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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第五話 観局の夜

ついに美濃三人衆さえも、柳澈涵リュウ・チョウカンという「異物」の存在に恐怖し始めました。

信長とその随員たちが去り、あの白髪の青年――柳澈涵リュウ・テツカンもまた、背を丸めた佐吉をともない、静かに山道の彼方へと姿を消した。


稲葉山城は再び、古びた石と湿った木が沈殿させる、陰鬱な静寂へと沈み込んでいった。


だが、本丸の深奥では、三つの灯火だけが、今宵に限っていつもより長く揺らめき続けていた。


そこは稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就の三人が座す密室である。


三人は三角形を描くように腰を下ろし、互いに挨拶ひとつ交わさない。


皆、分かっていた。今夜語るべきことはただ一つ――あの青年は、一体何者なのか。


油灯の炎が揺れ、稲葉一鉄の鉄石のように冷硬な面を照らし出す。


彼が口火を切った。


「……あの若造、ただ者ではない」


 氏家卜全が鼻を鳴らす。


「当然だろう。俺なら、とっくに斬り捨てている」


 安藤守就は古狐のように目を細め、くつくつと笑った。


「お前は斬ることしか知らん。見ることを知らんのだ。今日のあの場で奴が吐いた幾つかの言葉――あれを思い出すたび、未だに枕を高くして眠れんわ」


 稲葉一鉄は二人のやり取りを遮らなかった。


 この二人に腹の中の火気と不安を吐き出させなければ、その後の肝心な判断が鈍ることを知っていたからだ。


 彼は半眼を保ったまま、やがて静かに言葉を継いだ。


「今日、あの青年が口にした一言一句は、適当な出まかせではない」


 彼は庭先で柳澈涵が放った重要な論断を、一つずつゆっくりと反芻はんすうしていく。


「昨夜の件は『さつ』ではなく、『たん』だ」


「織田を最も憎む者は、あのような手を使わない」


「真に信長を恐れる者は、自ら手を下せない」


「誰かが暗殺の混乱に乗じ、斎藤家の反応を試そうとした」


「美濃の権力構造は収縮している」


 一つ復唱するたびに、氏家卜全の眉間の皺はさらに深く刻まれ、安藤守就の顔色には陰りが増していく。


 稲葉一鉄の声は平坦だが、その響きは巨石のように、聞く者の胸をじわじわと圧迫した。


「――奴は、我らが言いたくなかったこと、言えなかったことを、全て代わりに口にしたのだ」


 稲葉一鉄はゆっくりと目を開き、密室の壁に走る古い木目を睨みつけた。


 その視線は、まるで数十年前、斎藤道三の時代に渦巻いた権謀術数の残像をなぞっているかのようだった。


 やがて、彼は一つの結論に辿り着く。


「あの青年は……ただの来訪者ではない。観局者かんきょくしゃだ」


 氏家卜全が眉をひそめる。


「どういう意味だ?」


 稲葉一鉄は答えた。


「奴は織田家のために弁明を求めに来たのでも、美濃と友誼を結びに来たのでもない。奴が見ていたのはただ一つ――『美濃が、いま手出しできる状態か否か』だ」


 安藤守就が目を細める。


「つまり――信長は、美濃を呑む気か?」


 稲葉一鉄は淡々と続けた。


「信長はいくつだ? 二十そこそこだろう。だが、あの青年はさらに若い。二十歳前後だ。その年で、あれほど老獪ろうかいな眼を持ち、あのような言葉を吐くはずがない」


 氏家卜全は冷笑した。


「褒めているのか? それとも恐れているのか?」


 稲葉一鉄の眼光が刃のごとく鋭さを増す。


「奴の目の付け所は、お前や私よりも冷徹だ」


 密室は、凍りついたように静まり返った。


 たった一人の青年が、美濃の実権を握る三人衆を、深夜までここに縛りつけている。


 しかも議論の主題は「いかにして彼を殺すか」ではなく、「どれほどまで彼に見透かされたか」だ。


 それ自体が、戦国の常道からすれば最大級のタブーであった。


 安藤守就が、不意に口を開いた。


「一つ、腑に落ちんことがある」


 稲葉一鉄が顎を動かし、続きを促す。


 安藤守就は油灯の跳ねる炎を見つめながら言った。


「あの青年が語ったこと……あれは武士の、僧兵の、あるいは軍師の定石ではない。奴はまるで――」


 氏家卜全が言葉を継ぐ。


「物のか?」


 安藤守就は首を振った。


「いや、奴はまるで……『生まれつき構造が見えてしまう人間』のようだ」


 その一言に、稲葉一鉄の呼吸が僅かに止まった。


 彼は視線を上げ、安藤守就を見据える。


「お前も、そう思うか?」


 安藤守就は静かに頷いた。


「奴は資料にも、情報にも、斥候にも、尾張の間者にも頼っていない。ただ我々三人の立ち位置を一瞥し、会談の場での衆人の反応を見ただけで、美濃内部の亀裂を推断してみせた……あの能力、あまりに危険だ」


