第六話 無声の驚雷· 隠れ龍、剣を問う
美濃編、クライマックス。
歴史の影に隠された「もう一つの戦い」が、今、静かに幕を開けます。
史実の裏側で交錯する、規格外の「才能」と「才能」の邂逅。
どうぞ、息を潜めて見届けてください。
稲葉山城の暁闇は、吐く息も凍るほどの冷気に満ちていた。大気中の水分が、目に見えぬ微細な氷針となって肌を刺す。
昨夜、本丸の深奥で交わされた密議ののち、稲葉一鉄は一睡もしていない。
今、彼――美濃三人衆の筆頭たる男は、城壁が落とす巨大な影の中に、ひとり立ち尽くしていた。分厚い綿入れを着込んでいても、足元から這い上がる寒気は防ぎきれない。
その眼光は、重なり合う甍の彼方、南方へと注がれていた。
そこは尾張の方角であり、あの柳澈涵という白髪の青年が去っていった方角でもある。
「卜全、守就」
声は低く、かすれていた。徹夜の疲労が滲んでいるが、なおも他者を寄せつけぬ威圧を湛えている。
氏家卜全と安藤守就が、音もなく影から現れ、一鉄の背後に控えた。
「一鉄殿、下知を」
安藤守就の声は平静を装っていたが、その眼にはわずかな緊張が見えた。
「あの白髪の青年を、追え」
一鉄は短く命じた。一語一語が、歯の隙間から絞り出されるように重かった。
柳澈涵――その名は一夜にして、美濃三人衆の胸に拭い難い影を落とした。織田信長と同行し、表向きはただの路傍の若者に過ぎぬと見せかけながら、土壇場で大局を揺るがすほどの洞察を示してみせたのだ。
「一昨夜の大混乱……奴は一滴の血も流させず、五体満足のまま事態を収拾してのけた」
一鉄は独り言のように呟いた。
「皆殺しにするより、よほど恐ろしい統御力だ」
氏家卜全が眉間を険しくする。
「誰を差し向けます? 並の斥候では、おそらく――」
一鉄は振り返らず、視線を南に向けたまま言った。
「……『隼人組』を出せ」
その名を聞いた瞬間、氏家卜全と安藤守就の顔色が同時に変わった。
隼人組――それは斎藤道三の代から受け継がれた暗部の遺産であり、精鋭中の精鋭からなる影の一隊である。
一人ひとりが死体の山を潜り抜けてきた追跡と暗殺の専門家であり、美濃の歴史の中でも、家中が「極めて危急なる」局面に追い込まれた時にしか動員されてこなかった。
その隼人組が、今日追う標的は――素性も定かならぬ、一人の青年に過ぎない。
それは、稲葉一鉄の胸中における柳澈涵という「変数」の危険度が、もはや常道を外れた領域に達していることの、何よりの証左であった。
密命を受けた隼人組の手練れ二人――符牒を「甲」「乙」とする――は、半刻(一時間)も経たぬうちに、二条の幽鬼のごとく稲葉山城を後にした。
彼らは尾張へと通じる山間の古道を辿り、追跡を開始する。それは打ち捨てられた旧道であり、乾いた山風が吹き荒れ、枯葉が地を覆っていた。冬の陽光が裸木の枝を透かして差し込むが、その光は弱々しく、戦国の硝煙に削られたかのような粛殺の気配を帯びている。
隼人組は驚異的な観察眼と環境把握の技を駆使し、やがて標的が残した微かな痕跡を拾い上げた。
積雪と泥濘が混じる山道には、二種類の足跡がはっきりと刻まれていた。
一つは重く乱雑で、歩幅も一定しない。足跡の縁は無造作に踏み荒らされ、ところどころで滑ったり、よろけたりした痕がある。これは、同行する中年男・佐吉の足跡――何の訓練も受けていない、ただの凡夫の足跡である。
だが、もう一つの足跡は、百戦錬磨の暗部さえ背筋に寒気を覚える代物だった。
柳澈涵の足跡である。
歩みは軽く、一歩ごとの間隔は驚くほど正確に揃っている。持ち主が高度な身体統御能力を有している証だ。だが、最も奇妙なのは、その痕跡が極端に浅く淡いことだった。
まるで重さのない幽鬼が雪上を滑り過ぎたかのように、そこに「通った」と示す最低限の印しか残っていない。
