第五十四話 澄斎歳暮記・軒と「場」
永禄七年(一五六四年)臘月、清洲の風には、少しずつ年の匂いが混じり始めていた。
城西に近い一本の横町、その突き当たりにある澄斎の軒先には、今年ひとつ、新しい影が増えている。
阿新が廊下にしゃがみ込み、松の枝と南天をいく束かまとめて、簡素な正月飾りに仕立てては、門の楣の両側にあいた古い穴へ差し込んでいく。
去年は人から借りてきたぼろ縄でどうにか形にしたが、今年使っているのは、城内の絹問屋で買った細い紐だ。色は目立たないが、去年よりずっと丈夫そうだった。
「阿新、少し傾いてる。」
佐吉が庭の真ん中に立って見上げる。
「外から見れば、右が半寸低く見えるぞ。」
阿新はぶつぶつ言いながらも、大人しく位置を直した。
「今じゃあんたの目、町奉行よりうるさいよ。」
台所から、洗い終えた根菜を盆にのせて阿久が出てきて、口ではからかう。
「先生の後ろをくっついて歩いてた頃、誰があんたが軒の飾りまで気にするようになると想像したかね。」
佐吉は帳簿を脇に挟んだまま、ふっと笑った。
「軒の飾りが斜めなら、外から一目見て、中の連中の心が乱れてるのも分かる。」
言い方は淡々としているのに、そこはかとなく「家令」の風格がにじむ。
彼が澄斎で年を越すのは、これで三度目だ。
移り住んできた当初、庭には老松が一本、古井戸が一つ、少しばかりがらんとした回り廊下があるだけだった。
今では軒下に簡易な木棚が増え、干した大根や魚がずらりと吊るされている。土蔵の前には新しい木箱が置かれ、中には紙と筆が半分ほど詰まっている。廊下の隅には、弥助が自分で削った、少し歪んだ初めての木刀が立てかけてあった。
手許に多少の余裕ができ、人の心も次第に落ち着いてきた。
賭場はこの一年、順調に銭を吸い込み、幸蔵は例年どおり臘月半ばに帳簿を提げてやって来た。
初めて会った頃の、追っ手から逃げ回って山中に潜んでいた痩せ狼のような姿からは想像もつかないほど、いかにも「現場慣れ」した骨太さが増している。
「今年は卓の数、倍どころじゃ済まねえ。」
幸蔵は廊下に腰をおろし、熱い茶をすすりながら頭をかいた。
「ひとえに、先生が最初にくれたあの知恵のおかげでさ。」
「先生はなんて言ってた?」
佐吉が帳簿を繰りつつ尋ねる。
「覚えてらあ。」
幸蔵はごつい指を一本立て、宙に線を引くようにして見せた。
「客に本気で身上を潰させるな。庄家に本気で地獄を見せるな。いちばん大事なのは──『場』が人の厄を被ってやる場所であって、人の命の借金をこしらえる場所じゃねえってことだ。」
刀傷だらけの顔に冬の斜陽が差し、笑うと妙に朴訥な気配が出る。
「だから、あんたはああやって、負け過ぎた奴を外に放り出すのか。」
佐吉は笑った。
「この前も、幸蔵殿は情け容赦がないって愚痴りに来た御仁がいたぞ。」
「好きに愚痴らせときゃいい。」
幸蔵は気にも留めない。
「はっきり覚えさせるんだ。あの賭場は清洲の『場』であって、斎藤家の巣じゃねえってな。」
言葉づかいは荒いが、柳澈涵がかつて言った「耳目たる者には、風雨を凌ぐ力が要る」という一言の意味を、その半ばは掴み取っている。
そこへ、弥助が木刀を抱えて庭の向こうから駆けてきた。
息が整い切る前に、まず幸蔵に深々と頭を下げる。
「幸蔵殿!」
「おう、小僧。ことしは刀の腕前はどうだ。」
幸蔵は、汗で色が変わった古綿入れ姿を眺め、目を細めた。
「そのうち先生から二日ばかり借り受けて、夜の見回りでも手伝わせてもらうか。」
弥助はぶんぶん首を振り、それでも嬉しさを隠しきれずに笑いかける。
「先生が……まだ、人の心が読めねえって。今は刀筋だけ見てろって。」
脇で聞いていた阿久が噴き出し、口を挟む。
「子ども脅かすんじゃないよ。先生が本気で『貸す』なんて言ったら、この子、嬉しくて寝られやしない。」
庭に笑い声が満ち、張り詰めていた寒気が少し和らぐ。
廊の紙戸一枚隔てた向こう側、澄心村正が木の刀掛けに静かに掛けられている。鞘の艶は灯火を受けて柔らかな光を返していた。
室内では幾巻もの竹簡が低い机いっぱいに広げられ、その端を押さえた文鎮のそばには、まだ乾き切らぬ筆跡がいく筋も残っている。
柳澈涵は筆を握る手を一度止め、部屋いっぱいに薄く漂う墨の匂いに、ふっと息を吐いた。




