五十六話 清洲年終酒・彼に一年を許す
年の瀬が近づくと、本丸では例年通り「年終酒」が催される。
対外向けの大宴ではなく、城内の腹心の武将と近習たちだけで盃を酌み交わし、「この一年はどうだったか」を言い合う場だ。
今年の清洲は、例年よりいっそう明るかった。
もともと大城というほどではないが、数年前に大改修を済ませたおかげで、余計な陰や綻びが少ない。
日が暮れると、本丸のあちこちで灯がともり出し、高いところから眺めれば、暗い田野の上に、ぽつぽつと無数の小さな火が刺さっているように見える。
柴田勝家、丹羽長秀、林秀貞、森可成らが先に到着し、順に席についた。
木下藤吉郎は例によって忙しく立ち働き、片方の足で後ろ髪を蹴られる猿のように、ひとつは台所へ料理の催促に走り、ひとつは酒を替え、利家に蹴飛ばされては「猿、酒ばかり注いでないで自分も飲め」と笑われる。
「前田殿の懐ならいくら飲んでも平気でしょうが、私はそうはいきません。」
藤吉郎はぺこぺこと頭を下げる。
「私が潰れたら、明日どなたが上様の前で人の顔を覚えるんですか。」
座はどっと笑いに包まれた。
ほどなくして、織田信長が獅子の紋の羽織をまとって座敷に現れた。
皆が立ち上がって拝礼すると、彼は軽く手を振ってそれを制し、そのまま上座に腰を下ろした。
「今年の雪は、そうひどくはない。」
信長は何気なくそう言った。
「きっと上様が来年お動きになるのを待っているのでしょう。」
利家が笑い、杯を掲げる。
「さもなければ、今年一年があまりに平らかすぎます。」
「どこが平らかだ。」
信長は鼻を鳴らした。
「稲葉山の一件など、竹中に一度、先に城門を叩かせてやったようなものだ。来年、木曾川・長良川の両岸には、いやでも幾度か血の色を見ることになる。」
そう言ってから、ふと目をめぐらせ、席の端の白髪の若者に視線を止めた。
「柳。」
柳澈涵は席から少し身を乗り出し、控えめに頭を下げる。
「ここに。」
「あの巻き物は、書き上がったか。」
「明日、本丸へお届けできます。」
柳澈涵は答えた。
「ただ、紙の上の局面だけでは、所詮、実地の風景には及びません。」
森可成が笑いながら口を挟む。
「この数年、柳殿は清洲の隅々まで歩き尽くしておられる。足の裏が城に根を張ったんじゃと噂されてますよ。まだどこへ見に行き足りないと?」
「井戸ばかり覗いていては、よその波風が見えません。」
柳澈涵は信長を見上げた。
「永禄八年の美濃は、紙の策どおりに運べば、いくつかの石を安々とこじり出せましょう。ですが、その先は、美濃一国だけでは済みますまい。」
座がわずかに静まる。
この数年、尾張を取るのに皆それぞれ骨を折ってきた。
心の底では「まず美濃を取り、それから先のことをゆっくり考えればよい」と思っている者も少なくない。
柳澈涵の一言は、その先の景色を、いきなり遠くまで引き延ばして見せた。
「一年、外を歩きたいと申すか。」
信長の問いは率直だった。
「永禄八年の一年をお借りして、」
柳澈涵はまっすぐに答える。
「近江、京洛を一巡りし、今の人心がいかなるものか、自分の眼で確かめとうございます。」
「美濃の戦が片付かぬうちに、先生までお出ましになられたら──」
利家は眉をひそめた。
「清洲のほうは……。」
「清洲には、」
柳澈涵は彼を見る。
「前田殿も、丹羽殿も、柴田殿もおられる。猿は足を使い、佐吉は屋を守る。私がいなければ、諸将がご自身でどう歩かれるのかを、よりはっきり拝見できます。」
言葉だけ取れば手厳しいが、そこに侮りは微塵もない。
柴田勝家は鼻を鳴らした。
「言うは易いものだ。」
だが丹羽は笑った。
「むしろ一度、見てみたいものですな。柳殿がいつも本丸の側に座っていては、やがて我らは、上様の顔より柳殿の顔色ばかり見るようになるやもしれぬ。」
下座の藤吉郎は、黙って耳をそばだてていた。
犬山から津島まで、この数年、自分が尾張中を駆け回ってこられたのは、多くの場合、柳澈涵が先に道筋を示してくれたからだ。
その柳先生が京と近江を見に行くとなれば──
自分という猿にも、そのうちもっと高い木に登る機会が巡ってくるのではないか。
そんな興奮が、名残惜しさといっしょに胸の底で静かにくすぶる。
信長は盃を取り上げ、酒面に揺れる光を覗き込んだ。
「永禄八年、その一年は、ゆるしてやる。」
やがて、そうゆっくりと言った。
「永禄九年、お前はきちんと清洲へ戻れ。」
「はは、上様。」
柳澈涵は深く頭を垂れた。
今の一言で、その一年分の「空白」が、信長自身の口から認められたことになる。
席上にはたちまち様々な声が飛び交った。
感嘆する者、笑って冗談めかす者、密かに算盤を弾く者──一年後、柳澈涵が戻ってきたとき、清洲はどのような姿になっているのか。
信長はただ淡々と酒を飲み、瞳の奥に、かすかな光を宿していた。
この影見を手放す危うさを、知らぬはずがない。
それでもなお、彼は分かっていた。
「天下を見る目」を求めるなら、その目に、尾張一隅の天だけを見せていても仕方がないことを。




