第六十六話 浪人の夜襲・節を解いて悪を封ず
夜が深まり、小さな河谷の村に灯りがぽつぽつと灯りはじめた。
村の入口にある石灯籠には新しい油が注がれ、小隊長自ら見回りに出て、一軒一軒の閂がきちんとかかっているのを確かめてから、関所へと戻っていった。
柳澈涵と弥助は、村はずれの老夫婦の家に泊めてもらうことになった。
家は質素だが、よく片づけられている。畳には新しい筵が敷かれ、隅には火鉢が置かれ、炭火は低く押さえられている。
「いいとこですねぇ。」
弥助は布団に丸くなりながら小声でつぶやいた。
「山で野宿するより、ずっといいや。」
柳澈涵はすぐには横にならなかった。
火鉢のそばに膝を組んで座り、手元の手帳をめくりながら、外の風の音に耳をすませる。屋根の上を風が掠めるたび、微かな軋む音がする。
夜が更け、弥助はもう目を開けていられないほど眠そうになりながらも、ようやく一言だけ聞いた。
「先生……今日、あの老兵に針したとき……この辺のようすも、一緒に見てたんですよね?」
柳澈涵は手帳を閉じた。
「お前はどう思う。」
弥助は少し考えた。
「話してるとき、先生、ずっと米のこととか、六角とどれくらい戦ったとか、そういうのを訊いてたから……。」
「覚えておけばいい。外では、むやみに口に出さないことだ。」
柳澈涵は笑った。
「お前の今の大事な仕事は、明日の朝寝過ごさないこと。」
弥助は口の中で生返事をし、そのまま抵抗もできずに眠りの底へ沈んでいった。
どれほど時間が経ったころか、遠くで押し殺した怒声が上がり、続いて馬蹄が凍った地面を踏む鈍い音が聞こえてきた。
音はさほど大きくはないが、山風の拍子とは明らかに違う。
柳澈涵は目を開けた。
弥助の腕をそっとどかし、上着を羽織って、音もなく戸口へ向かう。
村の入口のほうに、火が揺れていた。
粗末な鎧を着込み、簡素な六角旗を掲げた小勢が、すでに村へ踏みこんでいる。馬蹄が塀際の干草を蹴散らし、庭先に散らかす。ひとりが大声で怒鳴り、六角殿の名を騙って「年貢の検め」に来たと言い立て、各家から金と米を差し出せと迫っている。
こういう旗を借りての掠奪は、辺地では珍しくない。
関所の者たちには、真偽を見分ける術はあまりない。下手に正面から睨み合えば、本物の争いになりかねない。
柳澈涵は、軒先から村人たちが殴られ、無理やり土にひざまずかされ、まだ乾ききらない稲を引きずり出される様子を、じっと見ていた。
背後で、軋むような小さな足音がした。
弥助が、寝ぼけ眼をこすりながら戸口ににじり寄ってくる。柳澈涵は手を伸ばし、その肩を押さえた。
「声を出すな。」
低く囁き、
「まずは靴を履け。」
外では、ひとりの浪人が村長の家の戸を蹴り倒した。
「こういう連中相手なら、関所に訴えに行けばいいんじゃ……。」
弥助が小さく言う。
「もう何度も訴えに行ったかもしれない。」
柳澈涵は淡々と答えた。
「あるいは、何度行っても同じことだったのか。」
彼の目は、奴らが金を巻き上げる手つき、刀を抜く癖、怒鳴り散らす調子をひとつひとつ拾っていた。
それは、行き当たりばったりの強盗ではない。手慣れた、すでに「日常の仕事」と化したやり口だった。
柳澈涵は、ふっと小さく息を吐く。
「お前は中にいろ。」
そう告げる。
「火鉢のそばから動くな。外には出るな。」
弥助は何か言いかけたが、先生の目の奥に、反論を許さぬ色を見て、歯を噛みしめてうなずくしかなかった。
戸を押し開けるとき、足は床板をほとんど鳴らさなかった。
村の入口の火の光が、着ている濃い色の羽織に揺れ、染めたばかりの黒髪を薄く黄色く照らした。
