第五十二話 山脊伏殺・解結回鋒
山腹の闇の中、いくつかの火花が突然灯った。
火が見えたときには、もう矢が飛んでいた。
藤吉郎が短く叫び、身をかがめて盾を持ち上げる。前列の足軽たちも一斉にしゃがみ込み、狭い山道に「ガチャン」と木盾の壁が築かれる。同じ瞬間、幸蔵は野太刀を鞘から抜き放ち、一歩前に踏み出して胸を狙った一本の矢を、刀身で叩き折った。
木片が彼の頬に飛び散り、鋭い線を残す。だが気にしている暇はない。
「伏せろ!」
幸蔵が怒鳴る。竹中はすぐに身を伏せ、老僕はその上に覆いかぶさるようにして、体ごと山肌へ押しつけた。
火の明かりを背に、刺客たちが森の中から躍り出てくる。地面に降り立つより前にすでに刃を抜き放ち、そのまま隊列の中央――二つの影へと切っ先を向けている。
この夜、柳澈涵が選んだのは折勢ではなかった。
折勢は目の前のひとりに向ける技だ。折るのは、その者の立脚である。
だが今は、山道のあちこちから幾筋もの刃が迫っている。立脚はとうに乱れ、混沌としている。誰の勢を折ればよいというのか。
ゆえに彼は、別の一式を用いた。――解結。
解結とは、刀線を一本一本追う術ではない。ひと塊になって押し寄せる殺気の「結び目」を見抜き、それを解きほぐす術である。
山の斜面から、一人の刺客が斜め上から斬りかかってくる。その刀勢は猛然たるもので、山間でよく用いられる殺し技――高度と重力、自らの体重をすべて載せた一刀の圧殺である。
その瞬間、柳澈涵はすぐには飛び込まない。
わずかに横へ一歩身をずらし、刀光を自らの眼の端で見送るような位置に出る。
彼が見ているのは、この一団のうち、誰が先頭で、誰がそれに続き、誰の呼吸が乱れ、誰の足取りが一番沈んでいるか――。
その殺気の塊は、彼の目には、太さも張りも異なる何本もの綱がぐるぐると絡み合ったものに見える。
本当に首を絞めるのは、その中でもっともきつく締まった一本だけだ。
(まずは、その一本を抜く。)
刺客の刃が目前に迫った刹那、柳澈涵は初めて刀を動かした。
澄心村正を斜めに持ち上げ、刃ではなく刀背で相手の手首を軽く叩く――折るのではなく、手首に「噛みついていた」力をふっと緩めるように。
その一撃は驚くほど軽い。しかし、ぴんと張り詰めた弓の弦を指先で弾いたようでもあり、張りつめた気勢の芯をそっとずらした。
刺客の刀勢は、途切れはしなかった。前へ進む力はそのまま、ただその「必ず斬り伏せてやる」という執念だけが、ほんの僅かに緩んだ。
その極わずかな隙に、柳澈涵は身を捻り、刃を相手の刀脊に沿わせるようにして滑らせながら、「導く」。
刃先は半尺ほど外へ逸れ、隊の外側に突き出た岩角を叩き、火花を四方に散らした。
刺客の足元はその衝撃でバランスを崩し、身体ごと同僚の刀筋へと飛び込んでいく。後ろの男は慌てて刃を引くしかなく、狭い山道の中で二人の動きが絡まり合い、瞬く間に姿勢が崩れる。
これが「解結」の第一手――最も締まった一本の綱を緩めて、周りの綱へと絡ませる。
間髪入れず、二人目の刺客が側面の斜面から飛び下りてきた。刀の一文字斬りが横から薙ぎ払われる。
柳澈涵は先ほどの男を追いはしない。半歩後ろへ下がり、道を譲るように身体をずらしつつ、腰の高さから刃を持ち上げ、刀柄と鍔の境目を、そっと横からはじく。
そのひと撥ねで、横薙ぎは無理やり高い軌道へと押し上げられる。刃先は柳澈涵の頭上を通り過ぎ、そのまま前方へ――先刻足をもつれさせていた仲間の肩甲の上に、見事な一撃を叩き込んだ。
血飛沫が闇の中で弾け、悲鳴が風を切る。
「よしっ!」
幸蔵が吠えた。それはまるで合図を待っていたかのようだ。
彼の剣筋には柳澈涵のような洒落た角度取りはない。ただ、露わになった隙に向かって、全身の重みを載せた一刀を叩き込むだけだ。その刀勢には派手さこそないが、重さが尋常ならざるものだった――この数年、場を仕切り、喧嘩を止め、棒や木材を振り回し続けた結果の力が乗っている。転がった刺客のひとりを、刀ごと乱石の中へ叩き込む。
藤吉郎は盾を縮めるように足軽たちの列をまとめながら、自らも刀を振るった。練兵場のときとは違い、今は笑いも演技もない。各地を駆け回る中で身につけた小賢しい工夫を、一つ残らず生き延びるために使う――脇をかすめる一刀をやり過ごしたと思えば、その勢いのまま足を蹴り出し、相手の膝裏を狙って蹴り折る。そのまま崩れ落ちた身体が、後ろの足軽の槍先へと自ら突っ込んでいく。
