第六十八話 山路の護送・界を鎖し伏を破る
昼過ぎ、霧はようやく薄くなり、淡い陽光が山腹に落ちてきた。
関所から小谷へ、軽傷の兵を何人か送り返さねばならない。小隊長はしばらく思案したのち、とうとう柳澈涵のもとへ歩み寄った。
「城下に戻る弟兄が数人いる。」
彼は言った。
「道中は穏やかではない。澄原殿さえよければ、一緒に行ってはどうか。互いに守りあえる。」
それは誘いであると同時に、試す言葉でもあった。
もし彼が本当にただの行脚医なら、武家の事情に巻き込まれる可能性のある護送には、普通は首を縦には振らないだろう。応じるなら、それは浅井の路へ一歩踏み込むことを意味する。
柳澈涵は、腰の刀の紐を締め直し、うなずいた。
「では、その路を少しばかり、お供させてもらおう。」
隊は大きくはない。
小隊長ひとり、足軽四人、軽傷の兵が二人、そこへ柳澈涵と弥助が加わる。馬は数頭だけで、怪我人を交代で乗せるのがやっとだ。多くは、自分の足で歩くしかない。
山道は進むほどに狭くなっていった。
一方は切り立った斜面、もう一方は雑木林。昨夜の粉雪が枝に薄く残り、陽を浴びてきらきらと光る。だが、そのぶん足元は余計に滑りやすくなっている。
山の稜線が折れ曲がるあたりまで来たとき、柳澈涵の目つきがわずかに変わった。
そこは、岩壁と谷の間にはさまれた細い道で、人が二人並んで通るのがやっとだ。その先には、乱石の斜面が広がっている。
「竹が、きれいすぎる。」
彼がふいに口を開いた。
「え?」
小隊長が聞き返す。
「こういう場所で、本当に山賊や獣を警戒するなら、むしろ目隠しになる低木を少し残しておくものだ。」
柳澈涵は、乱石の縁を指さした。
「ほらあそこ。」
そこには、最近になって切られたばかりの灌木がいくつか、白い切り口を見せていた。
小隊長の背筋に冷たいものが走る。
命令を飛ばそうと口を開いたその瞬間、山風の調子がふっと変わった。
さっきまで散発的に聞こえていた鳥の声が、一瞬にして途絶える。
「伏せろ!」
柳澈涵の声が鋭く響いた。
その言葉とほとんど同時に、山の上から冷たい光がいくつも走った。矢羽の唸りが空気を裂き、さきほどまで人が立っていた場所に次々と突き刺さる。
一本の矢が、足軽の兜を掠め、鉄の表面に火花を散らした。
「軽傷の者を守れ!」
小隊長は刀を抜き放つ。
乱石の向こうの灌木の陰から、数人の影が飛び出してきた。鎧はまちまちで、旗も薄汚れ、どこの地侍か名ばかりの浪人か、ひと目では判然としない。
柳澈涵は、隊列の少し前に踏み出した。
つま先でそっと地面をつつき、凍った土の硬さを確かめる。それから、石の配置と木の根の伸び方にちらりと目を走らせた。
澄心一刀流・鎖界の一式。
最初の敵が正面から斬りかかってくる。刀は、小隊長の胸元をまっすぐ狙っている。
柳澈涵は、その刀そのものではなく、ほんの少し身体をずらして敵の足元を選んだ。刀先を地面すれすれに走らせ、相手の足首の前を横切るように一筋描く。
刃が走ったのは、二つの石の細い隙に重なる一点だった。
敵の足がそこに踏み込んだ瞬間、石の縁に軽く引っかかり、重心がわずかに崩れる。
その一瞬を逃さず、刀の刃が膝の前をかすめた。
膝の腱と膜が、ほんの筋一本分断ち切られたような感覚。男は呻き、片脚の力を完全に失って崩れ落ちた。
二人目は、谷側から回り込もうとした。
柳澈涵の刀光が、今度は谷側の出っ張った石に走る。その石を覆う氷と雪を、細く一線だけ削り取った。
敵はそれに気づかず、勢いよくそこに足を乗せた。
