第五十話 澄心一刀流・折勢断鋒
高台の上で、粗焼きの茶碗が卓を軽く叩き、短い音を立てた。
「柳。」
武将たちの視線が、一斉にその白髪へと注がれる。
柳澈涵は静かに立ち上がり、袖を正すと、場の端の方へ出て、高台に向かって一礼した。だが膝をつくことはない。
「柳澈涵、御上様の御下命、謹んで承る。」
この「影見」に対し、信長は常々「同じ席に坐する者」として遇してきた。このときも、わずかに頷いてみせたのみで、その礼に応えた。
「下りて歩け。」
「今の清洲の剣が誰のものか、新たな美濃者どもにも目に焼き付けさせてやるがよい。」
柳澈涵は承知の意を示し、歩みを速めることもなく場の中央へと出る。四方に軽く一礼してから、顔を上げた。
「業前は粗雑にて。皆々、笑ってご覧くだされ。」
人の波の後ろから、年嵩の武士がひとり静かに進み出た。
こめかみには霜を帯び、鎧は古びていながらも、隅々まで行き届いた手入れが、その持ち主の気質をよく表している。腰の太刀は鞘から半寸だけ抜かれ、その刀背は使い込まれて鈍い光を帯びていた。先ほど若い弟子が槍使いと打ち合っている間、この男はずっと周辺に控えていたが、その視線はむしろ柳澈涵に注がれていた――まるで、真の一刀を待ち構える目利きのように。
いま、彼は深く身を折り、一礼して口を開く。
「先刻は、拙門の若輩がその場に居合わせ、すでに遠目ながら教えを賜りました。本日はもし叶うならば、間近にて澄心一刀流の一式を拝見いたしたく。敗れるは本望にて候。」
言葉に卑しさはなく、鋭さを行間にそっと忍ばせている――己が敗れることを認めた上で、それでもなお、この一刀がいかにして人の「勢」を折るのか、この目で見届けてやる、という覚悟の響き。
柳澈涵はわずかに笑みを浮かべた。
「では、そのお言葉に甘え、手前からも一太刀、お相手願いましょう。」
左足をわずかに前に送り、身体を僅かに斜に構える。右手は柄に添えられ、構えは極めて質素――ただそこに立ち、人の話を聞いているに過ぎぬとでも言うかのようだ。
彼を知る武将たちは、一目で見抜いた。
今の柳澈涵は、あの名高い「破念」でも「断線」でもなく、澄心一刀流の別の一式――「折勢」を用いようとしている、と。
折勢とは、相手の刀の「刃」そのものを折る術ではない。立ち位置そのもの、立っている「方向」を折る技である。
館主は大きく息を吸い、鋭い掛け声とともに先に斬りかかった。
それは長年、弟子に稽古をつけるなかで磨き上げた真正面からの一刀。肩から腰へと斜めに落とし込む軌道で、全身の力を一本の綱のようにねじり合わせ、そのまま上から圧し掛けていく。冬の薄陽の中で、刀光が一筋の冷たい線を引き、柳澈涵の側頸を正面から狙う。
この一刀が並の武士に当たれば、命こそ繋がっても、深手は免れないだろう。
柳澈涵は、ほんの半拍遅れて動いたように見えた。
右足を斜め前方へ半歩運び、つま先をわずかに外側へ向ける。身体は退ったようであり、退いていない。腰の線だけが、ひそやかにわずかな角度を変えた。
その回転は、刃を受け止めようとする動きではない。自分が「刀の前に立っている」向きを、ほんの少し外側へとずらしただけ――正面から受けるはずだった刀を、側面から「眺める」位置へと移ったに過ぎない。
同じ刹那、彼はようやく刀を引き抜いた。澄心村正が鞘を離れる音は驚くほどかすかで、まるで寒竹が雪を割る小さな音のよう。
その刃は、相手の「綱」を断ち切るのではなく、その小さな綱を支える足元――相手の小腿の外側へと斜めに走った。
館主は直前まで、柳澈涵が正面から自らの刃を受け止めに来ると踏んでいた。だが次の瞬間には悟る。自分の力はまだ前へと押し出されているのに、その支えとなる足はすでに横へ「折られて」いたのだと。
「……ぐっ。」
膝が外側へ抜け落ちる感覚が走り、身体の中心を貫いていた力の綱が、唐突に虚空へ突き当たり、行き場を失った。正面へ振り下ろすはずだった一刀は、どうしようもなく姿勢を崩し、情けない横薙ぎへと変じる。
柳澈涵は左手をそっと刀背に添え、その横薙ぎを地面へと優しく押し下げた。
刀先が黄土に半寸ほど突き刺さる。
館主は片膝をついてようやく体勢を整え、背中いっぱいに汗が冷たく流れ落ちているのを自覚する。
顔を上げると、柳澈涵の刃はすでに己の肩の後ろで静止していた。わずかに押し出されれば、そのまま頸筋を撫でていったろう。
「……拙者、降参仕る。」
彼はゆっくりと刀を下げ、片膝を地に折り、額を土に着けた。
速い剣先を受けたことは数あれど、「勢」が途中で真っ二つに折られる感覚を、ここまで鮮烈に味わったのは初めてだった。足はなお前へ歩もうとしているのに、身体は横倒しに倒れ込まされる――折られたのは刀ではなく、自らの立脚点だった。
場の空気が一瞬、息を呑んだように凍りつき、それからようやく細い呼吸が解け始める。
この一式に目立つ派手さはない。柳澈涵は力を誇示することもなく、刃に血を塗ることすらしなかった。だが戦場を見慣れた武将たちには、すぐに理解できる。先ほどの一刀が乱戦の只中であれば、館主の足が折れ、身体が横へ流れたその瞬間、後列のどの槍先でも容易く貫き得たことを。
前田利家は無意識に自らの脚を撫でた。あの美濃の山道で、この先生の背中について登ったとき、脊髄の奥に走った冷たい感覚がふと蘇る。
「これこそが、折勢というものか……。」と低く呟く。
藤吉郎は口を大きく開けて笑ってみせたが、いつものような愛嬌のある笑みにはならなかった。
(自分のあの「人を見て力を借りる」小賢しさなど、この、一足で根元を蹴り折る冷静な一刀の前では、まだまだ子供の遊びに過ぎぬ。)
胸の内でそう認めざるを得ない。
柳澈涵は刀を納め、まず館主を抱き起こした。
「先生の刀、お見事。」
館主はその手に支えられて立ち上がる。掌の温度は高くない。しかし得も言われぬ安定があった――足をどこに置き、どこまで歩むかを始めから思い描いている者の手である。
高台では、信長が茶碗を卓に置き、目尻をわずかにほころばせた。
「よい。」
たった一語。それだけで、この日の試鋒はひとつの印判を押されたも同じであった。
黄昏が迫るころ、練兵場の人の波は徐々に引いていった。金の木瓜丸紋の旗は冷たい風の中でわずかに身を縮める。だが尾張のこの一日の「試しの鋒」は、ここにいた者たちの胸に、三種三様の鋭さを刻みつけたままだ――真正面から陣を押し開く槍、力を借りて遊走する刀、そして立脚から人そのものを折り裂く剣。
いつかまた戦場で、美濃軍の中に今日ここにいた顔ぶれを見つける日が来るならば、そのとき彼らの心の内で、清洲の黄土に刻まれたこの試鋒の記憶が、必ずや一度鳴り響くことだろう。




