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戦国澄心伝  作者: Ryu Choukan


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第四十九話 清洲試鋒・槍刀の門

 永禄七年(一五六四年)冬の初め、清洲城西側の練兵場には、冷気が黄土の割れ目からじわじわと這い上がっていた。


 黒地に金の木瓜丸紋を染め抜いた総大旗が風に高くはためき、金丸と木瓜紋は陰った空の下で冷たく淡い光を放つ。旗影がひと掃きすると、ずらりと並んだ足軽たちの札板のような甲冑が、まるで刀光に撫でられた魚の鱗の一面のようにきらりと揺れた。


 高台の上では、織田信長が獅子紋の羽織をまとい、やや身を斜にして座っていた。指先には素朴な粗焼きの茶碗がひとつ。しかしその視線は、一度として場の中央から外れない。


 場の真ん中は黄土の地面が広く空けられ、その周りには諸家の若い武将や郎党たちが輪を作って立っていた。鎧の家紋は入り乱れてはいるが、不思議と雑然とはしていない。最近降った美濃勢の若武者たちも、さりげなくその中に混じっている。何人かは思わず織田の総大旗を仰ぎ見てから、すぐさま視線を場の中心へ戻した。


 あの殿前試し斬り以来、清洲の主だった武将たちは皆知っている――軍議の席で筆を執るあの白髪の先生は、決して「書き物専門」ではない、と。その後の美濃前線においても、彼は陣頭で号令を下し、一翼の上げ下げを動かしてみせた。ゆえにこそ、この日の練兵場の空気は、笑い声こそあれ、いつもより幾分か重く引き締まっていた。


 最初に名を呼ばれたのは、前列にいたひとりの長身の若武者である。


 軽装の鎧に身を包み、長槍を肩に担いで場の中央へと歩み出る。槍尻が地面をどんと突くと、黄土がわずかに震えた。冬の日差しは雲にすり減らされて薄く、そのおかげでかえって彼の影が細長く伸びる。


 対するは、美濃出身の若い刀士。


 その鎧は古びてはいるが、手入れが行き届き、腰の太刀の鞘が寒風の中で鈍く光っていた。かつて稲葉山城下のどこかの道場に通っていたことがあり、主家滅亡ののち流れ流れて尾張へ。近ごろになってようやく甲冑を許され列に連なる身となった。


 「元・美濃の者、中島某。今はかくのごとく尾張に帰すること叶い候。」


 彼は深々と一礼し、言葉づかいこそ丁重ながら、その双眸の奥には燃えるような闘意が深く抑え込まれていた。「かねてより清洲の槍陣、鳴り響く名を拝聞。無礼を顧みず、手合わせを所望仕る。」


 信長はその男を横目に一瞥し、短く言う。


 「行け。」


 「はっ。」


 若い槍使いの笑みはごく浅い。だが足は矢のように飛び出した。手中の長槍がひと捻りされ、風を切って鋭くのびる。狙いは一直線、相手の喉元。


 刀の男は退かない。むしろ踏み込む。太刀が振り下ろされ、刀と槍が交錯した刹那、火花が散った。その一撃は、道場で十年磨き上げた正道の太刀筋――無駄がなく、澱みもなく、微塵も濁りがない。それに対して長槍の動きもまた確かで、踏み込みと退きの一歩一歩が、きっちりと「半歩」を守り抜いている。相手の足がほんの少しでも迷えば、その瞬間には槍先がすかさず穴を刺しに来る。


 美濃の刀士は間合いを詰めようと狙い、槍の長さが死角となる距離に持ち込もうとする。しかし、その意図は早々に封じられた。槍の柄が一押し一払い、まるで門の閂のように進路を次々と閉じていく。


 「はあっ!」


 若い槍使いが一歩踏み込み、足元の土くれが弾け飛ぶ。その勢いを借りて跳ね上がり、上から叩きつけるように突き下ろす。槍先はほとんど相手の眉間に吸い込まれるかと思うほど近くまで落ちてきた。


