第五十九話 清洲小朝会・影見、天下を試す
数日後、本丸・小広間。
雪の光が長い窓から差し込み、障子に広く薄い白をひろげている。広間に敷かれた畳の数は多くはない。今日は大軍議ではなく、尾張の行く末を実際に決める顔ぶれだけが、静かに集まっていた。
織田信長はいつものように上座に座り、獅子紋の羽織を肩に引っかけ、手には粗い陶器の茶碗を持っている。茶碗の湯面には障子の白が映り、茶の香りが淡く立ちのぼる。
柴田勝家、丹羽長秀、森可成、前田利家が左右に並び、木下藤吉郎は一段下がった席に控えていた。背筋を真っ直ぐに伸ばしながらも、あえて存在感を目立たせぬよう押さえている。柳澄涵は地図の近くに座り、前には使い込まれた何枚かの紙を広げている。そこには美濃一帯の川筋と山脈が描かれていた。
「美濃のことよ」信長が、茶碗で軽く机を叩く。
「はっ」柴田が立ち上がる。
「永禄八年は、焦らんでよい」信長は言った。「去年、竹中のあの城を奪って返し、龍興の胸の内は既に乱れておる。我らは、柳の策に従って、川辺と山道に、少しずつ駒を置いていけばよい」
視線が柳澄涵に移る。
「いつになったら、盤ごとひっくり返すべし――お前はどう見る?」
「もう一年、様子を見るべきでしょう」柳澄涵は、紙に描かれた木曾川に指先を置く。「深い淵は、人を隠す場所。浅瀬は、人に踏ませる場所。今年は浅瀬を試し、誰が、どこまで深みに足を入れるかを見る年です」
「その年に、お前は城を出るというわけか」柴田が眉をひそめる。「この時期にか?」
「逃げるのではありません」柳澄涵は淡々と返す。「遠くから、この風を吹かせている者を見に行くのです」
信長が低く笑った。
「もう少し、はっきり言ってみろ」
柳澄涵は目を上げ、地図の上で視線を滑らせる。木曾川から北へのぼり、長良川を越え、その先の、広がる水面へ。
「近江には、大きな水があります」彼は言った。「浅井、六角、寺社――皆がその水を囲んで石を打っている。さらに向こうには、京という城下がある。将軍家の命運はまだ尽きていませんが、三好はその人を隅に追いやっている。堺には、商人たちが火縄銃と糧道を握っている。いずれ、堺から清洲へと通じる道が一本、通るでしょう」
「この一年は、その者たちの顔を見てくる。誰が真の主か、誰が空っぽの殻か、誰が金にしか頭を下げぬかを、確かめる旅です」
丹羽が、わざとらしく何でもないことのように口を挟んだ。
「柳殿が残していく策は、尾張を守る者が読んでも分かるように、書いておいてもらわねばなりませんな」
「だから昨夜、その巻物をそなたの机に置いておいた」柳澄涵は言う。「水路、山道、村々、寺社――どこに蔵を建てるのに適し、どこを堀にするべきかまで、はっきり書いておいた。もし分からぬところがあれば、利家に見てもらうがよい」
利家は咳払いをひとつし、口元に浮かぶ笑みを抑えきれず、わずかに口角が上がった。
それでも柴田は、なおも眉間の皺を消さない。
「影見が一年も尾張を離れれば、その隙を狙う者も出ましょう」
「心を持つ者は、京にいようが目の前にいようが、いつだって何かを企む」信長が冷たく遮る。「奴がそばにいる時も、お前たちは奴を疑った。奴が一年いなくなった時こそ、お前たち自身が試される。もう一組の眼がなくとも、清洲を守りきれるかどうかをな」
柴田は黙りこみ、しばしののち、重く「はっ」と答えた。
藤吉郎はずっと頭を下げていたが、このとき顔を上げ、地図と柳澄涵を見比べてから、思わず口を開いた。
「もし先生が旅先で、足りぬ雑用がありましたら……」彼は言う。「この木下、手紙の一つでも頂ければ、尾張と美濃の間を走り回る足ぐらいには、お役に立てるかと」
利家が鼻を鳴らす。
「まずは殿がお命じになった仕事を、尻尾を巻かずに走り切ってからにしろ」
信長は楽しそうに笑った。
「尾張と美濃の間を、骨の髄まで走り込んでおけ。いつか柳が京で人手を欲しがるとき、お前は自然と呼ばれるさ」
藤吉郎は慌てて平伏した。
「ははっ」
会が終わりに近づいた頃、信長はようやく、真正面から柳澄涵を見据えた。
「この一年、お前が見るのは天下だ」彼は言った。「だが忘れるな。出ていく場所は、清洲だ」
「私の歩く一歩一歩は」柳澄涵は静かに応えた。「すべて、清洲のための道試しです」




