第五十八話 澄斎の新風・幼虎随行
永禄八年(一五六五年)正月、清洲の雪はまだすっかりはけてはいなかった。
城西の横町の突き当たり、澄斎の軒先に下がる門松が、冷たい風にかすかに揺れる。松針に結ばれた赤い実が、風に押されてぶつかり合い、細かな音を立てた。
朝の庭でいちばん先に温まるのは、人の気配だった。
阿新は夜明けとともに井戸端で水を汲み、桶にひとつかみ塩を投げ入れて、腰を折って縁側の板をこすっている。阿久は台所で米を研ぎ、味噌を煮て忙しく立ち働き、鍋蓋がときどき跳ね、熱気が隙間から立ちのぼる。弥助は乾いた薪を抱えてあちこち走り回り、耳まで真っ赤にしながら、ときおり爪先立ちになって先生の部屋の襖をうかがっていた。
佐吉は、昨夜ようやく書き上げた帳面を閉じて、ていねいに戸棚へしまいこんでから、ようやく身なりを整える。
城の石垣の向こうから、ようやく陽が一筋の白い光をのぞかせたころ、澄斎の襖が音を立てて開いた。
柳澄涵が、素朴な色の羽織をまとって部屋から出てくる。白い髪は細い紐でゆるく後ろに束ねられ、額にはらりとかかる幾筋かが、冷たい風に揺れた。
「先生、新年おめでとうございます」
佐吉がいち早く身をかがめて挨拶する。阿新と阿久も、慌てて手を止めて頭を下げた。弥助は薪を抱えたまま、声を聞くなり慌てて薪を縁の下に置き、膝から崩れるように板の上に正座した。急ぎすぎて、額を打ちかけるところだった。
「本年も、どうぞご指導のほどを」佐吉が言う。
柳澄涵はうなずき、ひとりひとりの顔を順に見ていった。
「今年は」彼は静かに言った。「お前たち自身を、多く教える年にする」
朝餉が済み、庭の片付けも一段落したころ。
柳澄涵がふいに呼んだ。
「弥助」
ちょうどかまどに薪をくべていた弥助は、その声にびくりと手を震わせ、小枝を落としそうになる。慌てて薪を脇へ放り出すと、小走りで縁側に来て膝をついた。
「はい!」
声にはまだあどけなさが残っている。
「背が伸びたな」柳澄涵は彼を見て、抱えてきた薪の細い腕にも目をやる。「薪の抱え方も、去年よりはだいぶしっかりした」
弥助の耳はさらに赤くなった。笑うべきか、真面目な顔をすべきか分からず、結局、無理に顔を引き締めて「う、うん」と答える。
「今年――」柳澄涵は言葉を区切るように、ゆっくりと続けた。「私は、しばらく遠くへ出る」
庭にいた者たちの手が、同じ瞬間に止まった。
「美濃ではなく?」佐吉が思わず口にする。
「違う」柳澄涵は首を振る。「尾張を出て、近江を見、京を見、堺を見る」
井戸端の阿新の手から、木桶が「がつん」と井戸の縁に当たる音がして、慌てて支え直した。
「一年ばかりだ」柳澄涵は続ける。「来年の春頃には戻る」
軒下を抜けていく風まで、ひと呼吸、静かになったようだった。
「家は、人が守らねばならん」柳澄涵は佐吉の方へ向き直る。「帳面はここにあり、人もここにいる。澄斎という一つの息を、誰かが見張っていなければならない」
佐吉は深く息をのみ、目を伏せた。
「承知いたしました」
これはただの「留守番」でも「帳付け」でもない。博奕場の風向き、城下のうわさ、美濃や近江から流れ込む話――そのすべてが、まず彼のところへ落ちてくる。
「幸蔵は外で、我らの目を広げてくれている。お前は、この家で我らの心を守れ」柳澄涵は言う。「尾張で何かがおかしくなれば、お前たちの方が私より早く気づく」
佐吉は、ぎゅっと唇を結んでうなずいた。
「承知しました」
柳澄涵はようやく、弥助の方を向く。
「お前はどうだ?」彼は聞いた。「家を守るか、それとも一緒に来るか」
弥助の喉が、ごくりと上下した。
まだ九つを少し越えたばかりの年だが、背丈はぐんと伸びてきている。だが、体つきはまだ線が細い。あの夜、先生が自ら竹中半兵衛を送り届けた話を聞いて以来、彼は刀を振るたびに、壁にかかる澄心村正をちらちらと盗み見ていた――いつか、自分も清洲を出ていかなければならないと、どこかで分かっている。
「ぼ、僕は……」膝の上で握った指先に、力がこもる。
井戸端の阿新は、思わず口を出したくなったが、阿久に目で制される――今回は、この子自身に言わせる番だ。
「先生と一緒に、行きたいです」弥助はついに顔を上げた。声は強ばっていたが、引くことはなかった。「もう少し大きくなれば、先生と一緒に歩ける機会は、もっと少なくなります」
唇を噛み、小さな肩をぐっと張る。
「ここに残って刀を振るのは、先生が戻るのを『待つ』ことです。でも、僕は、待つだけにはなりたくありません」
庭に、一瞬の静けさが落ちた。
柳澄涵は彼を見つめる。その目には、かすかな笑みの気配が宿るが、口元には出さない。
「そうか」彼はうなずいた。「では、一つ聞こう」
「はい」
「私について来るのは、斬り合いだけを見たいからではないな」
「はい」弥助は歯を食いしばる。「先生が、人をどう見るかを、学びたいからです」
言葉は拙いが、芯は外していない。
傍らで聞いていた佐吉は、そっと胸をなで下ろした――弥助のこの旅立ちは、血の上りだけではない。
「よし」柳澄涵はうなずいた。「ならばこれからは、道だけでなく、刀だけでなく、私の言葉、人の目つき、この一年で出会うすべての顔を、心に刻め」
弥助は、こくりと大きくうなずき、小さく「はい」と返事をした。
「で、俺は?」阿新がたまらず口を挟む。「先生、俺は連れてってくれないんですか?」
「お前たちは、ここで飯を食わせる役だ」柳澄涵は淡々と言う。「この鍋の火が消えぬよう、誰かが見ていなければならん」
阿新は口をぱくぱくさせたが、けっきょく頭をかいて笑うしかなかった。
「じゃあ……飯をうんと上手く炊いて、先生が帰ってきたときに食わせてあげます」
阿久は一つため息をつき、すぐに笑う。
「なら、たっぷり炊かなきゃね。来年までには、きっともう何人か、食べる口が増えてるよ」