「尋常ではないな」
隼人甲はしゃがみ込み、指先でかすかな印に触れる。
「軽功を修めた忍びでも、荷を負っての行軍でここまで足跡を薄くはできぬ。あるいは――」
隼人乙の顔色が悪くなる。
「あるいは、無意識のうちに『避顕』を行っているか。自らの気配と存在感を極限まで希薄にし、環境に溶け込む。宗師級の者だけが持つ、本能だ」
二人は顔を見合わせ、互いの眼に深刻な色を読み取った。
今回の任務が、想像をはるかに超える難事となることを悟ったのである。
隼人組は速度を上げた。血の匂いを嗅ぎつけた猟犬のように、音もなく山林を縫う。
しかし、鬱蒼とした深林の縁へ差しかかった時、事態は突如として変貌した。
最初に乱れたのは、佐吉の重く雑な足跡だった。まるで歩きながら、何者かに押され、あるいは引かれたかのように。
続いて、もともと薄かった柳澈涵の足跡が、途切れ途切れに消え始める。
隼人乙は信じられないという面持ちで地面を見つめた。
「馬鹿な……あの凡人の足跡が乱れるのは分かる。だが、この青年の足跡が、完全に消えるだと? 妖術か何かか?」
隼人甲の表情は、これまでにないほど張り詰めていた。
「いや、妖術ではない」
彼は周囲の大気に神経を研ぎ澄ませ、低く言う。
「これは――何者かが『環境そのもの』に干渉している気配だ」
幽暗な密林の奥を指差す。
「あの青年か……あるいは、この森の中に、もう一つの強大な存在がいる。我らの理解を超えた何らかの領域を展開し、周囲すべてを圧迫している」
この時になって初めて、二人は悟った。
異常なのは柳澈涵一人ではない。この、唐突に息絶えたかのような山林そのものがすでに異常なのだと。
彼らは細心の注意を払いながら、さらに奥へと踏み入った。
標的まで、およそ三十歩――その地点で、二人は空気を伝わる異様な振動を感じ取る。
それは梢を揺らす風の音でも、落葉の微かな落下音でも、獣の気配でもない。
それは……「心念」の波紋であった。
静かな湖面に投げ込まれた小石のように、肉眼では見えぬが、確かに知覚できるさざ波がじわりと広がっていく。その波紋は窒息しそうな圧迫感を帯び、歴戦の隼人組でさえ、得体の知れぬ動悸を覚えた。
「この感覚は……」
隼人甲の瞳孔が収縮し、声が震える。
「『無拍子』か?」
「無拍子だと……?」
隼人乙は息を呑んだ。
「まさか――陰流……?」
新陰流が未だ創始されていないこの時代、「陰流」は剣の世界の最高峰と目され、多くの剣客が憧れる至高の境地であった。その剣意を「無拍子」――自然へ還り、自然と融け合う境地――にまで練り上げられる者は、天下広しといえども指折りで数えられるほどしかいない。
隼人組はようやく悟る。
自分たちが追っていたのは、一人の白髪の青年ではない。
二人の絶世の達人による「心意の試探」の場へ、無意識のうちに踏み込んでしまったのだと。
疎らな木立の向こうで、彼らは一生忘れ得ぬ光景を目撃した。
柳澈涵は足を止め、刀の鞘に静かに手を置いていた。風が止み、空気が凝固する。
「……誰かが待っている」
彼は低い声で、連れの佐吉に告げた。
佐吉は怯えて半歩退く。
「ま、待ってるって、昨夜の連中か?」
柳澈涵は首を振る。その視線は薄霧を貫き、より本質的な何かを見ているようだった。
「いや。昨夜の連中は捨て駒だ。今、俺たちの前に立ちはだかっているのは――盤面を見る者(打ち手)だ」
その言葉と同時に、風が霧を払い、一つの影が奥からゆっくりと歩み出てきた。
足音もなく、衣擦れの音もなく、帯刀さえ金属音を立てない。
まるで「無音の世界」から切り出されてきた影そのものだった。
灰色の狩装束をまとい、素朴な太刀を佩いた中年武士。
顔立ちは堅毅で、眉目は刀で刻んだように鋭い。その双眸は深く静まり、俗世を超えた審美眼を宿している。
