けても、彼は瞼を開けず、ただ淡く答える。


「要らない。お前は眠れ。もし誰かが来るとして、お前が起きていても結果は変わらん」


 佐吉は言葉を詰まらせ、渋々口を閉ざした。無理やり目を閉じるが、まぶたの裏には不吉な想像ばかりが浮かんでくる。


 騒音と寒気の中で、時間は重い泥を這うように進んだ。


 やっと意識が遠のき始めた頃――


 どすどす、と重く雑な足音が、戸口の前でぴたりと止まった。


 次の瞬間、「ドン」と鈍い破裂音が響き、元々頼りなかった戸板が一撃で蹴り飛ばされて床に倒れ込んだ。埃が舞い上がる。


 冷風が吹き込み、火が大きく揺れて、室内の影をぐにゃりと伸ばした。


 酒臭い息と血の匂いをまとった浪人が五、六人、戸口を塞いでいた。先頭の男は体躯が大きく、顔じゅうに脂ぎった横肉を載せ、左の目尻には横一文字の醜い刀傷が走っている。手にした酒壺をぶら下げながら室内を見回し、最後に柳澈涵の白髪に目を留めた途端、その瞳に卑しい欲望と悪意の光が宿った。


「おうおう、新入りの面の皮の厚い連中がいると聞きゃ、ここか」


 男は酒気を含んだ息を吐き、濁った笑いを発した。


「どこの白毛の化け物だ? 清洲の土もまだ踏み慣らしちゃいねえのに、まずは顔役に挨拶ってもんを知らんのか? ここの掟、誰にも教えてもらえなかったと見えるなぁ?」


 佐吉は悲鳴じみた声を上げ、畳から跳ね起きて柳澈涵の背後へ転がり込んだ。歯ががちがちと鳴る。


 柳澈涵は依然として胡座の姿勢を崩さなかった。


 ただ静かに瞼を開き、火の光を受けてさらに深く見える瞳で、刀傷の男を一瞥する。立ち上がろうともしない。言葉を発する気配すらない。


 代わりに、彼はそっと片手を伸ばし、傍らに置いた澄心村正を前へ、ほんの一寸だけ押し出した。


 鞘の先が、埃まみれの板の間を小さく叩く。


 「コツ」


 音は小さい。しかし狭く湿った長屋の中では、その一音が、室内の全員の鼓膜を直に叩いたかのように響いた。


 入口に並んでいた浪人たちが、一瞬にして黙りこむ。


 刀傷の男の視線も、さきほどまでの凶暴さを忘れたように、その一寸動いた刀鞘へ引き寄せられた。


 澄心村正は、ただそこに伏せられているだけだった。

 鞘はなめらかな素木で飾り気はなく、鍔も質素で、見た目だけなら二束三文だ。


 だがこの白髪の青年の手もとにあるだけで、そこからは言葉にしがたい危険の匂いが立ちのぼる。


 まるで目を閉じてうつらうつらしている猛獣が一頭、そこに寝そべっているかのようだった。誰かがただ一歩、余計に踏み込んだだけで、次の瞬間には喉笛を食いちぎられる――誰もがそう直感した。


 ごまかしようのない圧迫感が、日頃刀の切っ先で飯を食っているはずの浪人たちの心臓を一斉につかみ上げた。


 空気が、凍りついたように動かない。


 刀傷の男は、前に出ることも、退くこともできず、顔を真っ赤に染め上げて立ち尽くした。指の節が酒壺を握りつぶしそうなほど白く浮き出ている。


 硬直がぷつりと切れる寸前――


 戸外の闇から、低く冷たい声が飛んだ。


「真夜中に何の騒ぎだ。ここで何をしている?」


 怒鳴り声でもなければ、特別に大きな声でもない。しかしその調子には、長く上に立つ者特有の、怒らずして人を服させる威がある。


 浪人たちは一斉に振り返り、猫に見つかった鼠のように慌てて道を開け、腰を折った。


 深い色の武士装束に二本差しを佩いた壮年の武士が、一歩、長屋の中に入る。


 背丈はさほど高くないが、肩は広く厚く、鍛え上げられた筋肉の線が衣の上からでも分かる。四角い顔には剛直の二文字が刻まれており、その眼光は刃のように鋭い。戸口から炉端まで視線が流れるあいだに、室内の空気はさらに一段、重く沈んだ。


