第四十六話 美濃の山中・城は返し、人心は戻らず
同じころ、美濃の山中に広がる景色は、清洲とはまるで違っていた。
稲葉山城の石垣は、雨に洗われてしっとりと光り、遠目には竹中が城を押さえていた前と寸分違わぬように見える。城門が再び開かれた日、斎藤龍興は華やかな装いで支城から入り、長い行列を従えてゆっくりと城へ登っていった。沿道では兵たちが「万歳」を唱え、城下の町人たちも遠くから深く頭を下げる。
ただ、その頭を下げている群衆の中に、声ほどには熱を帯びていない目が、少なからず混じっていた。
彼らはただ黙って御輿を見つめ、それぞれの胸の内で、この数か月を思い返していたのだ。
城門の守備は変わり、夜の見回りは幾分か厳しくなった。博打で騒ぎを起こす者は、以前より目立たなくなった。
税の帳面は洗い直され、いつの間にか上乗せされていた負担が、誰に告げるともなく消えていた。
町中で何度か、武士と町人のいざこざが起きたが、それも早々に鎮められ、事を構えた側がそれなりの処罰を受けた。
「竹中殿がいた時分も、悪くはなかったさ。」
路地の片隅で、誰かがぼそりと漏らす。「あれさえ大事にならなけりゃ、今よりましだったかもしれん。」
「しっ……。」
そばの男があわてて袖を引く。「そんなことは、せいぜい胸の中で考えるだけにしとけ。」
稲葉山城では、龍興が主の座に戻っていた。
その笑みには、どこか作り物めいた片意地があり、一方で「これは家中のちょっとした行き違い、すでに和解した」と言い繕いながら、裏では城中の要職をひそかに入れ替えていた。竹中と深く通じていた者たちは、目立たぬように別の部署へと回されるか、あるいは権限を削がれていく。
数日後、稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の三人がそろって登城した。
彼らは大広間で平伏するあいだも、それぞれ別の思いを胸の内で巡らせていた。
稲葉一鉄の目は冷静だった。今回の一件で、「主君が城を奪われ、竹中が返さなかったとすれば、城内はどこまで乱れたか」と、無言のうちに計算していた。
安藤守就は、より世渡りに長けている。新旧の力が入れ替わるこの局面で、いかにして自分の身を荒波から遠ざけるか、そればかりを考えていた。
氏家卜全は寡黙で、表情からは心の内が読み取りづらい。だが、竹中が城を押さえている間に行った治安の立て直しを、ひとつひとつ目に焼き付けていた。
三人は、口にすべき言葉をこの場では見送った。
しかし、この日の礼は、これまでの年とははっきりと違っていた――初めて、「主君は唯一絶対ではない」という思いを胸に抱いたまま、この本丸へと足を踏み入れたのだから。
そのころ竹中半兵衛は、すでに自領へと戻っていた。
山あいの小城は壮麗とは言い難いが、邸内は隅々まで行き届いている。
彼が床に伏しているという話は、たちまち美濃中に広まった。旧来の持病が悪化したのだと言う者もいれば、「あまりに過ぎた振る舞いに、龍興が裏で罰を与えたのだ」と囁く者もいる。あるいは、「将来のどこかで退くための口実を今から用意しているのだ」と勘ぐる者さえいた。
夜更け、半兵衛はひとり、畳にもたれかかるように座っていた。目の前には、清洲にも送ったものと同じ美濃の地図が広げられている。
机の隅には、稲葉山城を押さえていたあいだに記した要点が並ぶ紙束があり、その脇には一通の書状が伏せて置かれている。紙には、柳澈涵の筆による、短い寸評が記されていた。
「美濃の山は、高さ低さにあらず、その繋がりにこそ肝あり。
稲葉山の敗れは、石にあらず、心にあり。」
飾り気のない文だ。だが、それだけで、美濃という一国をひっくり返し、裏から眺めたような見通しがついている。
半兵衛は目を閉じる。
あの年の晩秋、山腹の小寺で、白髪の青年が白石をつまみ、自らの黒石のすぐ後ろに、何気ない一手を置いた光景が脳裏に蘇る。
あの一手は、盤面から見ればさして目立たぬ場所だった。だが、流れはそこで変わった。
「次に、あの城門が開く日が来るとしたら――」
彼は小さく呟く。「私は、そのとき、どちら側に立っているべきか。」
外では、山風が梢を撫で、木々の葉擦れがざわざわと鳴っている。半兵衛は顔を上げ、闇の向こうの稲葉山の方角を見やった。
今度の奪城と還城は、彼にとって、「いずれ来るその日」のための、ひとつの予行演習に過ぎないことを、よく知っていた。