男は十歩の距離で立ち止まり、口を開いた。声は驚くほど軽いが、水面に落ちる小石のように、そこにいる者すべての耳へ鮮明に届いた。
「一昨夜、美濃・稲葉山城下にて――」
男の眼光が柳澈涵を射抜く。
「あの一刀、お主が斬ったな?」
柳澈涵は否定しない。
「左様」
中年武士は短く「うむ」と頷き、視線を柳澈涵の刀に落とした。
「線を断つか。見事な一刀だった」
次の一句には、宗師たる者の評定が宿っていた。
「一人も殺さずして、すべての者の『念』を断ち切った。背筋が凍るほど鮮やかな手並みだ」
柳澈涵の目元が、わずかに動く。
この男は、一刀の本質――「不殺の殺」――を一目で見抜いている。
木陰で震えながら様子を窺っていた佐吉が、おそるおそる囁いた。
「澈涵……あ、あいつは誰だ? どうして一昨夜のことまで知ってるんだ?」
柳澈涵は静かに答えた。
「たまたま、この山域で修行していたのだろう。あの一刀が引き起こした『心念の波動』が、彼のところまで届いた」
彼は中年武士を見据え、その名を口にした。
「大和・柳生宗厳――石舟斎」
柳生宗厳の名が、山道の空気を一段と冷たく引き締めた。
彼は敵意をまとってはいない。だが、その在り様そのものが「無意こそ至高」であった。
「お主の剣、いずれの流派にも属さぬようだな」
宗厳は平坦な調子で言う。
柳澈涵は答えた。
「我が用いるは、心」
「心剣――澄心一刀流」
宗厳は小さく頷く。
「一昨夜の一刀、お主は人を殺すこともできたはずだ。だが選んだのは、意図を断つこと……それが、私がここへ来た理由だ」
柳澈涵は沈黙を保った。
宗厳は続けた。
「『不殺の殺』を成し遂げたということは、お主の技がすでに化境に達している証左。しかし、お主の心は――」
彼は一拍置き、声を沈める。
「あまりに冷静で、あまりに絶対的だ。温度のない物差しで、この世のすべてを測っておるように見える」
「それが、いけないことだと?」
「絶対性を持った理知は、時に、むき出しの殺意よりも危険となる」
宗厳はゆっくりと刀を抜いた。
音も風もない。抜き放たれた刀身には一筋の寒光すら差さず、まるで影そのものが持ち上げられたようであった。
彼は切っ先を柳澈涵へと向ける。
「確かめに来たのだ――この『心剣』を振るう者が、果たして『人』か、それとも感情なき『理』かを」
風が再び止む。
柳澈涵の手が、静かに柄を握りしめた。
「それは、私が手を出さねば分かるまい」
宗厳は頷いた。
「その通りだ。さあ、お主の『心』を見せてみよ」
十歩の距離が、一つの時代を隔てるかのように遠く感じられた。
宗厳は踏み込まない。構えも取らない。ただわずかに半身になり、刀を自然に垂らす――陰流の「無拍子」。
予兆なく、蓄勢なく、型もない。
柳澈涵は、生まれて初めて真正なる「無相の剣」と向き合った。
彼は一瞬、目を閉じる。
心静まれば、万象は明らかとなる。
「……稀有なるものだ」
柳澈涵は古井戸のように一切波立たぬ宗厳の心を、静かに称賛した。
次の瞬間、彼は動いた。
電光石火の一撃でも、鋭利な斬撃でもない。
極めて軽く、極めて淡い一式――澄心一刀流・三式『奪心』。
刀を斬るにあらず、肉体を斬るにあらず、「意図」を斬る一刀である。
その刹那、宗厳の視線が初めて揺らいだ。
「心剣……か」
彼は低く呟く。
柳澈涵の刀は宗厳の身体を狙わない。
空気を斜めに裂き、何もない虚空を「叩く」ように振り下ろされた。
その一点――そこがまさに、宗厳が次に踏み出そうとしていた一歩の位置であった。
宗厳の瞳に、稀に見る驚愕の色が閃く。
「お主……私の『未発の念』を見たか?」
「そこが、あなたの次の一歩の場所だ」
半息ほどの沈黙。
そして――宗厳は消えた。
真に姿を消したのではない。影すら置き去りにするほどの神速で移動したのだ。