「夜更けにご苦労なことだ。そんな時間まで税取りとは、まこと勤勉だな。」
柳澈涵は、静かに声をかけた。
数人の浪人が振り向く。
先頭の男は、長刀を腰に下げ、鎧にはいくつも欠けがある。長年山野をうろついているのが一目でわかる。視線は鋭いが、柳澈涵の姿を一瞥しただけだった。
「どこの書生だ。」
男は鼻で笑う。
「村の代弁でもしに出てきたか?」
「病を治すには、軽重の見極めが先だ。」
柳澈涵は淡々と言う。
「本当に金を必要としている主は城の中にいる。道中、こんな貧しい村から米をかき集めたところで、あちらの飢えは癒えん。」
浪人たちは、どっと笑い出した。
「俺たちがやってるのを、治療だと思ったのか。」
頭目が一歩踏み出し、手の中で刀の柄をくるりと回す。
「坊主、金を出すか、足を一本置いていくか、好きなほうを選べ。」
柳澈涵は、自分の腰に下がった質素な刀を軽く指さした。
「悪い癖があってな。」
口元にかすかな笑みを浮かべる。
「こういう病を見ると、どうにも手がうずく。」
言葉が終わるより早く、身体が動いた。
澄心一刀流・解節の一式。
最初の浪人は、まだ刀を半ば抜いたところだった。肩がかすかに持ち上がり、肘の筋肉がぴんと張る、その瞬間――柳澈涵は半歩踏み込み、斜めから一閃した。
狙いは急所ではない。肘の内側をかすめるように刀が走る。
浪人は、腕にひやりとした感覚を覚えた。次の瞬間、肘から先に、針で一気に刺されたような痺れが走り、腕全体の力がぷつりと切れた。刀は「カラン」と地面に落ちた。
二人目は側面から飛び込んできた。大振りに刀を振りかぶり、一撃で黒髪の医者を叩き伏せるつもりでいる。
柳澈涵は一歩も退かない。むしろ、一歩踏み込んで、手首をかすかに返し、刀先で相手の膝裏を軽く払った。
刃が触れたのは、腱や筋が集まる膕のあたり、わずかなずれも許されぬ一点だった。
全力で踏み込んでいた足から、突然力が抜ける。
浪人は前のめりに崩れ、刀ごと凍てた地面に膝を打ちつけた。激痛に脂汗がにじみ、立ち上がる暇もない。
残りの者たちは、一瞬にして空気が変わったのを悟った。
慌てて刀を抜いたが、さっきまで散らばっていた仲間は、もうすでに一人は腕がぶらりと垂れ、一人は膝をつき、まともに立っている者は多くない。
村人たちは呆然と見つめていた。
誰も、この外から来た学者風の男が、ここまであっさりと形勢をひっくり返すと想像していなかった。
頭目の目に、殺気が走った。
「やれ!」
自分は急がず、半歩退いて構える。部下を盾にして、まずは相手の力を削るつもりだ。
柳澈涵の目は、むしろ静まっていく。
三人目の浪人が背後から跳びかかり、刀を振り下ろした。
柳澈涵は一歩も下がらず、身体をひらりとねじってかわし、刀の背が肩をかすめた瞬間、相手の足首に違和感が走った。
足首に引っかかったのは、柳澈涵の足だった。
ほんの軽い力で、しかし絶妙な位置――踵の少し後ろをすくい上げる。そのくらいで十分だった。
重心を失った浪人が、前方に崩れ落ちる。
まさにその一瞬を待っていたかのように、刀が肩甲骨と鎖骨のあいだの薄い場所を斜めに走り抜けた。命は取らないが、腕を持ち上げるための筋は確実に断たれた。悲鳴とともに刀がまた落ちる。
瞬く間に、八人いた浪人のうち、三人は腕が利かず、一人は膝をつき、まともに戦える者は半分にも満たない状況になった。
頭目は、そのときになってようやく悟る。――この黒髪の医者は、決して自分たちが軽々しく弄べる相手ではない、と。
ひと呼吸、迷ったのち、ついに刀を振り上げて自ら斬り込んできた。
その一刀は、彼が今まで生き延びてきたすべての業の詰まった一撃だった。腰からえぐり込むような斜めの斬撃で、柳澈涵の腹を狙う。