 稲葉一鉄は否定しなかった。


 それどころか、さらに一歩踏み込む。


「その能力は、あの『まむし』と呼ばれた先代様――斎藤道三でさえ持っておらなんだ」


 氏家卜全は奥歯を強く噛み締めた。


「貴様らは、あの白髪の若造が、我らの先君よりも恐ろしいと言うのか?」


 稲葉一鉄は低く言う。


「恐ろしいのは奴の刀ではない。奴の『心』だ」


 彼は卓を指先で軽く叩いた。


「あれは謀臣の心ではない。破局者ブレイカーの心だ」


 安藤守就が、ふと思いついたように問う。


義龍よしたつ様は……此の者の存在をご存知か?」


 稲葉一鉄は冷ややかに笑った。


「あの方か? あの方は今日、尾張の兵力すら正確に把握しておらなんだぞ。あの青年の本質を見抜けと望む方が、酷というものだ」


 氏家卜全はついに怒りを抑えきれなくなった。


「主君がそれほどまでに頼りなくて、我らはいったい何をもって信長に対抗すればよい?」


 稲葉一鉄は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


 その表情は岩のように重い。


「美濃がいずれ迎える大戦おおいくさ――勝敗を決するのは、織田家の槍や刀ではないかもしれん。あの青年の『眼』だ。あの眼に睨まれれば……我ら三人、いかに強かろうと、支えきれぬ」


 夜は更け、三人は再び沈黙に沈んだ。


 やがて、稲葉一鉄が静かに口を開く。


「この男……調べねばならん」


 氏家卜全の目が光る。


「素性を洗うか?」


「それだけでは足りん」


 稲葉一鉄の声は、冬の夜風のように低く冷たかった。


「奴の足取り、一族、剣術の流派、信長との関係――そして何より、奴が信長の真の謀臣であるか否かを、洗い出す」


 安藤守就が問いを挟む。


「もし、そうであったなら?」


 稲葉一鉄は、三文字を噛みしめるように吐き出した。


「――厄介だ」


 氏家卜全が冷ややかに問う。


「やるか?」


 稲葉一鉄は首を振った。


「今は、まだだ」


「何故だ?」


 稲葉一鉄は顔を上げた。


 その瞳には、滅多に見せぬ冷酷な光が宿っていた。


「お前たちは見誤っている。あの青年は、信長の配下ではない――」


 油灯の光がその顔を照らす中、稲葉一鉄は核心を突く一言を放った。


「奴は、信長を観察しているのだ」


 室内の二人が、同時に身震いした。


 稲葉一鉄は、ゆっくりと刀の柄に手を置いた。


「もし奴が真の破局者であるなら、信長でさえ……奴を御しきれておらんかもしれん。我らが軽々しく手を出せば、将来信長に牙を剥くかもしれぬ存在を、信長に代わって摘み取ってやることになる」


 安藤守就が頷く。


「一理ある」


 氏家卜全も、ようやく冷静さを取り戻した。


「では、我らはいま何をすべきだ?」


 稲葉一鉄は、深く南の方角を見据えた――そこは尾張の方角であり、柳澈涵が去っていった方角でもある。


 彼は低く言った。


「今……我らにできるのは、見ることだけだ。奴が次に何をするかを。奴が信長の前に立つか、後ろに立つかを。奴が再び美濃の地を踏むかどうかを」


 氏家卜全が柄を握り締める。


「もし奴が戻れば?」


 稲葉一鉄の声が、地を這うように響いた。


「もし奴が戻れば――美濃は、さらなる混沌へ沈む。戻らねば――信長は、さらに強大になる」


 彼は顔を上げ、揺るぎない視線を灯火の向こうに据えた。


「我ら全員の運命は、あの青年の次の一念に懸かっているのだ」


 三人は無言のまま、油灯が燃え尽きるのを見つめていた。


 外では、稲葉山城の夜風が吹き荒れ、冷たい木の葉を巻き上げ、むせび泣くような音を立てていた。

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