第六十二話 夜半の返刃・悪形、初めてを見る
夜が更け、宿場の喧噪はとうに引いていた。
外では風が軒先をかすめ、紙障子をかすかに鳴らす。灯は一つだけ残り、黄色い光が廊下に細長い影を落としている。
弥助は布団にくるまり、目を閉じずにじっと天井を見ていた。
昼間のあの一太刀が、ずっと頭の中で繰り返される。胸元めがけて突き出された刃先の瞬間、心臓が喉元まで跳ね上がった感覚。彼は両掌で自分の胸を押さえ、上下していることを確かめるが、指先はまだ冷たい。
隣の畳では、柳澄涵はもう眠っているように見える。呼吸は限りなく静かで、今にも空気の中に溶けてしまいそうでありながら、いつでも目を開けられそうでもある。
どれほどの時間が過ぎたか分からない頃、外の風の音が、少しだけ変わった。
散発的だった足音が遠ざかり、代わりに、きわめて軽く、きわめて一定の二つの足音だけが、じわじわと近づいてくる――
酔った客のふらついた足でもなく、宿の主人が見回る草履の引きずりでもない。一歩一歩の重さを丁寧に押さえながら、しかし床板の一番固いところを踏んでくる足音。
弥助の身体は、先に緊張で固くなった。
身を起こそうとしたところで、一つの手が肩に置かれる。
「動くな」柳澄涵の声は闇の中で低く、しかし揺るがない。「目だけで戸を見ろ。身体は、そのままだ」
弥助は戸の隙間から、二筋の刀光が同時に先生へと襲いかかるのを見た。その瞬間、布団をはいで飛び出したくなる衝動が、喉元までこみ上げる。が、指先にはまだ、先ほど肩に置かれた手の感触が残っていて、布団の端を押さえつけていた。
灯が、ふっと揺れる。
澄心村正が鞘を離れる音は、やはり小さな「チン」という一音にすぎない。
灯の下で、柳澄涵の影が一度、揺らいだ。大きく飛び込んだのでも、大股で踏み出したのでもない。ただ、床に落ちていた影が、誰かにすっと持ち上げられたかのような、ごく小さな動きだった。
弥助にとって、それはほとんど瞬き一つの間の出来事だった。
さっきまで廊下の口に立っていた二人の浪人は、刀を振り下ろしかけた姿勢のまま、ぴたりと固まっている。柳澄涵は既に彼らの背後に立ち、刀を静かに鞘へと納めていた。
余計な所作は、一つもない。
一番近くの男の喉元に、細い赤い線が浮かんだ。誰かが極細の筆で線を引いたようなその線は、次の瞬間、一気に開いて血の花となる。
もう一人の腰のあたりでは、着物の布がすうっと割れ、足から力が抜け落ちたように膝が折れ、そのまま崩れ落ちる。
床板の上に、まず刀が「ガラン」と落ちた。そのあと、二つの身体がほとんど同時に倒れ込み、廊下全体を小さく震わせた。
風がようやく、廊下に戻ってくる。
弥助の心臓も、そのときになってようやく、どくりと大きく鳴った。
今しがたの一瞬、先生がほんの少しでも遅れていたら、床に伏していたのが誰だったか――それを思い知ったのは、そのときだった。
柳澄涵は、倒れた二人を見下ろした。目の奥には、嫌悪さえ薄い。あるのは、ごく淡い冷たさだけだ。
宿の主人は、とっくに物音で目を覚ましていたが、廊下の向こうで柱にしがみつき、半身だけを出して震えていた。血の色を見た途端、膝が半分抜けたように力を失う。
「この二人は、昼間お前が見た連中だ」柳澄涵は静かに告げる。「昼には一度、退き道を与えた。それを自分で踏みつぶして戻ってきた」
主人は何度もとうなずくが、手は震えて柱を支えるのがやっとだった。
「夜明け前になったら、破れた筵でも探して遺体を包み、自分で始末しろ」柳澄涵は続ける。「役所には、『夜中に浪人が押し入ってきて、客人が斬った』と言え。それは嘘ではない」
