第四十八話 澄斎の灯の下・静水に映る山影
城での軍務に区切りがついても、その晩、柳澈涵の足はいつもどおり澄斎へと戻っていった。
澄斎の庭は広すぎもせず、狭すぎもせず。前庭の石畳は夜露でうっすらと濡れ、古松の影が斜めに地面へと落ちている。土蔵の戸は固く閉ざされ、掛け金が月の光を受けて鈍く光っていた。
廊下では、佐吉が帳簿の山に向かい合って座っていた。
油灯の光は決して明るくはない。しかし、紙の上の文字を読むには困らぬ程度には、柔らかく行を照らしている。
帳簿には米、塩、薪、油の出入りに加え、小さな書き込みがいくつも増えていた。何月何日、どの足軽隊のために干し飯を用意したか。どの演武の後で、脚を痛めた足軽に薬を届けたか。どの反物は軍装のために余分に仕立てたか。そんな、目立たぬ注記ばかりだ。
「今日の軍議で、お疲れではありませんか。」
足音に気づいた佐吉が顔を上げ、あわてて立ち上がって頭を下げた。
「ただ、山の外の話を少し多めに聞いただけですよ。」
柳澈涵は受け取った茶を口に含み、喉を潤す。「こちらはどうです。ここ数日で、誰かの腰を潰してはいないでしょうね。」
佐吉は後頭部を掻き、照れくさそうに笑った。
「柳殿に帳面を見させていただくよう言われたおかげで、やっと役に立てております。」
そして、少し真顔になる。「ただ、これを眺めていると、つい城下で刀を振っている連中のことを思い出してしまうのです。あいつらが倒れずにいられるよう、数字くらいは間違えないようにせねば、と。」
彼には、遠い大望よりも目の前の現実のほうが重かった。米は足りるか、薬は足りるか、冬までに綿入りの衣を何着増やせるか。そういったことのほうが、山の上に誰が座るかという話より、よほど切実で、わかりやすい。
土間のほうでは、阿新と阿久が木桶を片づけていた。
清洲のこの屋敷の暮らしにも、すっかり慣れている。いつ飯を炊くか、いつ庭の草木に水を遣るか、いつ廊下に灯を持って門の閂を確かめるか。その一つひとつが、日々の中で自然に身についた。
弥助は、廊先の小さな土の空き地で、馬歩を組んでいた。まだ幼い体だが、腰はしっかりと落ちている。額から汗の珠がこぼれ落ち、石畳に落ちると、すぐ夜の闇に飲み込まれていった。
「足の裏を、もっと地に沈める。」
廊下を通りかかった柳澈涵は、自然と足を止める。「走ろうとするな。速く走るより、まずは“立っていられること”のほうが難しい。」
弥助は歯を食いしばりながら返事をし、背筋をさらに伸ばした。
彼はかつて、柳澈涵にいくつかの「心の使い方」を教わったことを思い出していた。難解な言葉はひとつもなく、ただ同じことを何度も言われた。
――まずは、この立っているひと呼吸を守れ。それができてから、次のことを考えろ。
そのときは武芸の稽古の話に聞こえた。しかし今思えば、井戸端で水を汲むときも、市場を駆け回るときも、この言葉は同じように役に立っていた。
夜が更けるにつれ、屋敷の中は徐々に静けさを増していく。
柳澈涵はひとり、茶室へと足を運んだ。
茶室は狭い。灯が一つ、机が一つ、急須が一つあれば、その大半が埋まってしまう。窓の外では、老松の影が障子に斜めに映り、淡墨の筆致のように見えた。
彼はまず、竹中からの手紙を机の上に広げる。そして、清洲本丸で目に焼き付けてきた美濃の地図を、あらためて心の中でなぞった。
筆をとり、小さな紙に短い歌をしたためる。
「清洲の灯
紙の上の山路を照らす
山の中の人、まだ知らず
路はすでに向きを変えたり」
筆致は端正で、止めるところだけが、僅かに深く紙に沈んでいる。
筆を置き、脇の茶碗を手に取った。茶は少し冷めていたが、舌の奥に微かな甘みを残した。
庭の風は強くはない。遠くから、足軽の夜回りの足音が時折届く。
稲葉山城は、今も美濃の境の中に静かに立っている。夜の闇の中では、その石垣もただ遠い山の一つの影にすぎない。
だが、清洲のこのささやかな茶室で、広げられた一枚の紙の上では、その山の行く末は、すでに何度も推し量られていた。