柳澈涵は乱戦の中を移動していく。その一歩一歩は、まるで見えない糸を手繰り寄せるように、ぴたりと「次の線を引ける場所」に置かれていた。
彼は誰かひとりを執拗に追うのではなく、この乱れた綱の束の中で「次に一番きつく締まる一本」を見ている。
あるときは刀背でそっと叩き、竹中の胸を狙った直線の一撃を半寸だけ逸らし、そのまま隣の刺客の肋を目がけて真っ直ぐ走らせる。
あるときは肩で軽くぶつかり、一人の突撃の方向を変えてやる。その男はたまらず足軽の列の中へ転がり込み、すでに槍を構えて待ち構えていた者たちの餌食となる。
解結の剣は、一見すれば人を斬る刀には見えない。追っているのは血肉ではなく、「絡まり合った動き」そのものだ。
しかし、その塊がひとつひとつほどかれていったあとに地に伏している者は、ただ闇雲に切り結んだときよりも、はるかに多い。
乱石の斜面の下からは、転げ落ちた石の音がひっきりなしに聞こえてくる。血の匂いが冷たい風に薄く引き伸ばされていく。
倒れる者が増えれば増えるほど、立っている者の足もとが萎える。揺れる火の光に照らされた顔には、一様に驚愕が浮かんでいた――振り下ろしたはずの一刀が、いつの間にか仲間の背中を裂いているのだ。
「やめろ!」
林の奥から怒号が飛ぶ。だがもはや、止められる勢いではない。
そのとき、他の者たちよりも明らかに腰の据わった刺客が、木立の陰から静かに歩み出てきた。半面の面頬で顔の半ばを隠し、双眸だけが露わになっている。
「城を奪って、また返す。」
彼は口を開いた。その声は冷たい。「そんな所業は、恩を忘れた裏切りだと、誰かが言った。俺たちは、その言葉と、この命令だけを受け取った。」
柳澈涵の刀先はわずかに下がり、その足元を見た――その足はがっしりと地を掴み、わずかにつま先が外に開いている。長く山の中を動いてきた者の立ち方だ。
複雑に絡まった綱はすでに、ほとんど解きほぐしてある。残っているのは、目の前でぴんと張っているこの一本だけ。
「お前たちが受けたのは、山の恩か。それとも、人の怨か。」
柳澈涵は問う。「もし山の恩だけなら、わざわざ今夜、このひとりの首を取りに来ることはなかったはずだ。」
刺客は鼻で笑った。
「綺麗ごとだな。尾張の連中だって、手を血に染めていないわけじゃあるまい。」
「だからこそ、分かる。」
柳澈涵は静かに言う。「真に恩を与える者は、自分の安眠ひと晩のために、お前たちに骨を晒させたりはしない。」
短い問答だったが、殺気はかえって鎮まりつつあった。
面頬の下の双眸が、じっと彼を見据える。
視線が、山道に散らばる死体と、呻き声を上げる負傷者へと移る。さらに、その周りを固めている小さな隊形――盾の壁は崩れておらず、槍先も揺らいでいない。竹中を護る刀の輪も健在だ。
「退け。」
一言吐き捨てると、その男は先に闇へと身を翻した。周りの刺客たちも、それに呼応するように、影の中へと姿を消していく。なかには傷を負い、足取りの鈍い者もいたが、幸蔵の一刀がその刀身を半ばまで削り取ると、その反動を利用して転がるように林の奥へと逃げ込んだ。
乱石の下には、石が転がり続ける音だけが残る。
山風が再び梢を通り抜け、揺れていた火がひとつ、またひとつと消え、星明かりがもう一度顔を出した。
幸蔵は荒い息を吐きながら、袖で顔の血を乱暴に拭う。自分の血だけではないことに、ようやく気づく。野太刀の刀身には新たな刃こぼれが刻まれ、その分だけ一層凶悪な面構えになっていた。
「先生、さっきの何刀かは……。」
彼は未だ抜けきらぬ興奮と殺気を瞳に残したまま、柳澈涵を振り返った。
「あれは人を斬る刀ではない。人を救う刀だ。」
柳澈涵は静かに刀を鞘に納める。「本来なら俺たちの首に巻き付いてくるはずだった綱を、先にあいつらの手元へと解き返しただけのこと。」
そう言ってから、竹中へと向き直る。
「竹中殿、ご無事かな。」
竹中は、肺の底まで冷たい空気を吸い込んでようやく、長い一局から自分だけ外へ出たような感覚を覚えた。深く頭を下げる。
「忝くも……。」
「稲葉山でお前が俺に渡したものの一部は、今夜返した。」
柳澈涵は淡々と言う。「残りは、近江でゆっくり返してもらうさ。」
竹中は小さく笑った。その目の奥には、どうしても消えない真剣な色が宿る。
「ならば、少しでも長生きせねば。」
夜明け前の冷え込みは一段と厳しくなる。だが山路の果てには、すでにほのかな明かりが射し始めていた。