柳澈涵の目が輝く。宗厳の剣は、予想をはるかに上回っていた。
――陰流・影走。
宗厳は瞬時に彼の右背後へ現れ、落下する刀勢が襲いかかる。
柳澈涵は足捌きを誤らず、鞘ごと刀を後方へ回して、それを受け止めた。
「キィン――」
金属の澄んだ震鳴。
空気が爆ぜ、二人の強大な心念の波紋が重なり合って、山林全体を奇妙な「静滞状態」へと巻き込む。
風は止み、鳥の声は途絶え、木の葉の落下さえも緩慢になったかのように見えた。
その静謐の中心で、凡人たる佐吉は、嵐の核へ吸い込まれた塵芥のようであった。彼の足音は剣意に押し潰され、一片の音も立てられない。呼吸のリズムは二つの巨大な気場に強制的に同調させられ、自身のものではなくなっていく。
彼の存在感は、恐るべき二つの力に完全に覆い隠され、「不可視」の状態へと追いやられた。
やがて――
宗厳が、半歩だけ退いた。
柳澈涵は刀を納める。
宗厳は彼を見つめ、初めて深く息を吸い、そして初めて、心底からの微笑を浮かべた。それは鋭利でありながら、誠実な笑みであった。
「……想像以上に手強い。お主の心剣、すでに三分の真髄を得ておるな」
宗厳は刀を鞘に収め、平静だがきわめて重大な口調で言う。
「柳澈涵。お主に殺気がないのは良いことだ。だが、その絶対的な理知は、乱世にあって道を踏み外せば、どのような殺戮人形よりも恐ろしい存在となる。感情を介さず、すべてを裁断してしまうからだ」
柳澈涵は短く沈黙したのち、一言だけ返した。
「剣は無情。用いるは人」
宗厳は頷き、深い眼差しを向ける。
「その言葉を忘れるな。お主が将来、信長に従うことになれば……天下は、お主ら二人によって極限まで揺さぶられるであろう」
そう言い残し、宗厳は踵を返して去っていった。足音は最後まで生じず、最初から存在しなかったかのようである。霧が再び閉じ、山道は静寂を取り戻した。
佐吉が震えながら姿を現した。
「澈涵……今の人は……」
柳澈涵は淡々と言う。
「天下一流の剣術家だ。真に剣を解する人だよ」
彼は宗厳が消えた方角を仰ぎ見た。
「今日より、私の剣には、一人の証人ができた」
遠くの密林で一部始終を目撃していた隼人組の二人は、とっくに剣気に押し潰されて身動きもできず、背を冷や汗で濡らしていた。
彼らは理解していた。
自分たちは今、史書に載せるに足る「無声の驚雷」を目撃したのだと。
――翌朝。
空が白み始める頃、稲葉一鉄は書院にて、戻った隼人組を引見した。
鬼門から生還したかのように憔悴しきった二人が、膝をついて跪く。
一鉄は叱責しない。ただ静かに問いかけた。
「……仔細を」
隼人甲は震える両手で、徹夜でしたためた密報を差し出し、山中で目撃した戦慄すべき「心戦」の顛末を、一五一十、恐怖をにじませながら報告した。
密報の要点は、一文字一文字が重鎚となって、一鉄の心を打ち据える。
「柳澈涵の行跡は無痕に等しく、高深なる心法を修めている疑いあり」
「山林に第二の絶世の剣者現る。陰流宗家――柳生宗厳(石舟斎)と確認」
「宗厳殿は偶々この山中で修行中であり、柳澈涵が一昨夜放った『不殺の刀』の波動に感応し、試探に来たものと見られる」
「両名は心念をもって交鋒し、互角。二股の絶世の心息が重なり衝突したことで、周囲の環境は静滞状態に陥った。同行の凡人・佐吉の痕跡は完全に抹消され、ただ巻き込まれし者となる。属下らは三十歩外にて剣意に圧迫され、近づくことも動くことも能わず」
「此の光景、人力にて強行突破するは不可能。属下ら不才ゆえ、撤退を余儀なくされた」
一鉄は報告を聞き終え、密報を読み終えても、長く口を開かなかった。
書院の空気は凝固したかのように重く、息を吸うことさえ難しい。
ややあって、彼はゆっくりと密報を閉じ、かつてないほど重い表情で呟いた。