「は、はい……」
指示を終えると、柳澄涵は廊下の灯を消し、部屋の一つだけを残した。
戸が、静かに閉まる。
柳澄涵が畳に戻ると、袖口から漂う血の匂いは、ほとんど消えかけていた。呼吸も、すでにいつもの静さに戻っている。
弥助はそこで初めて、自分の全身が汗でぐっしょりと濡れていることに気づいた。背中の布団はじっとりと湿り、握り締めた指の関節は真っ白だ。
「先生……」喉が渇いて声がかすれる。「昼間はあいつらを見逃したのに、どうして……」
「昼間は、奴らは人の物を盗りに来ていた」柳澄涵は、いつもの調子で言う。「一度、退く道を示してやった。戻るかどうかを見るために」
ひと呼吸置いてから、言葉を足す。
「夜中にもう一度来た時には、もう命を取りに来ていた。誰かの命と、自分たちの意地を天秤にかけて、後者を選んだ。ならば、その先の扉は、こちらが刀で閉ざすしかない」
弥助は唇を噛みしめ、瞼の裏に焼きついたさっきの光景を振り払えずにいた。
「覚えておけ」柳澄涵は、低く続ける。「道に迷った者と、悪意の方へ踏み込んでいく者は違う。前者には道を見せてやれば引き返すこともある。だが後者は、お前が一歩退けば、二歩食らいついてくる」
弥助は、小さく「はい」と答えた。声は震えている。
「怖いか?」柳澄涵が問う。
「……はい」弥助は正直にうなずく。「さっき、戸の外の風まで、冷たく感じました」
「怖れるのは、悪いことじゃない」柳澄涵は、汗で額に貼りついた髪をそっとかき上げてやる。「死ぬのが怖い者だけが、長く生きる術を覚える」
彼は弥助の震える手を見ると、炉端に行って小さな椀に湯を汲み、それを差し出した。
「これで手を温めろ」
弥助は両手で椀を包む。湯気が指先をあぶるうちに、ようやく感覚が少しずつ戻ってきた。心臓の鼓動はまだ速いが、暴れるほどではない。
「横になれ」柳澄涵は椀を受け取り、傍らに置き直すと、再び弥助の側に座った。
弥助は一瞬ためらったが、結局、長屋の隅で眠っていたころの癖が出て、そろそろと近寄って、頭をそっと彼の膝に預けた。
「先生」紙障子に映る影を見つめながら、声をひそめる。「僕もいつか……先生みたいに、一瞬で刀を収められるようになりますか」
柳澄涵は、しばらく彼を見下ろしていたが、すぐには答えず、その頭にそっと手を置いた。
「今は、誰が刀を握っているか、それを見分ける目を覚ませ」彼は言う。「いつか本当に、人の前に立って一太刀を受けねばならぬときが来れば、手は自然に動くようになる」
弥助は小さく「はい」と答えた。
本当はまだ聞きたいことがあったが、そこに言葉を乗せる前に、どっと押し寄せてきた眠気が半分を呑み込んでしまう。
殺気が引いたあと、夜の静けさは、遅れて戻ってくる水のように、じわじわと部屋を満たしていく。彼は膝元の固い感触を、一つの石のように感じていた。その石が、さっきまで暴れていた何かを、しっかりと押さえてくれている。
「眠れ」柳澄涵は低く言う。
弥助はようやく目を閉じた。最初は呼吸がまだ不揃いだったが、次第に落ち着いていく。
紙障子の向こうでは、風がまだ吹いている。ときおり、砂を巻き上げて壁を叩いた。
部屋の中で、白髪の青年は眠り込んだ子どもの顔を一瞥し、布団の端をそっと引き寄せて、赤くなった手を覆うようにかけ直した。
顔を上げ、紙一枚隔てた夜の向こうに目をやる。その表情は、いつものように静かだった。
弥助にとって、この夜は初めて「悪」という形を目にした夜だった。
そして同時に、その形の前で、自分一人で刀を握らなくてもいい手が、この世に確かにあるのだと知った夜でもあった。




