第五十五話 澄心軍略録・水を以て界を試す
この一巻は、来年の美濃のために書くものである。
数か月前、竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取り、約定どおり主君に城を返した一件は、今や尾張と美濃のあいだで語り草になっていた。
竹中の才気と自負がさせた見せ物だと言う者もいれば、斎藤龍興の狭量ゆえに必ず禍根となると囁く者もいる。
中には、尾張のために密かに肝を冷やす者もいた──美濃というこの絡まり切った麻糸が、いったい、いつになったら本当に解きほぐされるのか、と。
柳澈涵はそうした声を耳に入れはしても、紙の上に残したのは、ただ数行の文字だけだった。
「永禄八年、美濃には『以水試界』の策を行うべし。」
木曾川、長良川、揖斐川──三本の大河は、すでに図上で何度となく往復しながら線を引き直している。
「まずは河を守り、山を争わず。」
その脇に、彼はそう書き添えた。
河を界とし、関を鍵とし、糧道を綱として、美濃の周りをじわりと締め上げる。
稲葉山あの一城を、慌てて丸呑みしようとする必要はない。
城下の者たちが一年を通して「日が短くなった」と感じるように仕向けておけば、永禄九年には、斎藤家の息の根を止める役回りを買って出る者が、おのずと現れてくる。
そのほか、紙面にはいくつもの名が、別途、細かく記されていた。
「安藤・長井・稲葉、年内二度の探りを入るるべし。ただし追い詰めて殺すには及ばず。」
「近江への逃れを望む者には、一筋の道を残すこと。」
「浅井家・六角家の動き、近習して観る者を要す。」
どの文字も細く控えめに書かれているが、この巻全体の「眼」にあたる部分だった。
筆を収めると、彼は少しだけ顔を上げた。
視線は梁に沿って室内を一巡し、そのまま清洲城、本丸、重臣たちの屋敷をひとつひとつ心の中で歩き抜け、尾張の境を越えて、遠く湖と山のある方角へと抜けていく。
廊下で刀の稽古を終えた弥助は、まだ呼吸の乱れが残るまま、そっと中を覗き込んだ。
「先生。」
「入っておいで。」
弥助は襖を開け、畳のへりぎりぎりに膝をそろえて座り、両手を膝の上に置く。
「この字は、どのくらい読めるようになった?」
柳澈涵は竹簡を少し回し、弥助にも見えるよう角度を変えた。
弥助は目を細めて文字を追い、まず「水界」の二字を指さした。
「これは……水辺の『水』と、境い目の『界』。」
「では『以水試界』は。」
「川を境い目にして、誰が……誰がその境いを越えてくるか試すこと、でしょうか。」
弥助は考え込んでから、恐る恐る答える。
「だいたい合っている。」
柳澈涵は頷いた。
「覚えておけ。一年のあいだは、人の本城を無闇に攻め落とす必要はない。まずは、誰が自分から城を出てくるかを見るんだ。」
弥助は分かったような分からないような顔で、それでも力強く頷いた。
「来年は、」
柳澈涵は彼を見つめた。
「お前がずっと清洲にいるとは限らない。」
弥助ははっと顔を上げ、目を丸くする。
「今からあれこれ考えるな。」
柳澈涵は竹簡を巻き取りながら言った。
「時が来たら、そのときもう一度、お前に訊く。」
そう言って、文案を片付け始める。
指先で紙の端を撫で、一年かけて紙の上に敷いておいた道筋を、ひと巻き、またひと巻きと折り重ねていった。