「二十歳そこそこの若造が、一昨夜は兵を血刃に染めることなく乱局を鎮め、昨日は、たまたま近くにいた柳生宗厳を直々に引き寄せ、心戦において互角に渡り合った、だと……」
その声には、隠しきれぬ震撼が混じっていた。
「柳澈涵……奴は、もはやただの武者ではない。奴は――『心の種』だ」
脇に控えていた氏家卜全が、思わず声を上げる。
「殿、あの柳生宗厳といえば、世事に関わらぬことで有名な御仁。それがなぜ、無名の小僧のためにわざわざ姿を現したのです? こ、これはいささか尋常ではございませぬ!」
それまで沈黙を守っていた安藤守就が、重々しく口を開く。
「卜全殿、それこそが柳澈涵の恐ろしさを物語っておるのだ。奴が放ったあの一記『不殺の刀』――その境地の高さが、あの隠龍の追い求める剣の極致に触れたのであろう」
一鉄は頷いた。その眼差しは、すべてを透かし見るように深い。
「守就の言う通りだ。重要なのは、柳生宗厳がなぜ来たかではない。柳澈涵がその一撃を受け止め、あの宗師から『認知』――それも警戒を帯びた認知を得た、という事実だ」
彼は立ち上がり、窓辺へ歩み寄って南方に連なる山々を見やる。
声は低く、だが力を帯びていた。
「これほどの心智と武力を持ちながら、殺戮の欲望を理知によって極めて精密に抑え込める青年……それが何を意味するか、分かるか?」
氏家卜全と安藤守就は顔を見合わせ、互いの眼に驚愕の色を見た。
それはすなわち、柳澈涵がほとんど隙のない、完璧な『変数』であることを意味していた。
一鉄は深く息を吸い込み、第二の密命を下す。その口調は、昨夜にも増して断固としていた。
「伝令。柳澈涵のいかなる素性も洗い出す作業は続けよ。だが――」
彼の眼光は刀の切っ先のごとく鋭くなり、二人を射抜いた。
「二度と、奴に手出しをするな。たとえ目の前にいたとしても、ただ『見る』に留めよ。決して手は出すな」
氏家卜全は呆気にとられる。
「な、何故です?」
一鉄は首を振った。声は氷のように冷たい。
「まだ分からぬか。『不殺』を成し得る人間は、ただ殺すことしか知らぬ人間より、はるかに対処が難しい。美濃は今、風前の灯火だ。これ以上、そのような恐るべき敵を増やすことは、自ら死を早めるだけよ」
彼は背を向け、白み始めた空を見上げた。その声には、深い無力感と、それでもなお抗おうとする覚悟が交じり合っていた。
「柳澈涵……奴は、もはや我らが随意に扱える駒ではない」
「奴は、真の破局者だ」
一陣の寒風が吹き抜け、書院の灯火を吹き消した。
闇の中、稲葉一鉄の双眸だけが暁光を映し、複雑かつ深遠な光を湛えていた。
美濃の暗流は、この無声の驚雷の中で、ついに本格的に湧き上がり始める。
そして、あの白髪の青年の影は、一歩また一歩と、嵐の中心――尾張へと近づいていった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
第六話にて、主人公・柳澈涵は戦国最強の剣豪・柳生石舟斎と邂逅しました。
これをもって、彼は名もなき浪人から、戦国の裏社会における「無視できない変数」へと昇格したことになります。
※作中の表現について補足
「静滞状態」や「気配の消失」は、魔法や妖術ではありません。
極限まで研ぎ澄まされた武芸者たちの「心気」が環境に与える圧力を、観察者(隼人組)の視点から描いたものです。
本作はあくまで「地に足の着いた歴史小説」として、人間の可能性の極致を描いていきます。
さて、美濃での種まきは終わりました。
次章より、舞台はいよいよ信長の本拠地――尾張・清洲城へと移ります。
柴田勝家、丹羽長秀、そして……歴史を動かす綺羅星のごとき武将たちが、柳澈涵を待ち受けています。
次回、「尾張編」開幕。
どうぞお楽しみに!
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