第六十一話 宿場の薄灯・散影一式
夕暮れ、空が少しずつ落ちていく。
一つの宿場町が薄い霧の中に輪郭を現す。低い屋根が連なり、軒先には「飯」「酒」「湯」と書かれた木の札が下がり、提灯の光が、濡れた地面にぼんやりと丸い光を落としている。
柳澄涵は、派手さはないが掃除の行き届いた小さな旅籠を選んだ。
炉の火は強くはないが、身にしみた寒さを追い払うには十分だ。宿の主人は背中の曲がった中年で、顔には古い傷跡があるが、口の利き方は丁寧だった。
二人が腰を落ち着けるや否や、弥助の視線は、隣の卓へと吸い寄せられた。
腰に刀を差した浪人が五人、そこを囲んでいる。着物は擦り切れ、だがわざと柄の派手な鍔や柄巻きを見せつけ、安酒を次々と煽っていた。
その向かいには、行脚僧のような小柄な男が布包みを抱え込んで、身を縮めて座っている。浪人たちは口々に、包みの中身を問いただし、どこの寺の金をくすねたのかなどと、好き勝手なことを言っている。
「開けてみろよ」一人が手を伸ばす。
布包みの端が引きちぎられ、中から出てきたのは、古びた経巻が何本かと、使い込まれて光沢の出た数珠だった。
「なぁんだ、物乞いの経文か」ひとりが鼻で笑い、刀の鞘で卓を叩いた。「じゃあありがたく預かって、俺たちの厄払いでもしてもらおうか」
行脚僧の顔は真っ赤になったが、抵抗することはできず、ただ必死にその数珠を掴み返そうとする。
弥助の小さな手は、知らぬ間に刀の柄を握っていた。
「先生……」彼は声をひそめる。
「何をしたい?」柳澄涵が問う。
「助けたいです」
「どうやって?」
弥助は言葉に詰まる。
「その五人を叩きのめすのか。それとも、二度と同じことをさせないようにするのか」柳澄涵はゆっくりと言った。「お前は、そのどちらを選ぶ?」
弥助は口を開いたまま、すぐには答えられない。
浪人たちの手つきは、徐々に荒くなっていく。ひとりが立ち上がり、刀の鞘で行脚僧の肩を強く叩いた。僧は床に転がり、息を詰まらせる。
「先生……」弥助はたまらず声を上げた。「止めないと、本当に死んじゃいます」
柳澄涵は小さく息を吐き、箸を置いて立ち上がった。
「お前が一太刀、受けてこい」彼は言った。
「ぼ、僕が?」弥助の声は一気に高くなる。
「人を助けたいのなら、まず相手の刀の『重さ』を身で知れ」柳澄涵は淡々と言う。「安心しろ。俺は後ろにいる」
弥助は唇を噛みしめ、震える足で立ち上がると、刀を引き抜きながら飛び出した。
五人の浪人は物音に振り向き、まだ抜ききれていない刀を握りしめた小柄な子どもを見て、一瞬ぽかんとする。すぐに笑い声が上がった。
「どこから湧いた小僧だ。武士の真似か?」
「皆さん」弥助は、声が震えないよう必死に抑えながら言う。「それは、あの方の物です」
「物だと?」ひとりが立ち上がり、刀を半ばまで引き抜いた。冷たい眼差しで弥助を睨む。「この通りは、誰の“物”だと思っている?」
言い終わらぬうちに、刀先が弥助の胸へと突き出される。
弥助は、先生に叩き込まれた足運びどおりに、一歩斜めに退き、一歩踏み込み、刀身を横にしてその一突きを正面から受けた。
鋼と鋼がぶつかる音が、痺れるように腕を伝う。小さな手首は一瞬で痺れ、掌には真っ赤な痕が浮かんだ。
「やるじゃねえか」浪人は冷笑する。「ちゃんと受けたな」
別の一人が側面に回り込み、酒と憤りを混ぜた一太刀を斜めに振り下ろしてきた。
弥助には、その一撃を受けきる自信はない。瞼が思わず固く閉じかけた――
その刹那、背後から風が走った。
弥助の横を掠めて、一つの影が音もなく飛び出す。
澄心村正が鞘を離れる音は、とても小さい。耳元で冷気が裂けたような、細い音がかすかに響くだけだった。
柳澄涵は、その一刀を正面から受け止めるのではなく、わずかに身をずらし、影が滑るように横へ半歩、抜ける。相手の刀は、彼の袖を掠めて空を裂き――足元の影がひらりと揺れたことで、一瞬、浪人の目が位置を見誤る。
弥助の目には、ただ視界がちらりと揺れたように映った。その間に、刀先は半寸ほど別の方向へ逸れていた。
「澄心一刀流――散影の一式だ」
柳澄涵は足を止め、軽く前傾になって刀を振る。刃は、影から伸びた一本の線のように、浪人の手首を正確に掠めた。
重い斬撃ではない。あくまで、極めて清潔な、削ぐ一閃。
刀の柄は手を離れ、壁にぶつかって鈍い音を立てた。
浪人の手首は痺れ、一瞬で力が抜け、片膝を床につく。
もう一人が刀を抜きかける頃には、柳澄涵の姿は既にそこにはいない。
灯りに伸ばされた影のごとく、彼は一歩先に相手の側面へと移っていた。
刀身は腰帯のあたりで、ちょんと軽く線を引いただけだ。
帯が切れ、刀は鞘ごと腰から落ちて床に転がる。
「俺の刀は速い」柳澄涵は静かに言う。「本気で斬る気なら、お前たちがくだらぬことを口走っているうちに、二つ三つは頭が転がっていた」
店内は、ぴたりと静まり返った。
残った浪人たちはようやく気づいた。この白髪の男は、どこかの文士の従者ではなく、真正の「厄介なもの」だと。
「お前たちが欲しいのは、酒代だろう」柳澄涵は言った。「命ではない」
刀を鞘に収めながら続ける。
「今日の酒代は、俺が払ってやる。だが、次に人の物を奪おうとする時は、自分の命も一緒に賭ける覚悟があるかどうか、先に考えろ」
浪人たちは互いに顔を見合わせ、顔色を悪くしながらも、反論の言葉は飲み込んだ。うわ言のように何かを吐き捨てると、刀を落とした仲間二人を支え、千鳥足で店を出て行く。
行脚僧は、まだ半ば膝をついたまま、数珠を握りしめていた。はっと我に返ると、何度も頭を畳にこすりつけた。
「ありがとうございます、ありがとうございます、お二方……」
「次にこういう場所を通るときは」柳澄涵は彼を一瞥した。「人を見ることだ。灯りを見ることだ。店主の目を見ることだ。胸騒ぎがしたら、早く通り過ぎろ」
「は、はい……」行脚僧は何度も答えながらも、視線はどうしても柳澄涵の腰の刀へ吸い寄せられる。その目には、恐れと安堵が一緒になって揺れていた。
席に戻ると、弥助の手はまだ細かく震えていた。
「怖かったか?」柳澄涵が問う。
「さっき……」弥助は低い声で答える。「本当に、その一太刀が、自分を斬りに来ているんだと思いました」
「その感覚を忘れるな」柳澄涵は言った。「これからお前が人の前に立つ時、その一刀一刀が、同じ重さを持っていると思え」
少し間を置いて、言葉を継ぐ。
「散影の一式は、光を借りる。影を借りる。相手の目を借りる術だ。刀ばかりを見て、人を見なければ、形だけをなぞることになる」
弥助は、何度も強くうなずき、先ほどの光景を一つ残らず心の中に焼きつけようとした。