 美濃の刀士は手首に痺れを覚え、太刀を弾き飛ばされるように斜めに打ち上げられた。自らも三歩、四歩と後退し、そのまま土の上に片膝をついて肩で息をする。


 場の端から、押し殺した歓声がどっと湧いた。


 槍使いは槍を収めて直立し、片膝を地につき、高台に向かって深く頭を垂れた。


 「御上様、恐悦至極。」


 信長は茶碗の縁を唇に当てるだけにとどめた。


 「うむ。」


 それだけ。褒め過ぎず、しかし確かに認めていることが伝わる一声。


 若い槍使いは場の端へ退いたが、その視線はなおも場の中央に留まり続ける。分かっていた――本当の試し斬りは、まだ始まってもいない。


 高台の上で、茶碗がもう一度、卓を軽く叩いた。


 「木下。」


 後列から、中肉中背の男が一気に這い出て、土に額がめり込まんばかりに跪く。


 「ここに!」


 「お前は尾張中を駆け回る足は速い。」信長は淡々と言う。「だが刀がその足について来なければ、いずれ誰かが死体を拾いに行くことになる。下りて歩いてこい。」


 押し殺した笑い声が何処からともなく広がった。


 男の頬に熱が走る。それでも引き下がる道はない。覚悟を固めて立ち上がり、自らの打刀を手に場の中央へ進む。まず高台に向かい深々と礼をし、それから振り返って相手にも礼を送る。


 今度の相手は、名門の家に連なる若い刀士だった。姿勢は真っ直ぐ、刀はまだ鞘に収まっているのに、その気配だけで、すでに圧がひと筋前へと伸びている。


 「池田家の某、無礼を致す。」


 「木下藤吉郎。」


 藤吉郎は礼を返し、柄を握りながら、あえて重心を低く構えた。「どうかお手柔らかに。」


 対手は当初、表情を崩すまいとしたが、この一言に、口元が僅かに緩んだ。胸の中に鋭く立っていた槍先のような緊張も、少しだけ抜けていく。


 刃がひらりと光り、二人の動きが噛み合う。


 池田の刀は道場で叩き込まれたまっすぐな型。起承転結が寸分違わず整っている。対する藤吉郎の刀は、どこか町場の匂いをまとっていた――足運びは一見だらしなく見えるのに、踏み込む先は決まって相手の刀の届かぬ位置。打ち込む刃も、真正面から斬り結ぶのではなく、「貼り」「乗せる」ように当てては、相手の腰の力を借りて流してしまう。


 彼は決して一の太刀を争わない。相手の攻めが一巡して力が抜けかかった一瞬を待ち、刀の背でそっと支え、なぞるようにして、その残りの勢いを元の主の身体へと返してやる。


 数合交わすうち、池田の袖には浅い切れ目が二筋走ったが、肉までは届いていない。


 「さすがに人を見る目があるというだけはある。」


 場の端で、誰かが低く呟く。「腕も決して鈍くはない。」


 最後の一合で、池田は藤吉郎が隙を見せたように見えた刹那を逃さず、ぐっと踏み込んで刀勢を押し込んだ。


 その瞬間、藤吉郎はわざと半歩ぶん身体を「落とした」。足を滑らせたように見せる。


 対手は反射的に追い打ちをかける。その急いた重心こそ、藤吉郎の狙いどころだった。左足が地をかすめ、全身が刀勢ごと斜めに回転する。刀の背を相手の刃に押し当て、下へと滑らせるようにして切り下げ、その腕を地面に押しつける。刀先は惰力に乗って喉仏の手前半寸でぴたりと止まった。


 「ご無礼。」


 彼は先に刃を引き、数歩退いて大きく息を吐く。こめかみに浮いた汗が鬢を伝って滴り落ちた。


 練兵場の周囲には、押し殺した感嘆が満ちた。老練の武将たちはよくわかっている――今の一太刀が戦場であったなら、池田には打ち返す暇は残っていなかっただろう。


 高台の上で、信長はそれらの声を聞きながらも、なお言葉を挟まない。ただ茶碗を膝の横に置き、その視線をゆっくりと、別のひとりへと滑らせた――白い髪の男が、武将たちの列の後ろに静かに座っている。ここに満ちる喧噪とは、まるで別の世界の生き物のように。


 しかし、この場にいる誰もが知っていた。本当に見るべき剣は、まだ抜かれていないのだと。

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