柳澈涵の目の光が、すっと細くなる。
刀の角度をほんのわずかに変え、正面から受けるのは刃ではなく、刃から数寸下がった刀身の、力が上昇から下降へと転じる一点だ。
金属のぶつかり合う音が、火花とともに弾ける。
頭目の手首には、痺れるような衝撃が走り、刀の軌道が大きく逸れた。身体ごとバランスを崩し、側面へと倒れ込む。地面に倒れきる前に、太腿の外側に冷たいものが走った。
柳澈涵は、崩れていく勢いを利用して、一刀だけを置いていった。
狙ったのは骨ではない。走力と突進力を生む筋の結び目だ。血がぱっと飛び散り、頭目の足から一気に力が抜けた。
地面に突っ伏した彼は、荒く息をつきながら必死にもがくが、足はただ震えるばかりで、立ち上がることもできない。
村口は、嘘のように静まり返った。
残るのは、短い呻き声と、冷えた空気に漂う血の匂いだけだ。
柳澈涵はゆっくりと刀を納め、視線を冷ややかに浪人たちに走らせた。
「口では六角の名を掲げながら、やっていることは貧しい村を脅し、老人を怯えさせるだけか。」
淡々と告げる。
「そんな腕前、誰がやっても、お前たちは鼻で笑うだろう。」
浪人たちは、その目に射す冷たさに肌が粟立つのを覚えた。
柳澈涵は、とどめを刺そうとはしなかった。
代わりに、村のほうを振り返って声を張る。
「弥助、包帯と薬だ。」
戸がぎいと開き、顔色の悪い弥助が、薬箱を抱えて飛び出してきた。
「こいつらを手当てしてやれ。」
柳澈涵が言う。
「雪の中で死なせるな。」
弥助は一瞬呆然とした。
「先生、こいつら、あんなにひどいことして……このまま逃がしたら――」
柳澈涵は首を振った。
「この筋をいくつも断たれている。しばらくは、まともに刀を握ることすらできん。」
低い声で続ける。
「命は残した。だが、足元の道は前よりはるかに短くなった。」
少し間を置き、小さく言葉を継いだ。
「悪事を好む者は、腐った肉のようなものだ。全部切り落とせば、人間のほうが先に死ぬ。」
「いちばん腐ったところだけを先に切り取れば、生きたまま痛みを味わう時間が残る。自分が何をしてきたか、そのあいだにいやでも思い知る。」
弥助は、手を震わせながらも、言われた通り血を止め、包帯を巻いていく。
さっき、先生に一刀で斬り伏せられた、復讐に狂った浪人たちの目を思い出し、胸が妙に重くなった。
応急手当てを終えると、柳澈涵は村人たちに命じて、浪人どもを村外れまで引きずっていかせた。雪の上に放り出し、自分たちの傷と向き合うようにさせる。
村に再び静けさが戻ったころ、ようやく弥助を連れて家に戻った。
弥助の指はまだ微かに震えていた。戸を閉めるなり、目の端が熱くなる。
「先生……あんな悪い奴らなのに、手当てなんて……。」
「同情したわけじゃない。」
柳澈涵は火鉢のそばに座り、隣の畳をぽんと叩いた。
「来い。」
弥助はためらいながらも、そばに座る。
「ひとつ忘れるな。」
柳澈涵は、火の色を見つめながら、静かに言った。
「目の前の連中が、もう刀を握らず、人を土に跪かせることもなく、自分のやってきたことの結果に縛られたまま一生を歩くしかない――そうはっきりと確信できたとき。」
そこで初めて、声を少し落とした。
「そのときが、『収めどき』だ。」
弥助は、すべてを理解できたわけではなかったが、胸を塞いでいた塊が少しだけほぐれるのを感じた。
先生の肩にもたれかかるうちに、やっと指先の震えがおさまっていく。
外の風は、時に激しく、時にかすかに唸りながら吹き、先ほどまで漂っていた血の匂いを、いつの間にかどこかへさらっていった。