靴底が滑り、全身が後ろへ仰け反る。後ろにいた仲間は、避けきれずにまともにぶつかられ、二人まとめて谷側へ転げ落ちかける。あわてて木の根をつかんで、どうにか谷への転落だけは免れたが、陣形はたちまち乱れた。
短いあいだに、山道の上には、目には見えない「界」がいくつも刻まれていた。
一歩踏み込めば足を取られ、そこへ踏み込んだ者は、膝や肩を狙う刀の餌食になる。
「この数歩だけ、守れ。」
柳澈涵は小隊長に低く告げた。
「それ以外は、こちらでやる。」
言葉は少ないが、刀はますます冴えていく。
敵は乱石を盾にして横から回り込み、側面から隊を崩そうとする。だが、柳澈涵は必ずその半歩前に立ち、相手が足を置かざるを得ない場所に先回りしていた。
一人の男が、足軽の槍をぎりぎりで避け、槍の柄の下から潜り込もうとしたとき、視界いっぱいに刀の背が現れた。
刀の背は、敵の目を一瞬覆い、そのまま押し返すように力が乗る。男は木に背中から叩きつけられ、胸の空気をすべて吐き出させられた。
澄心一刀流・遊龍の一式。
柳澈涵は、自分の足軽の盾や敵の体、乱石と木の根を、自分の刀と敵の間に挟みこんでいく。
浅井の旗の描かれた盾の縁を沿うように滑り出て、敵の視線がまだ紋にとらわれているあいだに、その影から飛び出す。肩口と首筋のあいだ、ほんの薄い一点を連ねて斬り払うと、血飛沫が雪の上に鮮やかに散った。
別の方角では、一人が背後から回り込み、軽傷の兵を狙っていた。
弥助は大きな石の陰に身を潜め、木刀を握る手の汗を感じていた。
柳澈涵は出発前に、あの石の位置を一度振り返っていた。今、足音がそこに近づくのを聞きとると、短く命じた。
「そこにいろ――膝を狙え。」
弥助は歯を食いしばり、木刀を握りしめた。
敵が石の陰から現れ、刀を振り上げた瞬間、弥助は渾身の力で膝裏めがけて木刀を叩きつけた。
膝に激痛が走り、敵は足から力を奪われて、その場に崩れ落ちる。
そのちょうど同じ瞬間、前線から引き返してきた浅井の足軽の槍先が伸びてきて、無防備に開いた胸元を正確に貫いた。
血が雪に染み込み、弥助はびくりと震えた。それでも、手はかえって強く柄を握りしめていた。
「よく当てた。」
背後から、先生の声がした。
「膝裏を一発もらえば、刀を振るうどころではなくなる。」
振り返れば、先生は最初から自分の位置を見ていたのだと、弥助は悟る。
半柱香もしないうちに、山道は修羅場と化した。
敵は半数以上が倒れ、残りも十分の力を出せずにいた。
なおも攻めかかろうとする者たちの中に、一人だけ、動きが少し落ち着いた影があった。体格はやや大きめで、目には他より幾分澄んだ光がある。
男は、遠くから柳澈涵の姿を二度ほど見定めると、低く罵声を吐き、手を振り上げた。
「退くぞ。」
途端に、敵は蜘蛛の子を散らすように乱石と林の中へ消えていった。負傷者を引きずって退く者もいれば、浅井の足軽が矢で追い打ちをかけても、深追いを避けて森の奥へと姿を消す者もいた。
谷間を抜ける風が戻ってくる。血の匂いを薄め、さきほどまで張り詰めていた殺気を、少しずつ吹き散らしていく。
小隊長は肩で息をしながら、荒れた山道と、刀を納めた黒髪の医者を交互に見た。
「澄原殿……。」
声は少し乾いていた。
「その腕は――医者のものか、それとも武家のものか。」
柳澈涵は、刀身についた血を拭い、鞘に収めた。
「針を打つ者は、どこに針を置くべきかを知っている。」
静かに答える。
「刀を握る者も、そう変わらん。」
弥助は、先生の背中を見つめながら、さきほどの乱戦が夢のように思えた。
だが、自分の手に残る痺れと、蹴り返されて痛んだ足首が、これが紛れもなく現実だったと冷たく教えていた。




