第六十三話 近江の水・天下の初局
それから数日。風向きが、わずかに変わった。
山から吹き下ろす風に、刺すような冷たさが少し和らぎ、その代わりに湿り気が混じる。道端の木々の影はまばらになり、遠い地平線が、ほんの少し低く感じられた。
夕暮れどき、二人は小さな丘に登った。
頂は風が強いが、骨にしみる寒さではない。弥助が顔を上げた瞬間、眼前の景色に、息を呑んだ。
それは、彼がこれまで見たどの川よりも、はるかに大きな水だった。
湖面は薄闇の中に広がり、巨大な鏡のように空と遠い山並みを映し込んでいる。岸辺には小さな城や村の灯が点々とし、その明かりが水面に長い筋を引き、波とともにかすかに揺れていた。
「これが、近江の水だ」柳澄涵が隣に立ち、風に運ばれるような声で言う。
「海みたいだ……」弥助は、思わずつぶやいた。
「海とは呼ばれない」柳澄涵は、少しだけ笑う。「だが浅井にとっても、六角にとっても、そしていずれ我らにとっても、海のようなものになる」
彼は湖岸の一角を指差した。
「あちらが、浅井の城」
さらに遠くを指さす。
「あちらは、六角の領地。もっと南へ行けば、将軍家の旧き道があり、その先に京がある」
弥助はただ、その言葉を聞きながら、巨大な盤面の縁に立っているような感覚を覚えた。
「この水の形を、覚えておけ」柳澄涵は言う。「これから、米がどこから運ばれ、兵がどこを渡り、退き口がどちらへ向かうか――すべて、この水の機嫌次第になる」
湖から吹き上げてくる風には、わずかな生臭さと、言葉にしがたい冷たさが混じっていた。
「先生」弥助はふと口を開いた。「先生の言う『天下を見る』って、こうやって、一つ一つを見ていくことなんですか」
「まず人を見る。そのあとで地を見る」柳澄涵は言う。「地は動かない。だが、人が動き続ければ、やがて地の方も姿を変える」
視線は湖の向こうを越えて、もっと先の闇の一点へと伸びていった。
「この一年は、外から見る年だ」低くつぶやく。「来年からは、清洲がこちらへ手を伸ばす番になる」
丘の上の風は、一瞬止んだように感じられ、すぐにまた吹き始める。
二人は丘を下り、近江の小路へと歩を進めた。
遠く離れた清洲では、そのころちょうど澄斎の灯がともる頃合いだった。
佐吉は灯の下で、柳澄涵が残していった幾巻かの方略をひもとき、阿新は台所で鍋を揺すり、阿久は「塩を入れすぎるな」と叱りつける。弥助の小さな木刀は、縁柱にもたれている。
誰も知らない。今夜、東の一つの灯と、西の一つの水は、千里も隔たっているようでありながら、すでに一本の見えない線で結ばれていることを。
その線は、澄斎の井戸の縁から、近江の湖岸まで、まっすぐ伸びていた。
永禄九年、十年の風が再び吹き始めるとき。清洲が美濃へ、近江へと手を伸ばしてゆく一歩一歩は、すべて、この一年の足跡の上をたどることになる。