 壮年の武士は浪人たちを一瞥するだけで、叱責の言葉すら与えず、そのまま炉の前に進み出た。


 白い髪と、足元の刀に視線を落とし、露骨な警戒と観察を隠しもしない。


「お前が……美濃で騒ぎを起こしたという『異人』か」


 声は冷たく、そこに敬意の欠片もなかった。むしろはっきりとした拒絶が混じっている。


「どうやって信長様をたぶらかしたのかは知らぬ。だがここは尾張・清洲だ。我ら織田家の武士は、刀と血しか信じぬ。妙な心術やら妖しげな術など、まるで興味はない」


 柳澈涵は顔を上げ、その視線を受け止めた。


 この男の全身からは、濃厚でありながら澄んだ「武の匂い」が立ちのぼっていた。

 戦場の血を知りながら、なお濁りきらぬ気配――門口で威張り散らしていたならず者とは似て非なるものだ。


 そして何より、この男には浪人どもが決して持ち得ないものがある。


 織田家への忠誠と、主君を脅かし得るものに対する、本能的な敵意である。


「俺は織田家馬廻り衆、前田利家だ」


 壮年の武士は自らの名を名乗った。声には誇りと冷気が混じる。


「ひとつ忠告しておく。この城で生き延びたいなら、その狐の尾をきっちり隠しておけ。もし少しでも不穏な気配を見せたなら――俺の槍は、一寸の情けも掛けぬ」


 言うべきことを言い終えると、彼はそれ以上何も付け加えず、躊躇なく踵を返した。足取りは潔く、振り返りもしない。


 正規の武士が出入りするのを目にした浪人たちは、もはや勝手な真似をする度胸を失っていた。互いに目配せを交わし、舌打ち混じりの悪態を残しながら散り散りになって引き上げていく。残されたのは、冷風に揺れる半壊の戸板だけだった。


 佐吉は肺の底から長い息を吐き、糸の切れた人形のようにその場へへたり込んだ。


「し、死ぬかと思いました……」


 彼は荒い息を整えながら、先ほどの壮年の姿を思い出して身を震わせる。


「さっきの人、ものすごく怖かった……あの人も、わしらに喧嘩を売りに来たんでしょうか? 清洲って、美濃よりよっぽど恐ろしいところじゃありませんか……」


 柳澈涵は、前田利家が消えていった暗がりの方角を見つめていた。


 唇の端が、ごくわずかに持ち上がる。


「いや」


 かすかな愉悦を含んだ声が、静かにこぼれた。


「彼は、喧嘩を売りに来たわけではない」


「この清洲という城で、いちばんに吠えかかってきた“門番の犬”が、誰なのかを教えに来ただけだ」


 信長という大樹の庇護がない今、この城はようやく本来の牙を見せ始めたのだ。


 前田利家――後に「加賀百万石」の祖、「槍の又左」と呼ばれる猛将。

 この時点ではまだ、信長の側に控える、短気で一直線で、主君に骨の髄まで忠実な一介の馬廻り衆に過ぎない。


 柳澈涵は再び目を閉じ、壁にもたれて静かに呼吸を整えた。


 清洲城で迎える最初の夜は、思っていたよりも、はるかに愉快だった。


 この城に吹く冷たい風には、稲葉山より、さらに露骨で、さらに剥き出しの刃の気配が潜んでいる。


 そして――これは、まだほんの序章に過ぎなかった。

信長不在の清洲城で、柳澈涵は完全に「招かれざる客」として扱われます。

留守居役たちの冷遇、浪人たちの粗暴な洗礼、そして若き猛将・前田利家の露骨な敵意。

これらはすべて、織田家という巨大な組織が異物に対して示す、本能的な拒絶反応です。


後ろ盾のない敵地で、彼はいかにして己の価値を証明するのか。

ただ耐えるだけでは、この乱世は生き抜けません。


次回、第八話。

柳澈涵は、彼なりのやり方で、この冷たい城に「反撃」の狼煙のろしを上げます。

刀を抜かずして、敵の心を折る――「観局者かんきょくしゃ」の本領発揮にご期待ください!


——————————————

【読者の皆様へのお願い】


物語はここから、清洲城での熾烈な足場争いへと突入します。

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